「行ってまいります!」

 その日、彼女は皆に見送られて海兵団入団の時を迎えていた――

 

鈴原凛は、幼い時から奉公していた広島の料亭から呉の海兵団に応募し合格、いよいよ入団の時を迎えていた。その日は料亭は休みにして、旦那と女将そして大勢の使用人たちが祝賀の膳を囲んだ。凛は女将さんが若いころ来ていたという銘仙の着物を貰って、それを身に着けている。

旦那は祝いの杯を持ち

「凛。今までよう働いてくれた、ありがとう、礼を言います。そして凛の帰る場所はここじゃ。休暇が出たらここに帰ってきてほしい、そしてー」

というと片手を目がしらにそっと当て涙をこらえるようにした。凛が旦那を見つめると旦那は目頭を押さえる手を放し、凛を見てほほ笑み

「ここが凛の家で、わしらは凛の親じゃ思うてくれるな?」

と言った。そばから女将もうなずいて

「なあも遠慮はいらんで?凛の家はここじゃ、ほいでうちらを父さん母さんじゃ思うてくれたらうれしいわ」

と言ってほほ笑んだがその瞳が涙で潤んだ。凛は二人を見つめた、凛がここに来た頃怖かった旦那はいつしか恵比須様のような好好爺になっていた。

そして狐のような眼で凛をにらんで怖がらせた女将さんもいつしか信楽焼の狸のように愛嬌のある顔になっていた。

凛はそして、この夫婦に実の子供がいないということに今更ながら気が付いた。

「旦那様、女将さん…今までありがとうございました。ほいで、今度はうちの勝手を聞いてくださって本当にありがとうございました。うちはこれから一所懸命に精進して立派な海軍軍人になります。その日までどうぞ見守ってやってつかあさい」

凛はそういって頭を下げ、皆は拍手して口々に「凛、がんばれや」「凛さん、体に気ぃ付けてな」などと言って凛を励ました。

凛はそれに一つ一つうなずき、自分より年下の子供たちに

「旦那様やおかみさんの言うことをよう聞いてな、なんぞ困ったことがあったらすぐに相談するんじゃ、ええね?―今度の使用人頭はだれじゃったかいな」

というとおとなしそうな少女がそっと手を上げ「うちです」と言ったのへ

「おお、トキちゃんじゃったか。うちの後を頼みます。みんなが頼りにしとってなけえ頑張り。トキちゃんならうちより立派な使用人頭になれるで。自信をもってやってつかあさいね、くれぐれも頼みます」

と言って頭を下げた。

トキと呼ばれた少女は慌てて頭を下げて

「うち頑張ります、ほいでこのお店を盛り立ててゆけるように頑張りますけえ」

といい、旦那も女将さんもうれしそうに顔を見合わせてほほ笑みあった。

 

ささやかではあったが祝宴が終わり、いよいよ凛は呉へ向かう。

付き添いは凛が可愛がっていた少女たちの中から二人、タツと喜代である、この二人は入団を見届け、凛の私物を持って帰る役目を担っている。海兵団入団に際しては、私物は付き添いに持って帰ってもらうかあるいは小包にして自宅などへ返送しなければならない。

凛は二人を見て

「たっちゃんに喜代ちゃん、呉まで面倒じゃがよろしゅうにね」

というと二人は深くうなずいた。そして凛は見送りの店の人々を一人ひとり名残惜しげに見つめた。いろいろな思い出が彼女の頭の中を駆け巡った。

ここに連れてこられた当初の辛かったこと、父親が自分を置きざって逐電してしまったこと。旦那と女将のひそひそ話を聞いてしまい、置いてほしい一心で必死に働いたこと…。

その甲斐あって旦那も女将も一目置いてくれ、勉強もさせてくれた。読み書きそろばんは一通りできる上に女性として大事な教養もつけてくれた。

(うちの恩人じゃ、このお二人あっての今のうちじゃ)

凛は旦那と女将を見つめた。二人の瞳には涙がたたえられ今にもこぼれ落ちそうである。旦那が

「凛、元気での」

といい女将さんも

「風邪ひかんようにね、けがをしたらいけんよ、気ぃ付けてね」

といい、二人の目から涙が転げ落ちた。

凛は微笑んで

「本当に今までお世話になりました。うち、精進して立派な海軍さんになるけえ見とってつかあさい。ほいで休暇がもらえるようになったらいの一番にここに帰ってきますけえ、その時はよろしゅうお願いします」

と言って深々と頭を下げた。そして頭を上げると女将さんに

「女将さん、この着物ありがとうございます。海兵団に入るときは私物は持ってゆけませんが休暇がもらえたときまた来たいと思うてますけえどうか預かってください」

と言って女将さんは微笑んでうなずいた。

皆は別れがたく、電停までついてきてくれた。元安川の川風は今日も穏やかにそれぞれの頬を撫でた。凛は産業奨励館を見上げた。いつだったかあの若くきれいな海軍下士官が見上げたこの建物、私は今日、海軍に入るために見上げて呉へ行く。

(うち、今度来るときはあの海軍さんみとうになって帰ってくるけえ、待っとってね)

 

奨励館近くの電停について間もなく、路面電車がやってきた。

旦那はタツと喜代に「ほいじゃあ、よろしゅうな。気ぃ付けてゆくんよ」と言って二人はうなずいた。女将さんが凛の頬を撫でて「元気でね、がんばるんよ」と言った。

はい、と言った凛の後ろに路面電車が止まり、三人は乗り込んだ。

店のみんなが万歳万歳と叫んで持参の日の丸を振る。

元気でなあ、凛!と叫んだ旦那、着物の袖で涙をぬぐう女将さん。

凛は窓から身を乗り出すと大きく手を振った。そして大きな声で

「みんなありがとう!行ってまいります!―お父さんお母さん、行ってまいります!

と叫んだ。

旦那と女将の頬を涙が滂沱として流れた。喜びと、寂しさの混じった涙だった。

 

凛は皆の姿が小さくなると座席にきちんと座りしばし瞑目した。

私の新しい道が今、開けた。たくさんの人たちの応援をもろうて、うちは今羽ばたく。

そして旦那さんと女将さんはもう、うちの両親も同然じゃ。これからはあのお二人を本当の親と思うて慕ってゆこう。

(お父さんお母さん、うちを見ていてつかあさいね)

 

凛たちを乗せた路面電車は広島駅を目指し、ごとごとと走ってゆくーー

 

            ・・・・・・・・・・・・・・

鈴原凛、覚えておいででしょうか。

広島の料亭で長いこと働いていた彼女も海兵団入団です。つらいことももしかしたら今まで以上あるかもしれない海軍生活の第一歩が始まろうとしています。

そして今後、彼女はどうなってゆくのでしょう…ご期待ください。

この暑さの中見つけたもの、横須賀走水水源地の「海軍銘水」。かつて海軍さんもこの水を飲んだのだと思うと尚更おいしい!
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水入らずのとき。

山口通信長は、いくらかの着替えといとしい息子への土産を抱えて休暇のため上陸していった――

 

一週間ほどの休暇の留守中は、掌通信長の立場の浦野大尉に任せた。浦野大尉は「行ってらっしゃいませ、どうぞ休暇を楽しんでらしてください。留守中のことはご心配は無用です。私に任せてください」とその温顔をほころばせた。

山口通信長は

「申し訳ないがよろしく願います」

と言った、その通信長へ掌通信長は

「通信長は今まで休暇をおとりにならなかったんですから、お子様もお待ちでしょう。何の心配もいりませんから何もかも忘れて楽しんで下さい」

と言って山口通信長は何かほっとしたような笑みを浮かべ、上陸のランチに乗ったのだった。

通信長は呉駅から省線に乗り、広島駅を目指した。そこからは路面電車に揺られていく。

通信長の自宅は路面電車を一番西の停留所で降りそこから二十分ほど歩いたところにある。周囲は田んぼの点在する場所で心落ち着くところではある―ー姑がいなければ、の話ではあるが。

やや気の重い帰宅ではあるがそれはそれ、通信長の心は夫と息子に逢える楽しさ嬉しさで弾んだ。家への足取りも軽くなった。

夏を思わす日差しに目を細めて通信長は我が家をゆく手に認めた、駆け足になって自宅の玄関に走り込み、引き戸を開けた。そして大きな声で

「ただいま戻りました!」

と申告した。

奥から子供の足音が聞こえ、それに大人の大きい足音が混じり姿を見せたのは夫と息子である。

二人は満面の笑みで「お帰りなさい!」と言って、息子の捷彦は「おかあさん、お帰りなさい!」ともう一度言うと通信長の胸に飛び込んできた。その捷彦を受け止めて「ただいま…長いことまたせてごめんね」と通信長は瞳を潤ませた。

夫の忠彦が荷物をとって「さあ、早く上がりなさい。疲れただろう」と通信長に声をかけ捷彦が「早く、お母さん」とその手を引いた。

と、廊下の向こうから姑が歩いてきた。通信長は「ただいま帰りました」と敬礼した。すると姑はその通信長をふんと一瞥した後で

「また帰ってきよったんか。戦死したいうんはありゃ間違いだったんかね。戦死すりゃあもっとええ嫁もらえる言うンに…」

と言うと忠彦を振り向いて

「うちはしばらく和世の家に厄介になるけえ、戻らんで。顔も見とうない奴が帰ってきたけえ」

というと玄関を出て行った。自分の弟の家にゆくのだという。忠彦は母親に

「何をいきなりいうんじゃ!ひろさんは国のために働く人じゃ、その人に言う言葉か!?謝らんかかあさん!」

と怒鳴ったが姑はサッサと小走りに走って行ってしまった。

いきなりひどい言葉を突き付けられて呆然とする通信長に忠彦は「あがいなん気にせんでええ。それよりしばらくおらん言うから気楽でええわ、ゆっくり休み」と言ってくれたし捷彦も

「おばあちゃんはいつもあがいなことばかり言いよるけえ俺はもうおばあちゃんとは口を利かんのじゃ」

と言って笑った。通信長はその二人の心に感謝しつつもあまりに悔しい言葉に涙がにじんだ。

それでも気を取り直し、仏間に入って土産のカステラを仏壇の前に置いて燈明を上げた。線香に火をつけると煙は細く、しかし力強く立ち上がった。通信長は仏壇の中で微笑む前妻の写真に手を合わせ(今回もまた、帰ってきてしまいました。忠彦さんとカッちゃんをお守りくださってありがとうございます)と心の中で話しかけた。

そして後ろに座る捷彦に

「お土産ですよ。仏様にもお分けしてあげましょうね」

とカステラの箱を差出し、捷彦は大喜びでそれを台所に持ってゆく。包みを開けた捷彦は喜びの叫びをあげ、忠彦は「いったいなんじゃね。そんとな大声出してからに」と笑った。

通信長は小さな皿にカステラを一切れ載せて、仏壇に供えた。もう一度手を合わせ、(私は死んでも構いませんがどうか、この二人はお見守りくださいませね)と祈る。

 

三人は久しぶりに親子水入らずで茶を喫した。カステラはことのほか捷彦を喜ばせ、通信長はうれしかった。

二人とも『大和』の話を聞きたがったので通信長は話せる範囲のことを一杯話してやった、ほかにも外地の話、珍しい食べ物や植物の話。そして一番捷彦が目を輝かせたのは

「おかあさんのいる艦には三匹の動物がいるんよ」。

マツコ・トメキチ・ニャマトのことで通信長はカバンから手帳を取り出すと、三匹と通信長・航海長・副長で写った写真を手渡してやった。

捷彦は「なんじゃろう、珍奇な生き物じゃねえー」と感心しきりで写真を見つめている。そして

「ねえおかあさん。いつか俺もこの動物たちに会わせてくれますか?」

と尋ねたので通信長は微笑んで「会わせてあげますとも。きっとこの変な鳥やトメキチニャマトも大喜びしますよ」と言って捷彦は喜んだ。

 

その晩は通信長の手料理で食卓はにぎわった。忠彦も捷彦も大喜びでたくさんお代わりをしてくれたのが通信長にはとてもうれしかった。

「ごちそうさま」を言い終えた後捷彦は

「今日はとっても嬉しいな。だってお母さんがいるんだもの。あのねおかあさん。俺はおばあちゃんと一緒にご飯を食べるのが本当は嫌なのです。何にもお話しできないし、黙ってご飯を食べるのは寂しいもの。お父さんは患者さんが終わってからじゃないと一緒に食べられないし…でも今日はとっても嬉しい!」

と告白し、通信長も忠彦も息子の本音を垣間見て、彼を痛ましく思った。

「カッちゃん。ごめんね…おかあさん一緒にいてあげられなくって」

通信長は心から息子に謝った、が捷彦はあわてて

「違うのおかあさん、俺はお母さんを責めとらんよ?お母さんはお国のために一所懸命戦っとるんじゃもん、俺の誇りじゃ!じゃけえそんなこと言わんで?ね?お母さん」

と言ってうつむいてしまった通信長の顔を覗きこんだ。

その捷彦を抱きしめて通信長は「ありがとう、ありがとうねカッちゃん…」としばし泣いていた。忠彦も瞳を潤ませる。

通信長はやがて顔を上げると捷彦を見つめ

「ねえカッちゃん。カッちゃんはこんなおかあさんでいいの?」

と尋ねると、捷彦はしっかり正面から通信長を見て言い放った、

「俺は、このお母さん()いいんじゃ!」。

 

捷彦は通信長と一緒に風呂に入りご満悦で眠りについた。

その次の間で久しぶりすぎるほど久しぶりに夫婦は布団の上にいて見つめあっていた。通信長は

「いつもご迷惑をかけてごめんなさい。カッちゃんにも寂しい思いをさせて、おかあさまにも…」

とそこまで言うと今日の姑の激しい言葉を思い出して嗚咽を漏らしてしまった。忠彦は静かに妻を見つめている、その視線を感じて通信長は顔を上げると

「あなたは私と結婚して本当に幸せですか?もっと、本当に幸せになれるお相手がいたのに…私を押し付けられたんではないんですか?」

と必死な表情で尋ねた。

通信長との結婚話と同時に、忠彦にはもう一つの縁談があった。忠彦の母親、つまり通信長の姑が持ってきた縁談で相手は看護婦の女性で忠彦には遠縁にあたる女性だった。

開業医を営む忠彦には、本来ならうってつけの相手だったろうに忠彦は「わしはこっちの人の方がええ」と通信長との見合いをし、そして結婚をした。

それが姑の今に至るいびりの原因なのだと忠彦も通信長も思っている。

忠彦は通信長の手をしっかり握ると

「ひろさん。わしはあなたの写真を見て一目で気に入ってのう、じゃけえこの人と見合いをしよう思うたんじゃ。逢うてみたらいよいよわしの気に入ってしもうて、――そうじゃ、わしはひろさんに惚れたんじゃ。じゃけえ、押し付けられたのほかに幸せになれる人が居ったはずじゃのいわんでくれえ。わしは心からひろさんに惚れた、じゃけえ一緒になった。それが真実じゃ」

と言ってほほ笑んだ。通信長は

「私で…よかったんですね」

と涙をこぼしながら言うと、忠彦に抱きすくめられた。忠彦は彼女の耳元で

「ひろさん()…よかったんじゃ」

と言って通信長を布団の上に押し倒したのだった。

 

久しぶりの夫婦は、しっかり互いの想いを確かめあっている――

 

                  ・・・・・・・・・・・・

 

最低のことを言う姑でしたが夫と子供が通信長の防護壁になってくれているようです。

「あなたでいい」というより「あなたがいい」と言われる方がうれしい。ちょとした違いではあるけどその実大きな差であることをこんなところから感じ取れますね。

 

今日の各地の猛暑、そして調布の痛ましい小型飛行機墜落。なんだか不穏な一日でした。もう何もないよう祈ります。
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震災後日譚

あの地震から数週間が過ぎ、梨賀艦長もギプスを外した――

 

呉海軍病院医師の診察により当初十日ほどで外せる、と思ったギプスであったが日野原軍医長の診察で「いや艦長、プラス三日は外せません」と言われ、艦長は一瞬(あまり治りがよくないのだろうか)と思ったが実はそうではなく、山中副長が軍医長に

「艦長のギプスを外すのを、予定よりあと数日延ばしてください」

と言ってきたのだ。それは構わないがどうしてです?と問う軍医長に副長は

「早くに身軽になれば艦長はまた、無理をなさいます。ギプスをしている間は安静にしていなければならないと軍医長はおっしゃいました。軍医長のお言いつけを艦長は守られますからそのように願います」

と言ったのだった。

それを日野原軍医長から伝え聞いた梨賀艦長はことのほか感激し副長を艦長室に呼びよせて

「副長ありがとう。私をいつも気遣ってくれるあなたに感謝します。そして私ももうどうもないからぜひ、数日上陸して家で休んでほしい」

と言った。うれしい申し出だったが山中副長は

「ありがたいお申し出でございますが…副長がそうしょっちゅう艦を留守にしてよいものでしょうか?私は乗組員の士気にかかわるような気がしてなりませんが」

と言った。その副長をやさしい目で見つめて艦長は

「しょっちゅうと言ってもあなたは結婚休暇以外大きな休暇を取ってはいないじゃないか。それ以前だって。皆その辺はよくわかっているよ?大きな案件はもう片付いたのだろう?昇進の件も済んだし。だから安心して自宅に帰って、山中大佐にお仕えしてきなさい。これは艦長命令、いいね?」

と諭した。

副長の瞳が潤んで「――ありがとうございます、艦長」と囁くように言った。艦長は頷いてから

「しかしこのひと月ほどでこんなにいろいろなことがあるとはね。あの大きな地震には参ったよ、まさかあんなことになるとは。そして小泉商店を巡る人たちとのあの出来事!」

と言って笑った。副長も笑って

「本当にあの時は心配しました。でもおおごとがなくってほんとに良かった。∸-でもあの後繁木さんが言ってましたよ、『例の小泉商店がらみの夫婦、なまえが<ごろう>に<ふみ>さんと聞きました。それって私たち夫婦と同じ名前ですね、うーん、やはりゴロウにフミの組み合わせは純愛が多いんですねえ』って」

と言って二人はさらに笑った。

その航海長は、副長に申し訳ないと思いつつも週末の上陸をして夫婦仲良く過ごしているらしい。

 

さて、例の大地震の際被災地に駆り出された『聖蘆花病院』の医師・看護婦たちも任務を終え東京に帰っていた。

その間彼らはよく働き、配置された県病院の職員たちの感激の的になった。中でも桐乃は注目の的で「外国人でありながら日本人並みの精神を持った素晴らしい女性であり看護婦」と称賛された。

それを聞いた日野原昭吾は胸をそびやかして

「当たり前です。彼女はもともとが違う。常に研鑽練磨を怠らないんですからね、それに心根もまっすぐでこんなに素晴らしい人はちょといませんよ」

と誇った。桐乃も、ほかの医師や看護婦たちと一所懸命に力を合わせ頑張りぬいた。途中看護婦の一人が過労から倒れたときもその分を桐乃が何も言わないでこなし、復帰したその看護婦が礼を言うと桐乃は微笑んで

「お礼なんてとんでもない、何かあったらカバーしあうのがチームです。それより無理しないでくださいね」

と言ったのだった。昭吾はその桐乃を見つめて(この子を…絶対)と思っている。

 

その桐乃は、東京に戻ってから『大和』の梨賀艦長から託された留守宅への封筒を投函した。(無事につきますように)と祈る桐乃である。

 

そして二日ほど後その手紙は梨賀艦長の留守宅に到着した。玄関先で郵便配達から手紙を受け取ったのは長男の正明で、「誰からだろう」と裏を返して母親の名前をみた正明は

「おばあさま!多美子、波奈子!」

と大騒ぎして家の中に駆け込んだ。

駆け込んだ居間では驚いた祖母が「正明さんどうしました?そんな大声を上げて」とかるく彼をたしなめたが、「おばあさまこれ!」と差し出された封筒を見て

「まあ!幸子さんから」

とこれも普段の落ち着いた祖母に似合わない声を上げて、それにびっくりした娘たちが「どうしたのおばあ様おにいさま?」と庭から走りこんでくる。

「お母さまからよ!」

と祖母が言って娘たちは「おかあさんから!」と嬉しそうに声を上げ「早く、読んで読んで」と祖母にせっついた。

はいはい今読みますよ、とこれもうれしそうに娘の手紙の封をハサミで丁寧に切って、艦長の母親は封筒から便箋を引き出した。正明、多美子、波奈子がその周りにきちんと正座して祖母を見つめる。

そして祖母は、孫たちの母でありわが娘からの手紙を読み始めた…

「ええっ!お母様それでもう平気なのでしょうか?」

読み終えた祖母に、正明は叫ぶように言った。

祖母はやさしく孫たちを見つめて

「お母さまが平気だとおっしゃるんですから平気なのですよ。それにしても大変なことに巻き込まれましたね。あの揺れはここでも相当でしたからねえ。――幸子さんがお世話になったという聖蘆花病院のかたにはいつかきちんとお礼を申し上げねばいけませんねえ」

と言った。多美子波奈子は母親の無事にホッとしてうれしそうに「よかったね」「うん、良かったね」と言いあっている。

正明も多美子波奈子も、あの地震以来母親の話を意識的に避けているようだと祖母は思っていた。話をすれば気になっていてもたってもいられなかったからだというのを彼女は痛いほどわかっていた。(私の娘だもの、どんな困難でも切り抜けているはず)と確信していた艦長の母はそんな孫たちの気分を盛り上げんとさまざまに生活に工夫を取り入れて今日まで来た。

(甲斐があった)

祖母は孫たちのうれしさにはしゃぐ姿を見つめてそう思った。孫たちは早くも返事を書こうと文机の引き出しから便箋を出してきている。

艦長の母はもう一度封筒を見て、娘の幸子がこの手紙を託した聖蘆花病院の日野原桐乃という女性はどんな人なのだろうか、と思いを巡らせた―ー。

 

そしてそれより一週間ほど前。

指月護郎とフミは東京のフミの実家を訪れた。小泉商店社長の孝太郎から「きちんとフミさんのお母さんにお話をしてきなさい、そのうえでご了解が頂けたら結婚式を挙げよう」と言われていた。

久々に帰る家ではあるがフミの心は重かった、(いくらなんでも黙って出てきたのは悪かった。置手紙でもしてくるべきだった)と後悔していた。激情に駆られてつんのめるように行動した自分の<若さ>が苦かった。

自宅の玄関の前で立ち尽くしているフミの背中を、護郎がやさしくなでて「さあ、思い切ってゆこう。私もいるから大丈夫じゃ」と広島訛りの混じった言葉で元気つけた。護郎の腕には赤ん坊が抱かれて、赤ん坊は護郎を見て笑う。護郎も赤んぼにやさしく微笑み返す。

意を決したフミは思い切って玄関の戸を開けた。呼び鈴がチリリンとなり数瞬の後「はい?」とフミの母親が出てきた。

そして、玄関先に立つ娘たちをみたフミの母親は

「フミ!どこに行ってたの?心配したのよ!」

というなりフミに抱き付いて泣き出した。驚くフミと護郎に、顔を上げた母は「さあ早く入って…」と中に招じ入れた。

居間に入ると母は護郎の手から赤ん坊を受けとると涙ながらに抱きしめた。そして「あの地震に巻き込まれたの?」と聞いた。フミがうなずくと母親は「よく無事で…。そのあとどこに?」と聞く。そこで護郎が詳細を話すと母親は護郎を見つめて

「指月さん、今までごめんなさいね。私は結局自分のことしか考えていなかったようです。この子が本当に幸せになれるなら反対なんかすべきじゃなかったのに、自分の物差しでしか見ていませんでした。孫の顔もろくに見ないで物置小屋に押し込めて…。フミは私を許してはくれないだろうね、それでもいい。フミは幸せになりなさい。指月さんと広島で暮らせるようにしてもらいなさい…」

と言って泣いた。フミも泣いた。

護郎が

「おかあさま。私の方こそ勝手なふるまいをし、フミさんを却って不幸にさせてしまいましたことを心よりお詫び申し上げます。いくらお許しが出ないから、そして私のほうも受け入れられない話があったからと言ってしてはいけないことをしてしまったことは決して許されないことと思っています…」

とそこまで言うと男泣きに泣いた。そしてしばらく泣いたが顔を上げ涙をぬぐうと

「私は東京支店に来ることになりました。ですからフミさんも東京にいます。∸-ですからどうか、どうかフミさんを許してあげてほしいのです。その代り私は許されなくてもいいんです…どうかフミさんは、そして子供だけは…」

と言って再び泣いた。

その二人にフミの母は「誰も責めません、もう水に流しましょう…こんなかわいい孫が出来て私は幸せ者です。そして、こんなにまで娘を想ってくれる人がいるなんて、これ以上の幸せがありますか…。指月さん、娘を、孫をよろしくお願いします!――フミ、今までごめんなさい。幸せにしてもらいなさい」

と言って三人は赤ん坊を真ん中にして抱き合って泣いたのだった。

そのあと、指月護郎は広島の『小泉商店』に連絡を取り孝太郎の祝福を受けた。挙式は来月に予定され、二人の前途を皆で祝うことになった。

 

 

そんな中、小泉純子兵曹のもとに継母から手紙が来た。

「なんねおかあさんは。うちに何の用じゃ?」

そういって封筒を見つめる小泉兵曹に、桜本兵曹は「何の用じゃ言うて親子なら用があっても無うても便りが来るんは当たり前じゃ」と笑った。

「ほうね」という小泉兵曹、中身を読んでから妙な顔つきになるとオトメチャンを見て

「おかあさんはオトメチャンに御用みとうじゃわ。いつか休暇の時にでも来てつかあさい、お話したいことがあります、じゃと」

と言って便箋を手渡した。

オトメチャンは「うちに?なんで小泉のお母さんがうちに御用があってじゃろうねえ?」と首をひねった。

が、「まあええわ。休暇に入ったらいの一番にお伺いしますけえ言うて返事を書いておいてくれんさい」と言った。

 

それぞれの「あの日」以後でありそれぞれ幸せな方向に進んでいるようである。

 

そして今日も主計科事務室では棗特務大尉がそろばんをはじきながら「オトメチャン言うたねえ…あの子がうちにはどうにも気にかかってならんのじゃ。あの子…」とつぶやいている―ー

 

          ・・・・・・・・・・・・・・・

 

梨賀艦長、その留守家族。日野原昭吾に桐乃。指月護郎にフミ。そして小泉兵曹。

あの震災にかかわった人々のその後でした。小泉兵曹の継母・エイはオトメチャンにいったい何の御用があるのでしょう?そしていつもながら気になる棗主計大尉のつぶやきは…!?

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いざ広島2<解決編>

その朝、小泉兵曹は胸の妙な高鳴りを覚えていた――

 

小泉兵曹は桜本兵曹を伴って上陸することになっていてその挨拶に麻生分隊士と松岡分隊長を訪ねた。桜本兵曹は何か居心地の悪げな顔で小泉兵曹の横に立って彼女の口上を聞いていた。

それが終わると松岡中尉は

「まあどうでもいいけど頑張ってね小泉君。特年兵君にはご苦労さんですがよろしくね、小泉君が暴走しないようによ~く見張っといて頂戴ね。ハイではごきげんよう」

と投げやりな言い方をし、それを呆れたように見て麻生分隊士は

「何やらようわからんが小泉兵曹、自棄だけはおこしなさんな。貴様は感情に突っ走るところがあるけえ要注意じゃ。∸-オトメチャン、悪いがこいつのその辺をよう見てやってくれんね。何かあったら『大和』の名折れじゃけん、頼むぞ」

と言って桜本兵曹の瞳をじっと見つめた。桜本兵曹は分隊士の瞳を見つめ返して「はい。しっかり努めます」というと一種軍装に身を固めた小泉・桜本の両兵曹は敬礼をして踵を返し歩き出していった。

 

一〇〇〇(ひとまるまるまる。午前十時)の約束の時間の五分前に二人の兵曹は上陸桟橋についた。そこにはすでに山中副長がいて、小泉兵曹はランチから上がると副長に丁寧に敬礼した。後から上がってきた桜本兵曹を見て副長は

「オトメチャンがどうして?」

と尋ねた。小泉兵曹は実はこれこれでと訳を話し副長は「仕方がないですね。まあもっともオトメチャンは常に冷静だからいてもらった方がいいかもしれない」と快諾してくれた。

そして「この先に艦長がお待ちだよ」と言って三人は歩き出す。小泉は「自動車ですか!――オトメチャンきっと黒塗りのええ自動車じゃで」とうれしげに言ったがその場についてみれば海軍の中型トラックがいて小泉はがっかりした。

副長は助手席に上がりながら「貴様たちは荷台に乗れ。振り落とされんように気をつけなさい」と言い桜本兵曹は

「艦長は、梨賀艦長はどこに乗ってらっしゃるんですか」

と尋ねると副長は運転台を指して「もうここにおいでだ。ギプスをしておられるからあまり動けない――広島に着いたら艦長がお降りになるのを手伝ってほしい」と言って桜本兵曹は「わかりました」と言った。

小泉兵曹は「なんでうちら、荷台に乗らんならんのじゃ」とぶつぶつ言っていたが桜本兵曹に「はよう。はよう乗らんか」とつつかれてエンジンをかけ始めたトラックの荷台に這い上がった。

 

運転台で艦長は「小泉兵曹のほかに誰かの声がしたが?」と副長に尋ねた、副長はドアを閉めながら「桜本兵曹を小泉兵曹が伴ってきたのです。なんでも一人じゃ不安だそうで」と笑っていった。艦長は「そうか。しかし今日はどうなることか…私も気が気ではないよ」と言った。

指月フミと赤ん坊は別の自動車で広島を目指す。一緒のトラックに小泉兵曹と載せて支障があるといけないとの艦長の判断からによる。副長は「艦長が自動車に乗られたらいいのに、トラックでは窮屈ではないですか?」と言ったが艦長は「いいんだよ私は。それよりフミさんは小さい子供連れなんだからそれこそ快適にしてやらねばね」と言ったのだった。

トラックは一路、広島の『小泉商店』を目指し走り出す。

 

『小泉商店』でも艦長たちを迎えるために副社長のエイが走り回っている。エイは数名の男性社員に「あなたたちにお願い、同席してほしいの」と頼み込み、「我々がいていいのでしょうか」と躊躇する社員たちに「いいんです、指月さんにも了解をもらっています。証人としていてほしいのです」と言った。

社長で純子の父親の孝太郎は「なんなんだ…いまひとつわからない。どういうことなんだろう」といまだに首をひねっている。

 

やがて艦長一行を乗せたトラックは広島市内に入った。

小泉兵曹が荷台から運転席に身を乗り出して

「もうちいと先です。その大きな通りをまっすぐ行ってつかあさい」

と運転の兵曹嬢に言った。

産業奨励館が見え、梨賀艦長は「ほう、あれが産業奨励館だね。私はこんな間近で見るのは初めてだよ」と感心した。副長も「あのドーム状の屋根、素晴らしいですね」と言った。運転の兵曹が

「お時間があれば奨励館の前を歩かれるといいですよ。川風が気持ち良いです」

と教えてくれた。艦長は「時間があったら是非行ってみようよ、ね、副長」と乗り気である。

 

それから間もなくトラックは大きな建物の前に停車した。荷台の小泉兵曹が「ありゃ!」とすっとんきょうな声を上げて桜本兵曹はびっくりした。「なんじゃね。大声出して」という桜本兵曹に小泉兵曹は

「見てみいこのでかい建物!うちが知っとる『小泉商店』と違うてじゃ。しかも新しい、言うことはつい最近新築したいうことじゃな…クッソウ、うちの了解もとらんと勝手なことをしくさって」

と憎々しげに唸った。

オトメチャンは呆れたように小泉を見ると

「ええじゃないね。それだけ『小泉商店』は繁盛・繁栄しとるいうことじゃろうが。なんで小泉はそう実家のことを悪ういうんじゃ?」

と軽く諌めた。すると小泉兵曹はすねた顔を作って

「貴様にだってわかるじゃろう?生さぬ仲の複雑さを!」

と言ってオトメチャンをにらみつけると「降りるぞ」と声をかけ荷台から飛び降りた。そのあとをオトメチャンも続き運転席から艦長を下ろす手伝いを始める…

 

小泉商店の入り口にはもう、社長の孝太郎、副社長のエイ、それに男性社員たちが居並んでいて『大和』艦長以下の一行を招じ入れた。

梨賀大佐は「けがをしておりまして見苦しい姿で申し訳ありません。本日はお忙しいところお時間をいただき恐縮であります」とあいさつ、孝太郎たちはそれこそ恐縮して

「とんでもないことでございます、いや、こちらこそこちらの不祥事でご迷惑をおかけしてしもうて…」

と平身低頭。

小泉兵曹はテーブルを挟んで自分たちの前に居並んだ小泉商店の面々をそっと見た。継母の顔はあまり見ないようにしてその横に並んだ四人の男性社員の顔を見る。その中に、(あれ!あん人はうちの好みじゃ。もしかしてあん人がその話の人じゃろうか?だとしたら…あれは外せんな。取り戻したいもんじゃのう)と心の中でうなりを上げた。それ以外は好みではない。

そこにドアがノックされ、指月フミが社員の案内で入ってきた。フミは案内してくれた社員に礼を言うと赤ん坊を抱え直し、室内の皆に一礼した。そして桜本兵曹の隣の席に着席した。

小泉兵曹は(あの女がうちのいいなずけを取った女じゃな)とフミをにらんだ。フミはその鋭い視線を受け止めかねてうつむいてしまった。

そんな小泉に桜本兵曹は(これ、そげえに人をにらんだらいけん!この人はなあも悪いことしとらんで!ええ加減にせんね)と囁いてその腿のあたりをつついて注意した。

小泉はしぶしぶ正面を見据える。

梨賀艦長が今回のことの詳しい内容を述べ、フミの切ない気持ちをも出来る限り代弁してやった。それを聞いて孝太郎は「なんというけなげな…」と絶句した。そして妻であり副社長のエイを見て

「純子を想うてくれる気持ちはありがたいが、指月君にはもう心に決めた人がこうしておってじゃ。お子さんも生まれとりんさる。それを無理無理引き裂くようなことはいかがなものかのう?」

と言った。

エイは夫を見つめて

「ほいでもうちの気持ちもわかってつかあさい!純子さんには仕事のできるええ婿さんを取っていずれ海軍でのご奉公を終えたらこの『小泉商店』をいよいよ盛り上げて行ってほしいんです。会社は、社長のあなたや進次郎さん、社員さん方の頑張りで南方に工場をもって今度は東京に支社を出すところまで来ました。支店もいくつも持てるところまで来ました。これをもっと盛り上げていかんと、うちは亡くなった奥様…純子さんたちの本当のお母様に顔向けできません」

と最後は絞り出すように言った。桜本兵曹がじっと、エイをみた。

エイの言葉に小泉兵曹は「―ーかあさん?」とつぶやいていた。今の今まで継母であるエイに対して反感しか抱いていなかった。どうせこの女は小泉の店を、財産をじぶんのものにしとうて入ってきたんじゃろう、父さんも騙されとる、くらいにしか思っていなかった。その思いは姉の今日子も同じだったようだ。が、よく思い起こしてみると弟の進次郎だけは継母に関して悪口を一切言っていなかった。

(一番そばで見とっていたけえかあさんの想いがようわかっていたんじゃな)

進次郎の思慮の深さを思い知らされ、女の身の浅はかさのようなものを恥じる気になった。

ともあれ。

梨賀艦長は黙って話を聞いていたがやおら顔を上げると

「副社長さんの思いもわかりました。あなたの『小泉商店』への想いはここに居る小泉兵曹にも十分伝わったでしょう。――そこで本題ですが、指月護郎さんとフミさん。このお二人の純粋な互いへの想いもどうぞわかってやってください。護郎さんが優秀な社員で副社長の立場としては娘の婿として身内にしておきたいというそのお心も十分すぎるほどわかります。私も娘を持つ身ですから、母親としてのお立場も理解できます。

でもお母さん、いや副社長。考えてあげてください。

人の心だけは縛ったり自分のいいようにすることはできないです。とくに大事な人に関してはこれはもう、他人の入り込む余地なんかないんですよ、そんなこと私が言わずともお判りでしょうが、あえて言います。護郎さんとフミさんのお二人がどんな思いでここに居るこの赤ちゃんを産んだのか、その気持ちを汲んでやってください。とくにフミさんは女性として世間やご自分の母親から<ふしだら>の烙印を押され白眼視され、自分のお母さんからは妊娠がわかってからは一歩も外に出してはもらえない生活を送ってきたのです。そのつらさは想像するに余りありますがそんな彼女を支えたのは護郎さんのフミさんへの想いと、彼女自身の護郎さんへの想いなのです。

そして護郎さんは子供も生まれたことで一層業務に励む勢いがつかれたことだと思います。東京の支社準備室の室長という重責を担っていらっしゃる彼を…どうか信じて、そしてフミさんときちんと添わせてあげてください!」

と語ると頭を下げた。

末席で、フミが泣いた。

オトメチャンも、小泉兵曹でさえも瞳を濡らしている。エイも、孝太郎もほほに光るものが見える。居並んだ社員たちも感動に身を震わせている。

孝太郎は背筋をぴんと伸ばし、

「梨賀大佐、ありがとうございます。私は指月君とフミさんをキチンと結婚させます。そして彼を東京の支社に赴任させて、フミさんのお母さんとの和解にも努めさせます。∸-いいねそれで?」

と言ってエイをみた。エイも涙を拭きながら「はい、私ももう異存ありません。ごめんなさいねフミさん。あなたの大事な人を私は一方的な考えだけで奪ってしまうところだった。そのためにあなたにとんでもなくつらい思いをさせてしもうて、本当にごめんなさいね。どうやってあなたの失われた月日を償ったらいいのか…」

と言い泣いた。

フミはしゃくりあげながら

「いいんです、もういいんです…わかってくださったことそれだけで私はうれしいんです」

と言って、赤ん坊を抱きしめるようにした。赤ん坊はフミの腕の中で笑った。

孝太郎が「指月君をここに」と傍らの社員に言って、うなずいた社員は立ち上がると部屋を出た。小泉兵曹は(なんじゃ、護郎さん言うんはあの中には居らんかったんか)と思った。

ややして男性社員と指月護郎が入ってきた。その、護郎の顔を見て

「護郎さん!」

とフミが叫び立ち上がるのと

「うぐー!?」

と小泉兵曹が妙な声音で唸るのは同時だった。桜本兵曹は「?」と同期の顔をみた。小泉兵曹は真っ青な顔になって桜本兵曹の耳に口を寄せると

「いけんで。うちはあがいな男は趣味と違う…、いくら仕事ができる言うてもあがいな面相の男は好かん。全くかあさんいけんわ、男は顔も大事じゃいうんに…」

と大変失礼なことを言ってへこんだ。

オトメチャンがそっと、改めて指月護郎の顔をみた――分厚い、度のきつい眼鏡にきっちり七三分け。眉が濃くそして顔が長い。

(ありゃ~、こりゃ小泉のすかん顔じゃわい。小泉は優男が趣味じゃけんこりゃ普通に紹介されてもまとまらん話じゃわ。――まあでもこのお二人にはえかったわ。小泉はほしい男の人は力づくでもものにするところがあるけえね。ほいでもうちは、男の人いうんは顔で判断してはいけん思うがの?指月さんはなかなか男らしゅうてええひととうちは思うがね。小泉はもっと人を見る目ぇを養うたほうがええねえ)

オトメチャンはそう思ったのだった。

 

そのあと指月護郎とフミ、そして商店の男性社員に「お嬢さん、いろいろご迷惑をおかけしてすみませんでした」と取り囲まれて謝られたのはなんと桜本兵曹、びっくりしている兵曹を押しのけて

「小泉純子はうちじゃ、あなた方うちの顔を知らんのね!?」

と小泉兵曹は言った。一人の社員が手帳から写真を取り出して

「うちらお嬢さんはこの方じゃ言うて聞いとります」と言って指示したのはオトメチャン。小泉兵曹はヒエエッと声を上げて

「なんでじゃね、いつだったかトレーラーの工場ができるとき、道で逢うたじゃろうが!そん時うちが『小泉です』言うたじゃろうがあ!あん時逢うた社員はどこじゃ、出さんか!嘘つきよってからにとんでもねえ野郎じゃ!」

と怒鳴った。

社員の一人が「その社員は臨時雇いですけえ今は居りません」と言いもう一人が「こちらの方のほうがいかにもお嬢様らしいですけえ、うちらてっきり」と小泉兵曹にとっては致命的な一言を発して小泉純子は今度こそがっくりきた。孝太郎が下を向いて笑うのが梨賀艦長と山中副長に見えた。

そんな純子兵曹も目に入らぬか、フミはオトメチャンに礼を言う、不思議に思ったオトメチャンが「なぜうちに礼を?うちはなあもしとりませんが?」と言った。そのオトメチャンにフミは

「あなたから何か温かいものが流れてきてうれしかったんです。それに小泉純子さんが私をにらんでらしたとき、あなたが純子さんに小さなお声で注意なさってくださいましたね。私、人様からずっとにらまれてきて本当は人様の前に出るのが怖かったんです。でもあなたが―ー桜本さんとおっしゃるのですね――そうおっしゃってくださったから、私に敵意のない方だとわかったから、とてもうれしかったんです。ありがとうございます」

と言って泣かんばかりの顔になる。

そのフミにオトメチャンは

「そげえなこと。でもうちはあなたを一目見ていろいろつらい思いをされて我慢なさっていらした方だとすぐわかりました。フミさんは、ふしだらでもいい加減でもない。一所懸命に生きとる人じゃ言うんがようわかりましたけえ。どうぞこれから御夫婦仲ようお子さんを育てて日本のために頑張ってつかあさい」

と言って励ました。フミの横に指月護郎が立ってその肩をやさしく支え「やさしいお心をありがとうございます。これから親子三人でしっかりはげみます」と彼は宣言した。

その場の皆の間に微笑みが満ちた。それを見ていた副長がそっと梨賀艦長に

「私の出番はなかったですね、それでよかった。艦長のお言葉、胸に沁みましたよ」

と囁いた。艦長は嬉しそうに微笑んだ。

そして副長は床にへたり込んでいる小泉兵曹を引き起こし、

「ほらあなたは久しぶりのご家族と水入らずでお過ごしなさい。あなたの帰艦は明日の夜の定期便でね」

と言ってその背中を軽くたたいた。

小泉兵曹は「はあ…ありがとうございます」と言ってやっと立ち上がると孝太郎・エイの前に立った。

二人は純子をやさしく抱き寄せてから艦長と副長に「お心遣いをありがとうございます。明日遅延なきように返します」と言って艦長と副長はうなずいた。

嬉しそうに微笑むオトメチャン、そのオトメチャンを眩しげに見つめる『小泉商店』の男性社員たち。

指月夫妻は、そんな皆を眺めて幸せそうに笑った。フミの腕から護郎の腕に移った赤ん坊が声を立てて笑った。

 

大地震に端を発した事件も、何とか収集ついたようだ。安心して『小泉商店』を後にする梨賀大佐、山中副長そして桜本兵曹。

見送る小泉兵曹の顔も、久々に親と過ごせる喜びに輝く。そして見送る社員たち、それにこたえる桜本兵曹。

広島は初夏の日差しに明るく照り映える。

 

 

そして。この出会いが大きな悲劇の引き金になることをこの時点ではだれが予想しただろうか――

 

              ・・・・・・・・・・・・・

何とかおさまりました。

それにしても小泉兵曹の生さぬ仲のお母さんという人はいろいろ考えてくれていたのですね。でもその思いがちょっと性急すぎて指月護郎とフミには大変なこととはなりましたが。

小泉兵曹には護郎さんという人は趣味じゃなかったようですね、フミさんにとっては何よりなにより。若い指月夫妻の今後に幸多かれ!

 

そして「大きな悲劇の引き金」とは?それはもう少し先のお話――。

 

広島「産業奨励館」。ご存知のように現在「原爆ドーム」として世界遺産として登録されています。二度とあってはいけない人類の「負の遺産」としての登録です。

その『産業奨励館』を再現したCGを見つけました。往時を偲んでみてはいかがでしょうか。


いざ広島1

指月フミは、泣き出した赤んぼを背負って病院の建物の外へ出た――

 

背中の赤ん坊を軽くゆするようにしてあやしながら彼女の心は寂しかった。(副長というかた、私のことが嫌いなんだわ。いやなものを見る目で私を見ていらしたもの。梨賀大佐だって気持ちが変わってしまったかもしれない…私がふしだらなことをしてこの子を産んだって思ってらっしゃるんだわ)

見上げる呉の空さえ、何かよそよそしいものにさえ思えフミは(私に味方なんていないんだ)とすねるような気にさえなってしまった。

その思いを抱いたまま病院の前をぶらぶらと所在なく歩くフミに、背後から声がかけられびっくりして振り向けばそこには森上参謀長がいる。参謀長はタバコを吸いに出て、フミのさみしげな後姿が気になって話しかけたのだった。

参謀長は「梨賀大佐からあなたのことを聞きました。いろいろお悩みのようではないですか…よかったらあなたのこれまでを詳しくお話しいただければと思いまして。我々があなたを誤解している部分が無きにしもあらずという感がありますのでね。如何でしょうか」

と優しく話しかけ、フミは決心して話すことに決め、二人は中庭に場所を移しそこのベンチに腰掛けた。フミの背中で赤ん坊が無心に眠っている…

 

――あの時、こうしなければ私たちの必死な思いは決して結ばれることはなかっただろう。確かに褒められる行為ではなかった。本来なら決してしてはならないことだし、思いもよらなかった。でも、そうしなければ、既成事実を作らなければ夫は確実に―ー好むと好まざるとにかかわらず――小泉純子の<夫>になってしまったことだろう。それだけは絶対嫌だった。私は本当にあの人が、夫が大好きなのだ。

(あの時本当に私たちは悩みぬいた―ー)

あの晩のことがフミの脳裏に鮮明に思い出された。あの日広島から帰ってきたばかりの夫・護郎はフミを仕事が終わるなり「ちょっと来てほしい」と下宿先に連れて行ったのだった。

部屋の裸電球の明かりの下で護郎とフミは向き合って座っていた。

なかなか口を、どちらも開かない。いや、開けなかったのだ。二人の身に起きたことがあまりに意外すぎてなんとしていいのかわからないというのが正直なところだった。

どのくらい黙って座っていただろう、やっとこさ護郎が「フミさん…」と言った。フミが顔を上げると護郎はフミをしっかり見つめていた。

「フミさん。俺は顔も知らんお嬢さんと結婚する気なんぞない。ほいでも、副社長がそげえに話を押し付けてくるなら俺も考えねばならんのじゃ」

広島訛りが混じった言葉で護郎は言った。フミは「…副社長のお言いつけだから、その方と結婚するんですね?」と言ってうつむいた。フミの視界が揺らぎ、涙がぼたぼたとひざに畳に落ちた。フミは涙をバッグから取り出したハンカチでぬぐうと

「その方と…結婚するんですね」

ともう一度言った。あきらめきれない悔しさが言葉ににじんだ。護郎はすると、「何言うとんじゃ!」と怒鳴るように言ってフミの両肩を掴んだ。そしてやさしく「フミさん、俺の言うことをよう聞きんさい」と言った。フミは座りなおして護郎の瞳を見つめた。護郎はつかんだフミの肩を離す事無く

「ええかな?俺はフミさんが大事なんじゃ。ほかのだれも目に入らん、それがたとい会社の社長令嬢であってもじゃ。俺は初めてフミさんと会って、付き合いだしたころから結婚するんならこの人じゃ思うとってじゃ。この先もその思いは絶対変わらんで。――ほいでな、フミさん。俺は考えたんじゃ。このままの形で二人で居ってもなあも変わらん、いや、このままで居ったら絶対社長の娘と一緒にさせられる。それは俺は絶対嫌じゃ。じゃけえな、こういうやり方はいけんことじゃ言うんは十分わかりきっとるが、ほいでも言う!

―ーフミさん、俺の子供を産んでつかあさい。ほいで結婚しよう!順番が逆なんは十分わかっとる、してはいけんことじゃ言うンも十分わかっとる。じゃが、こうでもせんとどうにもならんのじゃ。わかってくれフミさん!」

フミにもう、躊躇している余裕はなかった――

 

「いけないことだというのはわかっていましたが、どうにもならなかったんです。そのことをしたからと言って子供ができる保証もない…それでも私たちはそれをしなくてはならなかったのです」

フミはそう言って遠い目をした。

参謀長は「そうだったのですか…。つらかったですね」と言って目を伏せた。まだ若い女性がどんな思いでそれを受け入れたのだろう。それを想うとき参謀長の胸は痛んだ。山中副長はフミに対して不快感をあらわにしたがフミより若い副長ならそれも仕方がないかもしれない、だがこの話をしたらきっと山中も考えを変えるに違いない。

(山中副長だって、恋をして結婚したのだからフミさんの気持ちがわからないはずがない)

そう確信した。ならば彼女の想いをしっかり山中はもとより梨賀にももう一度伝えて皆で後ろをしっかり固めてフミを幸せにしてやりたい、してやるのが何かの縁で知り合ったものの務めではないか。

森上参謀長はフミに向き直り

「フミさん。私はあなたの後ろ盾になりたい…あなたはその思いを梨賀大佐と山中中佐にきちんと話してくださいね。私は広島の小泉商店に連絡を取りますからそこであなたはご主人と一緒に小泉の母親、いや副社長に真実をお話ししなさい。いいですね?」

と言い含めた。

フミの顔が先ほどより明るくなり

「ご迷惑をおかけして申し訳ございません、こんな私たちのために」

と言ったのへ参謀長は軽く制して

「袖すりあうも多生の縁、ですよ」

と笑いその場を離れた。『小泉商店』とその<令嬢>の純子兵曹に連絡を取るためである。

 

 

『大和』艦上。

あわただしく駆けてきた繁木航海長は廊下で行きあった桜本トメ一等兵曹に「おお、オトメチャン!小泉、小泉兵曹どこにいるか知らないかな?」と問いかけた。

桜本兵曹はああ、小泉ですかと言ってから

「小泉兵曹なら今当直中で艦橋に居るはずです。明日が上陸日じゃけえずいぶん張り切っとってですよ」

と言ってフフッと笑った。繁木航海長は「明日がか!そりゃ好都合だ」というと一散に駆け出して行った。オトメチャンはぽかんとして「どういうことね?」とその後ろ姿を見送った。

 

繁木航海長から「小泉兵曹、あなた明日艦長副長参謀長と一緒に広島の『小泉商店』にゆくべし。これは艦長命令です」と申し渡され死ぬほど驚きかつ、嘆いた。

「航海長―、なんでなんでうちが広島くんだりまで行かんとならんのですか、しかもなんで『小泉商店』なんぞに行かんといけんのです?嫌じゃ、せっかくの久し振りの上陸でやっと、男を味わえる思うたのに~」

そういって身を床に投げ出さんばかりにして泣いた。

繁木航海長はあまりに生々しい告白にげっそりしつつも彼女の事業服の背中を引っ張って起こすと

「何言ってんのまったく!いいですかあなたには結婚の話があってですね…」

とそこまで言ったとたんに<結婚>という語に小泉は素早く反応して

「結婚!結婚ですかうちが?うほー、やっと来よったかわが世の春~ウフフ、やり放題~」

とその辺を飛び回り始める。狭い艦橋の中での大暴れと品のない言葉に閉口した航海長は再びその事業服の背中をひっつかんで自分の方に向かせると

「ちょっと待ちなさい!そんな浮ついた話ではないのだ、そもそもこの話のもとは貴様の母親から出た話なのだ。ちょっと落ち着いて聞きなさい」

と怒鳴った。母親と聞いて小泉兵曹の動きと笑顔が固まった。

「は・は・お・や・の、ですか?」

その顔が一気に曇った。                   

「なんじゃ、うちはまた航海長がうちのためにええ話をもってきてくださったんじゃ思うたんに…しかも、あの女からかいね」

そういって下を向いてしまった。繁木航海長は何で私があんたに縁談を持ってこにゃいかんのだと怒りつつも副長から聞かされた話をしてやった。そしてまだうつむいている小泉兵曹に

「いいね明日の一〇〇〇(ひとまるまるまる、午前十時のこと)上陸桟橋で副長が待っておられるからそのつもりで。そして艦長もまだご本復ではないのだが明日だけ広島にご一緒にゆかれる。そのつもりできちんとしろ」

と言って「ではごきげんよう」というと艦橋から走り去った。

小泉兵曹はぼんやりとその後ろ姿を見つめていたがやがて

「なんでそがいな話、うちと直接関係ないじゃろう?なのに何でうちが呼び出されんならんのじゃ、しかもずうと楽しみにしとった上陸日に…ああもう、あのばあさんたら!」

と悔し涙にくれながら生さぬ仲の母親をのろったのだった。

プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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