さようなら、初めての恋

紅林次郎は、オトメチャンとの別れより先に内地の実家に手紙を出していた――

 

その手紙を受け取った紅林の両親の衝撃はただものではなかった。彼の父親の喜重郎はその手紙を握りしめたまま「なんてことを、次郎のやつは。しかも香椎の娘とそういう…」と言って絶句した。その手紙を横からそっと取って読んだ母親の敏も「どうして…あんなに好きだった人を。お父さん広島の桜本さんになんといってお詫びしたらいいんでしょう」と言って泣き出した。喜重郎は両手こぶしを固く握ったまま動かない。

息子・次郎からの手紙には『桜本トメとの縁を解消しました。あのような娘は私には合いませんでした。実はトレーラーに来てすぐ<南洋新興>の香椎英恵さんと出会い意気投合しました。以前は積極的になれなかった私ではありますが今回は積極的に英恵さんと話ができるようになり、お互い好感を持っていることを知りお付き合いを始めることとしました。驚かれることとは思いますがもう、契りも交わしました。ですから私は英恵さんと結婚の話を進めます。広島の桜本の養家に行ったそうですがそちらには私から断りの手紙を書いておきますのでご心配なく』と言った内容が書かれていた。

「勝手なことを、なにがご心配なく、だ。…あいつ、英恵にたぶらかされたな」

喜重郎はこの発端は自分の兄のせいだと思った。兄の仙太郎がいつだったかこの家に来たときしきりに香椎英恵との縁談を勧めたがっていたのを思い出したのだ。

しかも、(契りを交わしただと!どっちも不純だ、絶対許せない)と喜重郎は思い、妻の敏に

「いいか、こんなしょうもない息子ははなっからいなかったと思うんだ!自分自身がこの人ならと決めて会社の社長に頼み込んで付き合わせてもらった人をこんなひどい形で傷つけて自分はほかの女といい思いをしようとするなど人の道に外れている!絶対私は許さん、いいなお前も次郎を許してはならんぞ、金輪際あいつはうちの敷居をまたがしてはいかんぞ!」

と怒鳴った。敏のひきつったような泣き声が部屋の空気を引き裂いた。

 

桜本トメの養家にも紅林からの手紙が届いていた。

トメの祖母も、長男の凱夫も、トメの養母のきゑ子もその手紙を卓の上において見つめたまま黙っている。ようやく祖母・イトが「こげえなことがあってええんじゃろうか」とつぶやいた。凱夫が「ええわけないじゃろ」と言いきゑ子が「トメちゃんがかわいそうじゃ」というなり泣き出した。

イトが

「あちらさんのご両親、えらい喜んで来んさったんじゃが、きっとご両親もがっかりしとりんさるじゃろうねえ」

と落ち込んだ声で言った。紅林の手紙には、自分の両親が先走ってそちらをおうかがいし話を進めたらしいがこういうわけで私からあきらめさせたということが書かれていた。

凱夫が

「逢えん時が長うていうて…なけえ他のおなごに心移すなん、漢のすることではないわい!そんとな男と添わんでトメちゃんは良かったかもしれんわい。モノは考えようじゃ、この先のトメちゃんの幸せを祈ってやろう。過ぎたことや変わってしもうたことをあれこれ考えても仕方がないけえの。ばあちゃんもきゑ子も、もう泣きんさんな。ええな」

とそれでも怒りを抑えて言った。凱夫の閉じたまぶたから、涙が流れた。イトがこらえきれず泣き伏した。

 

紅林の件は広島の本社に伝えられた。

孝太郎は、息子の進次郎からの知らせに絶句して立ち尽くしていた。妻のエイも信じられないものを見る眼付きで紅林からの手紙を見つめたままである。ようやっと孝太郎は

「あの男。自分から頼んでおいて勝手な理由で反故にするなん、漢の風上にもおけん。人の心をもてあそんで自分だけええ思いをしようとするなんぞ人の道にも外れとってじゃ。桜本さん気の毒に…わしはあん人になんと言うて謝ったらええかもうわからん。…ほうじゃ、紅林を急ぎ内地に帰還させんといけん」

というと部屋をあたふたと出て行った。部屋に残されたエイは、紅林からの手紙をつかむとぐしゃりと握り潰し

「あれほど好きじゃ好きじゃ言うとったんに…。ひどいことをしよる、紅林さん。あんたに人の心はあるんか?」

というと悲痛な声を上げて泣き出した。エイは、桜本兵曹が気の毒でたまらなかった。トレーラーに飛んで行って抱きしめてやりたいと切に思った。

 

紅林は社長、トレーラー支社長の逆鱗に触れてしまった。仲間の社員たちからも「許婚がおりんさってのに飛んでもなあ人じゃ。そがいな人とは思わんかったのになあ」とあきれられてしまった。<南洋新興>側でもことを重く見て、香椎英恵をトレーラー合弁準備室長の任を解かざるを得なくなった。<南洋新興>グアム支店長の身で合弁会社設立のためトレーラーに出向中の佐野基樹からの連絡を受けて<南洋新興>社長である英恵の父親は英恵の任を解いたものの、それでも自分の娘をかばうのに必死で『紅林と一緒に内地に帰れ、悪いようにはしない』と電報を打ってきた。

紅林と英恵は、まるで夜逃げのごとく内地へ向かう民間輸送船に乗り込んだ。

しかし、輸送船がマリアナ諸島を抜ける前大きな台風に巻き込まれ、船は二つに割れて乗員は海に投げ出されてしまい多くの死者・行方不明者を出した。

その行方不明者の中に、紅林と英恵の名前があることをーー桜本兵曹たちが知るのはこの事故からずっと後のことになる。

紅林の両親は「自業自得ということがある。次郎にはこれがそれ相応の報いだったのだろう。どこかで生きているかもしれないが、内地の土は踏めないだろう。桜本さんには次郎とのことは忘れてよい人を見つけてほしい」と言って静かに瞑目した。

英恵の父親はあまりのショックに倒れ、仕事に復帰できなくなってしまった。社長の座を、副社長だった高田兵曹の伯父という人が継いだのを彼女が知るのはそれから間もなくだった。高田兵曹はそれを聞いて

「ほうね。あん伯父さんが社長に…ほいでもうちとは関係のない人なけえね」

とふっと笑った。佐野も、「そうですよ。会社のこととあなたは全く別ですから」と言って二人は笑いあう。

 

桜本兵曹は、あれ以来あまり口を利かなくなった。どこかうら寂しい、そして冷たい目の光をたたえているようになった。艦内では「オトメチャンには元許婚の話を絶対しないこと、当たり障りのない話だけすること」という触れが出て、皆は「なんてかわいそうな、ひどい話じゃ」とひそかに涙を流したがオトメチャンにはごく普通に接している。

機関科の松本少尉や、内務科の岩井中尉などはため息をつきながらも

「こればかりは時間を待つしかなかろう。そのうちええ人が現れて気分も晴れるじゃろう、そん時を待つしかない」

と言う。

オトメチャンはそんな皆の気遣いを感じながらも(ほんまにごめんなさい、あがいな目にあわされてもうちはまだあん人を忘れられんのです。すっかり忘れる日が来るまでどうか、どうか…)と思うのであった。

 

粉々に打ち砕かれた愛のかけら、それをすっかり始末するにはそれ相応の時間がかかる。つらい時間がオトメチャンを待ってはいたが…彼女に新しい愛の気配がもう、どこかで動き始めているのも確かな話であった。

ただ、その愛にたどり着くにはもう少し時間を必要としているが――

 

            ・・・・・・・・・・・・・・

壊れた愛の後始末。その残滓を拾い集め棄てる作業はつらいですがそれをしないと前へ進めない。

そして紅林と英恵には過酷な運命が待っていましたがそれは人を裏切り傷つけた代償だったとすれば…大きすぎたのでしょうかそれとも。

いずれにしてもオトメチャン、新しい愛が待っている!捨てる神あれば拾う神あり、希望まで捨ててはいけない!!

愛の終焉

小泉兵曹は思わず紅林に怒鳴っていた――

 

紅林はその瞬間、小泉兵曹も驚くような態度に出た。彼はふーっと長い息をつくと小泉兵曹を斜から見るような格好になった。(なんじゃこのオトコ)とムカッと来た小泉兵曹に紅林は

「そうは言いますがお嬢様。わたしだってずっと待って待って…待ち続けていたんですよ。いつ会えるともしれない人をずっとね。ほいでやっとここに来て逢える思うたら肝心のそん人は作戦行動とやらでおらん。そこへきれいなおなごが来たらほりゃあ心も奪われてしまうというもんでしょう。それがいけませんかね?」

と東京弁を交えた話し方で投げやりに語った。

「なんじゃと、貴様それが許嫁のある身で言う言葉か!しかも…海軍軍人を愚弄するか!」

小泉兵曹は心底腹を立てて席から立ち上がって怒鳴った。ほかの席の客がびっくりしたような顔でこちらを見ているが小泉兵曹は構わず続けた、「貴様、うちの父親に頼んで『桜本兵曹と交際させてほしいけえどうか口利き願います』言うたんじゃろうが、それがなんね、ずっとずっと待ったが逢えんけえ心が移った?なに寝言ぬかしとってか、このドアホ!貴様のような奴、こっちから願い下げじゃ!――じゃがな、貴様のその気持ちをキチンとオトメチャンに貴様の口から伝えろよ!貴様を信じて待っとるオトメチャンには気の毒じゃがこれも試練じゃ。ええな、こっちから指定した日と時間に貴様きちんとこいや!ほいでここの勘定、あんたが払えや」

そして小泉兵曹はそのまま店を出て行ってしまった。紅林はやれやれとつぶやいて二人分のジュース代を財布から出してテーブルの上に置いた。

 

小泉兵曹は『大和』に帰ると防空指揮所にいるオトメチャンを駆け足で訪ねた。息せき切って飛び込んできた小泉にオトメチャンは驚いて双眼鏡から離れた。

「どうしたんじゃね小泉兵曹、そんとに慌てて?」

そういったオトメチャンの両肩をぐっとつかんだ小泉兵曹は怖い顔で

「次のオトメチャンの上陸日はいつじゃ?…ほうね、四日後か。ほんならその日、うちらも立ち会うけえ紅林と会うてこい。ほいで<はっきり>させてこい。ええな!」

と怒鳴るように言った。オトメチャンは紅林という名を聞いて表情をこわばらせ「…あん人と…会わんならんの?」と小さく言った。小泉は重々しくうなずき

「ほうじゃ、会うてこい。会うてあいつをよう見てこい。ほいで…答えを出してこい!ええな!」

と言った。その迫力にオトメチャンは「わかった」というよりなかった。

 

四日後。

オトメチャンは小泉に指定された店の一室に座っていた。小泉に「ここに居れ。居ったらそのうち紅林が来るけえ話をするんじゃ、ほいでさっさとさっぱりせえよ」と言われたのだ。小泉兵曹は

「うちは隣の部屋に居る、じゃけえ何かあったらすぐこっちに来るけえ安心して話をせえよ。ええか、…はっきり言うがあん男はほかにおなごがおる。それは進次郎にも確認した。ほかの社員たちもどうやら気がついとったらしい。オトメチャン、あんたほんまに気の毒じゃがここは踏ん張りどころじゃ、しっかり引導渡してこい!」

と言って隣の部屋に入りふすまを閉めた。オトメチャンはもう泣きそうな顔になりながらも(もしかしたら、もしかしたら元に戻れるんじゃないか)というささやかな期待を持ってはいる。

紅林が来たのはそれから五分ほどたってからだった。ふすまを開いた紅林はオトメチャンを見るなり顔をしかめた。

オトメチャンはそれでも微笑を浮かべると自分の前の座布団を差し出し「どうぞ」と言った。紅林はそれに座ると

「お嬢様が来いいうたけえ来たんじゃが、はあ迷惑なことじゃ。俺は忙しいんじゃ」

と独り言のように言った。その彼にオトメチャンは

「あなたのいろんな噂は聞きました。ほいでもうちは信じられんのです。あれほどうちを好いてくれて結婚の約束さえしてくれたあなたが…その、ほかの女の人に心を移してしもうたなん、信じられんのです。紅林さんどうか、どうか嘘だというてつかあさい。一時の気の迷いじゃ言うてください。ほいで…うちとの祝言のことを考えてつかあさい!」

というとその場に両手をつき頭を下げ、泣き始めた。

そのオトメチャンを冷ややかなまなざしで見つめていた紅林は「やれやれ」というと頭をごしごし掻いた。オトメチャンは涙にぬれた顔をそっと挙げ紅林を見上げた。紅林はオトメチャンをまっすぐに見つめると

「ほりゃあ、あんたを好きになってどうしようもなかった時もあった。ほいでもずうっと逢えん時が続いて、やっとここで逢える思うたらあんたは作戦行動とかでまた逢えんくなった。そこに前から知っとる女の人が来て、親しく話をしてくれた。俺の寂しい心を慰めてくれた人を好いて何が悪い?じゃろう?じゃけえ俺はもうアンタとは許嫁の縁を切る。俺はあの人と新しい生活をするつもりじゃ」

と一気に言った。オトメチャンの表情に絶望が走った。がオトメチャンはまた頭を下げると

「お願い紅林さん、うちが呉を離れるときのあなたのあのお顔、言葉をうちは一生忘れられんのです。うちの下宿であなたがうちにしてくれたこと、あれも嘘じゃったんですか!そんな、そんなこと…いきなり信じろ言われてもそんとなこと…。どうか思い直してつかあさい!ほいでどうかうちと、うちと祝言を!」

と叫んだ。

紅林の瞳に冷たい、ぞっとするような光が湛えられた。それに気が付かないオトメチャンはどうか、どうか願いますと言い続けている。次の瞬間、紅林はオトメチャンを引き起こしその胸ぐらをつかむとオトメチャンに向かい

「結婚結婚…そんなに結婚したいのか?いうか男がほしいだけなんじゃろうが、ほんならお前にくれてやろう、俺の<>を一度だけ。一度なら英恵も笑うて許してくれるじゃろう。別れるためにしたんじゃ言えばきっとあいつも解ってくれる、あいつは賢いおなごじゃけえの。どこかの生まれの卑しいおなごとは雲泥の差じゃ…さ、こいや!ほいでこれが済んだらもう俺らは終わりじゃ、ええな!」

というなり彼女をその場にねじ伏せ二種軍装のボタンを荒っぽく外した。

「紅林さん、なにするんじゃ!やめて!」

オトメチャンが叫ぶと紅林はさらにオトメチャンの着ているものを脱がしながら

「これがしたかったんじゃろう?結婚したいいうて結局はこれをしたいだけなんじゃろうが、このあばずれが!」

というと半裸になったオトメチャンを無理やり抱きしめた。いやじゃやめてと泣きじゃくるオトメチャンの体を開かそうとしたその時。

「貴様あ、なにしとってかあ!」

と怒号が響いた。ふすまがパーンと音を立てて開かれた。驚いた紅林が顔を上げてみたそこには小泉兵曹とーーその弟で、小泉商店トレーラー支社長の小泉進次郎が憤怒の形相で立っていたのだった。

「支社長!!」

と大声をあげ、慌ててオトメチャンから紅林は飛びのいた。オトメチャンはさっと起き上がりその場に落ちていた軍装の上着で体を隠した。紅林は真っ青になって

「支社長、どうしてここに居りんさるんです?」

というと小泉支社長は怒りに燃える瞳で紅林をにらみつけ

「どうしてここに、じゃと?私はすべてを知ってしもうたんですよ。あなたと<南洋新興>の香椎さんがそういう仲であるということ、そしてあなたが許嫁の仲であった桜本さんをないがしろにし始めていること、もうすべてすべて。観念したらどうですね」

と怒鳴りつけた。そして

「誰とどんな関係になろうと大人のすることですから本来なら黙認します。ですがね、紅林さんの場合は桜本さんという人がおってんでしょうが、それなのに桜本さんを裏切る真似をするなん、『小泉商店』の社員になるまじき行いです、それに桜本さんとのお話はあなたのほうから社長の孝太郎に頼んだ話言うて聞いております。それを自分の勝手で『社長に押し付けられた』ふうにいうなん、さらに社員としてあるまじき行為じゃ思いませんか?この話は広島の社長に話します。あなたは沙汰待ちです、しばらくのあいだ宿舎から出ないでください。これは支社長命令です」

と、最後は厳かに言い放ち、紅林はがっくりとその場に両手をついてしまった。小泉兵曹がオトメチャンに駆け寄り

「つらかったな、ほいでもよう頑張った。さ、服を着んさい」

と優しく言い、オトメチャンはその胸にすがると思い切り泣いたのだった。

 

紅林は、<小泉商店>の社員数名に連れられて宿舎に連行されていった。進次郎支社長はオトメチャンに

「私どもの社員があなたにとんでもなく失礼を働いて、これは私の監督不行き届きでもあります。心からお詫びいたします」

と謝った。オトメチャンは「いいえ、進次郎さんのせいではありませんけえどうかお気になさらんでつかあさい」と言い、小泉純子兵曹と一緒に海岸べりを歩いて艦に戻ろうと歩き始めた。その少し前から空一面に雲がわいて小泉兵曹は

「スコールじゃろか、どこかで雨宿りせんといけんねえ」

と独り言のようにつぶやいた。その言葉のさいごが終わらないうち雨が降り始めた。オトメチャン、と小泉兵曹はその袖を引いたがオトメチャンは雨に打たれたまま動こうとしなかった。

やがてオトメチャンは空を見上げた。幾千粒もの雨がオトメチャンに落ちかかり、オトメチャンは涙のあふれる瞳で見上げている。

オトメチャンの涙が雨の粒と一緒にその頬から流れ落ちる。小泉兵曹は言葉もなくそれを見つめるだけである。

オトメチャンと小泉兵曹はそれからしばらくのあいだ、スコールに打たれていた。まるで…つらい思い出をすべて洗い流すかのようにーー

 

                ・・・・・・・・・・・・・・・・

オトメチャンと紅林、二人は終わりました。あっけない幕切れでした。それにしても紅林のあの態度、あまりに人を馬鹿にしています。そんな紅林に何も起きないわけはないのです。次回、後日譚で明らかになります。

 

松田聖子「瞳はダイアモンド」

翻弄される愛

<小泉商店>トレーラー支社長の小泉進次郎は社員の一人から聞き捨てならないことを聞かされたーー

 

「支社長、」と社員の柴本幸三から声をかけられた小泉支社長はにこやかに振り返って「はい、柴本さん。どうなさいました?」と応えた。その爽やかな微笑みに柴本もほほ笑み返したが、表情を引き締めると

「ちいとええでしょうか。お話したいことがありますけえ」

というとその表情を見た小泉支社長は「ではこちらへ」と宿舎の私室へと彼を招き入れた。進次郎の私室はきれいに片付いていて彼の性格を物語る、その部屋に落ち着くと柴本は声をやや潜めて

「支社長はあの噂をご存知でしたか?」

と言った。あの噂、と小さな声で言った進次郎は柴本の顔を見つめると

「例の、宿舎で聞こえるという<うめき声>の話ですね?もしかしたら南方妖怪ではないかと皆が気味悪がっていたあれですね?」

と言い柴本はうなずいた。そして柴本はごくっと喉を鳴らすと

「支社長、私気が付いてしまったんです。あの<うめき声>は妖怪の仕業ではありません。あれは…あれは、生身の人の声です」

と言い切った。「生身の人の声ですか?」と進次郎の声はかすかに震えた。生身の人間の声なら、もしかしたら妖怪の声より厄介で気味が悪いのではないか。進次郎は緊張を帯びた瞳の色で柴本を見つめる。柴本は年若き支社長をひたと見つめると

「そうです。生身の人間です。実はあの時その話をしたあとすぐに声が聞こえなくなりました、どうもおかしい…と思って丘田に内々に調べさせましたら」

「そしたら?」

「なんと、<小泉()商店()>の紅林と<南洋新興>の合弁推進室長の香椎さんが」

「えっ…」

「男女の仲になっていたらしいんです。彼ら「声」の話をされてびっくりして河岸を替えたらしいんですよ。水島(ここ)の繁華街のはずれの<待合>に入って行ったと<小泉()商店()>の現地人従業員のハミラ君が言っていましたよ。彼はしっかりしてるから間違いないです」

柴本のその話を聞いて進次郎は考え込んでしまった。紅林次郎と言えば、姉の小泉純子と海兵団同期の友人の『大和』に勤務の桜本トメ海軍一等兵曹と許婚の仲ではないのか。しかもその桜本との交際は紅林の方から社長の小泉孝太郎に頼み込んで話をつけてもらったと聞いている。なのに。

「紅林さんは…桜本さんをどうするつもりなのだろう」

進次郎は遠い目をしてぽつりとつぶやいた。柴本も、そんな支社長から目を離さないでうなずいた。数瞬ぼんやりとしていた支社長だったが我に返ると柴本に

「よくわかりました。この件はほかの社員には言っていませんね?ならいいんですが、口外無用に願います。きちんと調査したうえで判断します。ともあれ情報をありがとうございます。また何か気が付いたことがあったら知らせてください」

と言って柴本は「わかりました。私の胸に秘めておきます。…ハミラ君にもほかの人に言わないよういってありますので」と言って支社長の部屋を出た。

ドアが閉まると進次郎は椅子に座り込み「ああ…なんてことだ。困ったことが起きた」と独り言ちしばらくの間頭を抱えていた――

 

元気のない桜本兵曹ではあったが勤務に差し支えるようなことがないのが、小泉兵曹たちには一層不憫に思えて仕方がない。そんなけなげなオトメチャンに紅林に女の影があるという話をするのは気が引けてならない。

小泉兵曹はそんなある晩、第一砲塔前に集まった高田兵曹・岳野水兵長・長妻兵曹に言い放った。

「うちがじかに紅林に談判する!オトメチャンをどうするんか、はっきり聞いてくる。そのうえでオトメチャンに話をしよう思うんじゃ」

おおっ、と皆はどよめいた。石川兵曹が

「ほんまになさるおつもりですか小泉兵曹」

と恐る恐るといった態で訪ねた。その石川兵曹にうんとうなずいた小泉は

「もう直談判しかあるまい?いつまでこうしとっても埒が明かんで。その上オトメチャンは紅林に大きな不信を持っとる、その不信感を払しょくするも確信させるも紅林自身なけえね。はっきりさせて、そのうえでオトメチャンに合わせて決着つけんと、もうありゃいけんで。こういうことは不審ができたらはっきりさせるんが筋じゃけえね」

と言って皆を見回した。長妻兵曹が腕を組みながら

「ほうじゃね。いつまでだらだらしとってもええことない。こうなったら小泉さん、奴にはっきり話を聞いたうえでオトメチャンと合わせて白黒はっきりつけたらええよね、そう思いますじゃろ高田兵曹?」

と高田に水を向ける。高田兵曹も腕を組み、

「ほうじゃわ、そのほうがええ。小泉さんには面倒かも知らんが大事な戦友のためじゃ。どうかよろしゅう願います。ほいでオトメチャンと会わす…オトメチャンには残酷な現実じゃがほいでもいつまで宙ぶらりんではいけんけえの。まあ、オトメチャンにとっては<大人>になるための試練じゃ思うてもらうしかないのう。つらいことじゃがね」

と言って下を向いた。岳野水兵長も

「ほうですねえ。どんとなつらい現実でも受け入れんといけん言うことはあの子自身がようわかっとる思いますし、あの子はそんとなことでどうにかなるような弱い子ではない思いますけえの。どうか小泉さんよろしゅうに願います」

と言って頭を下げる。小泉兵曹は年上でオトメチャンの従姉から頭を下げられ慌てて

「岳野さんそんとなことせんでつかあさい、うちはしっかりやってきますけえね。安心しとってつかあさい。紅林のやつを締めあげてきます…まったくええ加減な奴じゃわ、うちそんとなオトコただじゃおけんわ」

と言って息巻いた。まあまあ、と長妻兵曹が小泉をなだめたあと

「ほいじゃあ、今度の小泉の上陸日をその日に当てるいうことでええんね。ほいでそのあとにオトメチャンと会わせてしっかり話をさせると。そんときにはこの中の誰かが同席するかどこかで見とるほうがええね。まあその辺もしっかり考えとかんといけんの」

と言い皆はうなずいた。

 

小泉兵曹は上陸日の三日前、上陸する友人に頼んで弟・進次郎への手紙を渡してもらった。それには紅林を尋ねるから三日後のこの時間にこの場所に来てほしいと書いてあり、それを受け取り呼んだ進次郎は紅林を呼び、

「姉があなたを尋ねてきます。この日に逢ってください。場所は…」

と話した。果たして紅林は顔色を青くしている。動悸が胸を激しく打っているようだ。その様子を静かに観察しながら進次郎は

(やはり噂は本物ですね、でもはっきりさせないと桜本さんが気の毒ですからね。紅林さんあなた男らしくはっきりなさい)

と心の中で叱咤している。父親の孝太郎から以前に、紅林の人柄を聴かされ「紅林君がなあ、純子の海兵団からの友人を気に入っての、交際したいいうんじゃ。ええ話じゃ思うんじゃ。その友人いう人は苦労人での、ほいでもとても気持ちのええ人じゃ。じゃけえ紅林君となら、と思うんじゃ」と嬉しそうに言っていたのを思い出し、(私の父親まで裏切る気か、そんとなことさせん)と決意している。

 

三日後。

小泉兵曹は紅林を待って繁華街のはずれの小さな茶店にいた。現地の人の経営する店で小泉達とは顔なじみの店である。小泉はヤシの実のジュースを飲みながら彼を待った。やがて「――お嬢様」と声がしてそちらを見やれば紅林が立っていた。

「こっちへ来てつかあさい」

という小泉の声に素直に従った紅林は、彼女の正面の椅子に座った。店主にヤシの実のジュースをもう一つ頼んだ後小泉兵曹はまっすぐに彼を見つめると切り出した。

「紅林さん、はっきり言いますがあんた…桜本兵曹のほかにええ人ができましたね?」

すると紅林の瞳が不自然に揺らぎ、小泉兵曹は思わず

「図星じゃな!あんた、――あんたオトメチャンという人がおってのに他に女ができたんじゃな?ほんまのこと言えや!」

と怒鳴っていた。

海からの風がどうっと吹き付けてきたーー

  (次回に続きます)

 

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・

いよいよ対決の時が。

その前哨戦ともいえる小泉兵曹との話し合いが始まりましたが、すでに波乱含み。さあどうなる??次回以降をお楽しみに。

愛は乾いた砂のごとく

オトメチャンが振り向くとそこには逢いたくてたまらなかった紅林がいたーー

 

「紅林さん…」

と言ったままオトメチャンは立ち尽くしていた。二種軍装のオトメチャンの姿はだれが見ても息をのむほど美しい。がしかし、紅林の心は以前のようにときめくことはない。傍目にはどこか、オトメチャンを冷めた目で見ているような感じさえ受ける。

だが紅林に逢えたよろこびに身を浸すオトメチャンはそんなことには気が付かない。ただ、再会の喜びに身を震わせている。

「紅林さん、お久しぶりです」

やっと我に返ったオトメチャンはそういって敬礼した。常夏のトレーラーの日差しのもと、オトメチャンは敬礼の手を下ろすとやっと、微笑みを浮かべた。紅林さん、と言って一歩彼のほうに歩み寄ったオトメチャンであったが紅林は逆に一歩、あとじさった。

が、紅林は思い直してオトメチャンのほうに二歩ほど近寄った。どうやらオトメチャンはそんな彼の行動に不信を抱いてはいないようだ、紅林は内心ほっとした。(気取られてはならん)と気を引き締めた。

オトメチャンは彼の前にたつと

「あれからどのくらいたったか、うちはもう逢いとうて逢いとうて…。でもこうしてやっと逢えてうちはうれしい。ほいであの、紅林さん」

樋って恥ずかしげにうつむいた。紅林は笑顔を作りながら

「どうしたんじゃね、桜本さん」

というとオトメチャンは顔を上げて「祝言。祝言のことです。その…いつがええか思うてずっと考えとりました」と言ったのに紅林は衝撃を受けた。乾いた声で

「祝言…かね」

と言い、桜本兵曹はうなずいて「はい、今度逢うたら祝言の日取りを決めんといけんねえいうて手紙にも書いてくださったじゃないですか」と言った。

しまったことをしたと紅林は内心舌打ちした。彼の心は慌てまくって

「ああほうじゃね…いやその、つまりだね…うん、あの」

としどろもどろになっている。それをオトメチャンは男性の恥じらいではないかと思い、フフッとほほ笑むと

「そんとにあわてんでもええです。うちらもまだ内地にいつ帰れるかわからんのじゃけえ。それともここで式を挙げますか?」

と言って紅林の心はさらにびっくりして動悸が激しい。

でもその驚きやらなんやらをけっしてオトメチャンに気取られてはならない紅林は、彼女に歩み寄るといきなりのように抱きしめた。

「紅林さん…いけん」

と恥じらうオトメチャンに紅林は

「私もまだここに来たばかりじゃし、合弁の仕事がいよいよ本格的になってきたけえ式はまだ挙げられんのじゃ。桜本さんもいろいろと忙しかろう?じゃけえもうちいと先へ延ばしてもええんじゃないかね。そんとに急がんでもええと私は思うがの」

と言って抱きしめた腕を解いた。オトメチャンは自分から体を離した紅林をしばし見つめた、そして

「なんで?なんでそんとにあっさりしとりんさるんですか?前は『早う一緒になりたい』『早う式を挙げたい』いうておられたのに?なんじゃ、紅林さん変じゃわ」

と不審げな表情を浮かべて言った。紅林はそんとなことがあるわけないわい、と慌てたがオトメチャンは不審のまなざしを紅林に向けたままである。

紅林は慌てまくって

「そんとなことない、なにいうとんじゃ。忙しいいうとるじゃろ?じゃけえ式は当分なしじゃ。ええな、ならワシは忙しいけえ行くで!」

というと一散に走り去ってしまった。紅林さん!と叫んだオトメチャンを振り返ることもしないで、紅林はずっと遠くへと去ってゆく…

 

「なんで?なんでそんとに逃げるように行ってしもうたんね?紅林さん」

オトメチャンは紅林の去った方向を見つめたまま涙を流していた。二種軍装の胸に、涙がいくつもいくつも走っては足元の砂の上に落ちる。

足元の砂の色がだんだん濃い色に変わって、オトメチャンの嗚咽が高まる。どうしてどうして、というつぶやきが、なんでねなんでじゃと叫びに代わって、やがて彼女は砂の上に座り込んで号泣し始めた。

 

そのオトメチャンを発見したのは、仲間と散策していた長妻兵曹である。

長妻兵曹はヤシの樹の陰にうずくまる人影を見つけ、仲間に「あれ、誰じゃろう?海軍の制服を着とってじゃ」と言って走り出した、だんだん近づくにつれ仲間の一人が「ありゃオトメチャンじゃわ、どうしたんじゃろう」というに及び長妻兵曹は全速力で走りだした。そしてうずくまる彼女の背に手をかけ

「どうしたんね」

と抱き起すと果たしてそれはオトメチャン。長妻兵曹は「オトメチャン、どうしたんじゃね!」と大声を出し、仲間も彼女を取り囲み心配そうに見つめた。オトメチャンは軍帽もどこかに転がったまま、顔には白い砂がつき、泣きじゃくっている。

「どうしたんじゃね、オトメチャン!」

長妻兵曹は強い語調で言って両肩をつかむと激しく揺さぶった。仲間の兵曹の一人が転がったままだった桜本兵曹の軍帽を拾いそれをもってそばにしゃがんだ。それを合図のようにオトメチャンは

「く、紅林さんが。紅林さんが…」

と言って泣く。紅林がどうしたんじゃ、と問う長妻兵曹にオトメチャンは振り絞るような声で

「紅林さんはうちとの祝言をとうぶん無しじゃと言ったんじゃ。変じゃわ、今まではように祝言を挙げよういうとったんに、なんで急にそうなるん?なんでうちの顔を見たとたんそんとなことになるん?変じゃわ…」

というとその場に突っ伏し大声で泣き出した。長妻兵曹たちは、掛ける言葉すら失って泣き続けるオトメチャンをただ、見つめるだけであったーー

 

泣きそぼって『大和』に帰艦したオトメチャンを見、その詳しい話を長妻兵曹たちから聞いて烈火のごとく怒ったのは小泉兵曹と高田兵曹それにオトメチャンの従姉の岳野水兵長である。岳野水兵長は

「あれだけオトメチャンにご執心だったくせになんで今更躊躇するんか?おかしい。やはりあの時の女の人となんかあるんじゃろう」

と怒りをぶちまけ、小泉兵曹も

「そんとな男とは思わんかった。なんでここに来手連絡が途絶えたんか思うたら岳野さんの見た通りじゃな、とんでもないやつじゃ、進次郎にうちはご注進するで!黙っとれん」

と怒りまくる。高田兵曹は

「なんと気の毒なんはオトメチャンじゃ。信じて待って、ほいで結婚の日も近い思うたんにこげえなひどい仕打ちがあってええもんかい!おい、小泉兵曹。そん男引きずり出してこいや」

と吠える。

しかしこの話は三人だけの話であって、まだオトメチャンには「女性の影」の話はしていない。あまり次々にショックを与えてはならないとの配慮からである。

「ほいでもなあ」

と高田兵曹が言った、「いつまで隠しとってええもんでもあるまい?」。

岳野水兵長もうなずいたが

「ほうじゃね。しかしどういうて話したらええか、うちははあようわからん」

と頭を抱えてしまった。

小泉兵曹ははあーっと大きな吐息をつくと

「ほんまにほかに女ができたんじゃろうか。自分からオトメチャンに交際を申し込みながら、ほかに簡単に女を作れるものなんじゃろうか」

とまだ頭を抱えている。

皆の大きな吐息が、トレーラーの空に広がってゆく。

 

そんな折、「小泉商店」トレーラー支社長の小泉進次郎は気になる話を小耳に挟んでいた――

  (次回に続きます)

 

                ・・・・・・・・・・・・・

そんなばかな!

せっかく会えた二人なのに、紅林はやはり英恵に心をすっかり移し、オトメチャンを邪険にしました。その上ずたずたに傷つけてしまって…。

仲間たちも心悩ましているこの事態、どうなるのでしょうか。今後をご期待ください。

逢いたいあなた 8 解決編

機動部隊の空母四隻それに随伴の巡洋艦駆逐艦他はトレーラー水島に帰投したーー

 

『飛龍』艦内では入港に際しての点検などが行われ、安田兵曹は

「上陸は明後日以降だな。桜本さんも『大和』に帰るのはそのあとになるけど、『大和』にはちゃんと連絡行くから安心してね。それよりみんなで上陸して遊ぶのが楽しみだなあ~」

と言ってうきうきしている。

桜本兵曹もうれしそうにそれをみていたが急に(これでみんなともお別れなんじゃなあ。なんだか寂しいていけんわい)と思って視野が涙でかすんだ。でも、とオトメチャンは思い返した、(これで水島に帰ったら、紅林さんに会うことができる。紅林さん、うちはあなたに逢いたい。早う逢いたい)と。しかし『飛龍』で優しくしてくれた皆との別れは、つらい。

安田兵曹はそんなオトメチャンを見て

「いいねえ、許嫁の居る人は。喜んだ顔も憂いを含んだ顔もきれいだねえ…ああ私も早くそうなりたいなあ」

と小さな声で言った。そして安田兵曹もまたオトメチャンと別れなければならない寂しさに耐えているのであった。

 

そんなころ、トレーラー水島の目抜き通りはたくさんの海軍将兵嬢や現地の人々、在トレーラーの日本の会社の社員などでにぎわっていた。

そろそろ夕暮れ時、店店の軒下にはランタンが灯され、あるいは電灯が光り華やいだ雰囲気になりつつある。その雑踏の中を歩く一組の男女はひときわ目立っていた。海軍将兵嬢たちは

「ええねえあのお二人、お似合いじゃわあ」

「あの女性なかなかきれいね、男性も素敵。いいねえ似合いの二人」

「私もあんな素敵な人と歩いてみたい」

と目をそばだててささやき交わして通り過ぎる。それほど目立つ二人こそーー紅林次郎と香椎英恵である。二人は、すっかり意気投合して仕事が終わると待ち合わせてこうして歩いているのだ。もう四日、いや五日めになろうか。英恵は幸せそうに紅林の横について歩く。紅林も優しく英恵を見つめて歩く。

紅林は

「あなたがこんな素敵な女性になって居たなんて思わなかった。なんだ、もっと前からあなたとお付き合いしてたらよかったなあ」

と半ば冗談ぽくいってほほ笑んだ。英恵は周囲の男女がしているように、紅林の片方の腕に自分の腕を絡めると

「あら、今からだって遅くはありませんわよ。私独りですから」

と言ってこれもほほ笑んだ。すると紅林はかすかに悲しそうな表情になり、香椎英恵はいぶかし気に紅林の顔を見上げた。

「どうなさったの紅林さん…楽しくないの?」

英恵の声音さえ悲し気になって紅林は慌てた。紅林は急いで彼女を路地に引き込んだ。路地を入ると表通りの喧騒が少し遠くなった。

そこで彼は路地を先に進んだ。数分歩くともう、海辺に出た。夕日は水平線に沈み、残照だけがはるかな水平線を名残惜し気に浮き立たせている。二人は砂浜に立って残照の消えるのを見ていた。すっかり日が落ち空に星が瞬きだしたころ、紅林はやっと口を開いた。彼は英恵の両肩に手を置くとその瞳をまっすぐに見つめ

「私には、実は将来を約束した人が居るんです。その人は、海軍の下士官で…ここに停泊の大きな艦に勤務しています。でもその人は大きな作戦に出て行ったとかで、まだ帰ってきていないんです。無事かどうかさえ今の私にはわかりかねる。そんな状態なんです」

と告白した。

英恵の瞳が潤んだ。そして

「あなたにそんな人が居たなんて。許嫁がいらしたんですね。そしてその人があなたはご心配なのね」

というと切なそうに泣き始めた。すると紅林は

「でも、正式に許婚になったわけじゃないんです。まだきちんと私の親に紹介しているわけでもないんです。だから、…」

とそこまで言うと言葉を切った。英恵は彼の瞳をじっと見つめて「…だから?」と先を促した。紅林は一息大きく息を吸うと

「白紙に戻しても、かまわない」

と言った。その一言で、彼の心は一気に英恵に傾いた。英恵は彼の胸に体を寄せ、紅林はその細い体をしっかり抱きしめた。

 

『大和』では、オトメチャンの分隊もほかの分隊も

「機動部隊、投錨じゃ。いよいよオトメチャンが帰って来んさるで!話をはように聞きたいもんじゃ」

と喜び合っている。

そんな中で小泉兵曹と石川兵曹はどことなく浮かない顔つきである。石川兵曹は

「まだ桜本兵曹の許嫁いうおひとからなあも連絡がないんですか…いったいどうしてしもうたんでしょうねえ」

と言って小泉兵曹を見た。小泉兵曹も困ったような顔つきで

「もうオトメチャンが帰ってくるいうんになあ。帰ってきたらいの一番に会わせてやりたいんじゃが、本当にどうしたんじゃろうねえ?」

と言って腕を組む。石川兵曹は

「まあほいでもお相手さんも忙しいお人らしいですけえ、気にはなっとりんさるじゃろうが連絡もままならん、いうことかもしらんですよ。桜本兵曹がお戻りになるまで待ってみましょうよ」

と務めて明るく言った。そうでもないと不安に押しつぶされそうだった。その兵曹の心を解って小泉も

「ほうじゃな。忙しすぎて連絡できんいうこともあるな。まあちいと待ってみようか」

と言って笑って見せたのだった。

 

紅林はあっという間に英恵におぼれた。

英恵のすべてに。

桜本トメにはなかった大人の色香、可愛らしさ育ちの良さ。それに話術の巧みさ…それらは英恵の年齢と社会経験の年数からきているものであるが、トメにはないものばかりであった。「小泉商店」にも女性社員はいることはいたが会社経営に深く参画しているものではなく単に事務を執るだけの社員であり、英恵とは全く違う。てきぱきと部下に指令を出して現場で働く英恵は輝くばかりに美しかった。

会社こそ違っているがこんどは合弁会社で一緒に働けると思うと紅林の心は今までにないほど弾んだ。そして彼は桜本トメとの、あのささやかであったが幸せな時間を忘れ去っていた。

英恵は星明りの下、彼に抱きしめられていた。軽く身じろぎをすると彼は、英恵の頤にそっと指先を当て上向かせた。そして紅林は英恵の唇に自分のそれをそっと重ねていた。

二人のシルエットは離れることがなかったーー

 

それから三日ののち。

オトメチャンは『飛龍』に別れを告げるときが来た。見張長・河原田少尉は泣きそうになりながら

「ありがとうね。あなたのおかげで機動部隊は助かりましたし大いに面目を施しました。本当にありがとう。いつか、『飛龍』に勤務になってほしいです…またどこかで会いましょうね」

と言ってオトメチャンを抱きしめてくれた。航海長の桐橋少佐も名残惜しそうにオトメチャンを見つめ

「ね、『大和』に帰るのやめない?ここに残れるようにしてあげようか?」

と冗談とも本気とも取れるような言い方をして周囲の皆は泣き笑いになった。安田兵曹が「今夜は航海科のみんなでオトメチャンの送別会をします。歓迎会をできなくって申し訳なかったですが。航海長に上陸の許可をいただいておりますので、みんな!オトメチャンが今夜は主役だよ」と言って航海科の皆はわっと歓声を上げ「オトメチャン万歳、帝国海軍万歳!軍艦大和万歳、空母飛龍バンザーイ」と大声をあげ万歳三唱した。

 

夕刻。

オトメチャンは飛龍の皆と水島の繁華街を歩いていた。小柄なオトメチャンは皆の輪の真ん中になって歩いている。皆の背が高いので輪の外が見えないが次々に話しかけられ周囲の様子を見る余裕もない。しかし楽しいオトメチャンである。今まで知らなかった人たちとのうれしい出会い、オトメチャンは心の中で今度の<お手伝い>に感謝した。

「そこそこ、そこの見世に入ろう。オトメチャンはここ、知ってる?ここは私たちがトレーラーに来るとよく使う見世だよ」

安田兵曹の声に皆が「さあオトメチャン行くよ!ここはめしが美味いんだよ」と背中を押してオトメチャンは「ほうですか!ほんならうちたくさんいただこうかいねえ」と喜んで一行はぞろぞろ店の中に入って行った。

 

その直後。

紅林と英恵が見世の前を通って行ったのをオトメチャンは知る由もなかったーー

 

             ・・・・・・・・・・・・・・・

オトメチャンやっと水島に帰ってきたというのに。

紅林さん心変わりですか?あんまりですね。そして香椎英恵さんは本当に彼をオトメチャンから奪うつもりなのでしょうか。

この三角関係のお話はまたそのうち…。

松田聖子 ブルーエンジェル


プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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