2017-09

ひざを伸ばして眠りたい―ー東京大空襲 - 2015.03.08 Sun

――いつまでひざを抱えていればいいのでしょう。

もういい加減くたびれました。私も、この子たちも。そろそろ足を延ばしてお布団で眠りたいのです―

 

 

昭和40年代初頭。ここはとある地下鉄地上駅工事現場。

地面を掘り進んでいた工作機械が突然止まり、操縦者が「誰か、誰か現場監督を呼んでくれ!」と叫んだ。その顔色は真っ青である。何があった!と作業員たちがその場にわっとばかりに走り寄る。

そこに彼らが見たものとは―ー。

 

           ・・・・・・・・・・・・・

 

昭和二十年が明けましたが正月から空襲警報が鳴るような状態でございました。町の中から子供たちの声がずいぶんと消えました。皆、学童疎開や縁故疎開で町から遠くへと言ってしまったからです。残ったのはまだ乳飲み子や学齢前の幼い子供たち。

男の人たちも次々応召され、あるいは志願で陸軍・海軍にゆき、若い男性の姿も見えなくなってきつつありました。

私の夫も陸軍に昨年、応召し今はどこにいるのやら…便りもほとんどありません。が、便りがないのはいい便りとわれとわが身を励まし、二人の子供を立派な日本人に育てようと私はがんばっておりました。

その年の三月、私はある人から不吉な予感のする言葉を聞きました。見知らぬその人は年の頃なら七十代。まがった腰をその時だけはしゃんと伸ばして、私たち配給の列に並ぶ女たちに話しかけたのです。

「ねえさんたち、用心したほうがいい。九日は陸軍記念日だろう?そのころ狙ってえらい空襲があるかもしれないよ、用心用心」

どこか不気味な雰囲気を漂わせたその老人の言葉を「嘘よそんなことあるわけないわ」と一蹴したものの、居合わせた皆の眉間には不安が漂っていたのを思い出します。

そして九日。とても寒い日でした。

この日、学童疎開をしていた隣の家のチカちゃんが卒業式と進学のため東京に帰ってきました。チカちゃんの学校の六年生は皆、卒業式と進学の準備のためこの日の朝、疎開先から帰宅したのです。

チカちゃんは私の上の子供を抱き上げ、下の赤ん坊の頭をやさしくなでて「おばさんただいま!」と元気に挨拶してくれました。

「チカちゃんお帰りなさい。久しぶりのおうちね、お母さんにいっぱい甘えてね」

というとうれしいような照れくさいような顔でチカちゃんは微笑みました。

きっとこの日の朝帰ってきた児童たちはどの家でもうれしく過ごしたことでしょう。

なのに、なのにあれはやってきたのです。

 

その晩。

風が強くごうごうと鳴っていました。私は子供たちが寒くないようにしっかり布団をかけてやって着のみ着のままで布団に入りました。このころになるといつ警報が鳴るかわからないので寝巻に着替えて寝ている余裕はなかったのです。

子供たちのそばで眠っていた私は重い地響きで目を覚ましました。はっとして半身を起こすとまたも地響き。

慌てて起き上がり雨戸をあけると南の空が赤く染まっています。やがて空襲警報のサイレンが鳴り始め半鐘が鳴らされました。家々から人々が飛び出してきます。

私は上の子供を「起きなさい、起きなさい!」と叫んで起こし、下の子供をおぶいひもで背負いました。その上からねんねこ半纏を着こんで寒さから守りました。そして震える手で仏壇から先祖の位牌を取り出し、懐にねじ込み、非常持ち出し用に作っておいた袋に着けた帯を腰にしっかり巻いて上の子の手を握り「離してはいけませんよ」というと家を飛び出しました。

と、その上空を凄まじい今まで見たこともない聞いたこともないような低空でB二九爆撃機が何機も飛んでいきます。

その爆撃機から何かが…。ザーッと音を立てて落ちてくるのは焼夷弾です。慌てて私は子供の手を引いて玄関に飛び込みました。

ガランガランと焼夷弾が落ちて、家の屋根にも突き刺さったものは爆発的に炎を発するのでした。

あっという間に私たちは炎に取り囲まれました。

隣のチカちゃんがお母さん、兄弟とともに大きな荷物を持って逃げていくのが見えました。

(どうしよう、いや迷っている暇はない。逃げないと!)

そう思ったとき不意に「うちの防空壕なら安心」と言っていた夫の言葉が浮かびました。夫は応召前は建築士として働いていました。

そして「どんな大きな爆弾が落ちても落ちてもこれなら大丈夫」と作ってくれたのが庭に掘った深い防空壕でした。

私は子供の手を引き防空壕の重い蓋を開けました。そこに、警防団に入っている近所のおじさんが走ってきて

「まだ逃げないのか、早くしないと焼け死ぬぞ」

と怒鳴りました。が私は「うちの防空壕なら平気です、二五〇キロ爆弾でも平気だから、私はここに居ますっ」と叫びました。おじさんがなにか言いかけた時ゴゴーッと熱気を含んだ風が吹き付けてきて、火の粉が舞いました。髪の毛が燃えそうに熱くなりました。私は子供をしっかり抱きかかえました。大勢の人が叫び声を上げつつ表を走ってゆく音が聞こえます。見上げる空は、昼間よりずっと明るく夕焼けよりも赤いのです。

また上空を爆音立ててB二九が行き過ぎます。またも、ザーッと音を立てて焼夷弾が投下され私はたまらず防空壕の中に飛び込みました。あれに当たれば確実に死にます。

おじさんは「早いところ風上へ!」というと走り去っていきました。紅蓮の炎があたりを包みました。

表は獣じみた人々の叫びであふれています。私たちの街はぐるりが炎に囲まれているようです。

 

私は子供たちと防空壕の奥へと入りました。夫が堅固に作ってくれた防空壕は小さいですがちょっとくらいの爆弾にはびくともしないように思えホッとしました。

私は背中の子供をおろし、非常袋の帯を解き懐から位牌を取り出して袋の上に置くと上の子に「けがはないわね」と確かめた後その場に座り込みました。子供たちに「辛抱するのよ。いいわね」と言い聞かせて。

 

しかし。

この後恐ろしいことが起こったのです。焼夷弾を食らって燃え盛る我が家はあろうことか私たちが入っている防空壕の上に覆いかぶさるような形で焼け落ちたのです。さらにその上、ほかからの火災が類焼してきたのです。段々熱さがまし、もう出てしまおうかと思いました。熱い、苦しい。でも外へ出れば命はない。

 

私たちは意識が次第に薄れてくるのを感じていました。手足がしびれる、息が苦しい、ああ、熱い!…

やがて私たちはもう何もわからなくなりました。

そう、私たち親子三人は死んだのでございます。

 

それ以来私たち親子三人は壕の中でひざを抱えたままでいます。あの後夫はどうしたのでしょうか。そして町の人たちは、町自体どうなってしまったのでしょう。

あれから長い長い時間が過ぎていきました――

 

 

工事現場は騒然となった。

現場監督や工事責任者、作業員が駆けつけ、工作機械が掘った穴の中を覗き込んだ。

「これは…」

そこにあったのは三体の白骨体。三体は親子なのだろうか、大きな白骨と小さめの白骨は寄り添うようにして、親と思われる大きな白骨はひざを抱えるようにしてその中に小さな白骨を抱えていた。

四〇代の現場監督は「…もしかしてこれは、東京大空襲の…」とだけ言って絶句した。今では遠くなったが忘れられない忌まわしいあの晩の記憶がよみがえった。

その場のみながだまって親子の白骨体を見つめていた。風がフーと渡り、親子の土に還りかけた衣服のかけらの上を過ぎていった。

 

その親子と思しき白骨体の身元は、意外に早く判明した。決め手は遺体のそばにあった位牌である。漆塗りの位牌は湿気に強かったのでそこから寺の過去帳を当り、判明したのだった。

親子の遺体は荼毘に付された後寺に安置された。住職は三つの骨壺に合掌した後「さあ、これでゆっくり足を伸ばして休めますね」とつぶやいた。

 

さらにそれから数日後。この話が新聞で報道されたあとで、寺を訪れた一人の初老の男性がいた。初老の男性は住職に

「地下鉄工事現場で見つかったという三体の白骨遺体は、私の家族です」

と話した。男性はシベリアに抑留されていてようやく帰国したのが昭和二四年の冬だった。自宅に帰ってみたものの町自体すっかり様子は変わってしまっていて、そもそも以前住んでいた人がほとんどいなくなっている。

探しあぐねて何年もたっていたあの日、新聞報道で妻子の骨が寺に安置されているのを知ったのだった。

男性は妻子の骨壺の前に立って合掌した。

「遅くなってごめんな。つらかっただろう、本当にすまなかった。長い間土の中で…どんな思いで…」

男性は号泣し、住職はもう一度合掌した。

 

寺の外に広がる街にはあの日のことを想起させる物は影をひそめ、青い空には当然ながらB二九の機影もない。忙しく通りを行き交う人々の中にあの日、どれだけ多くの無辜の一般市民が焼き殺されていったかを思う人が幾人いるだろうか。

 

――やっと…足を伸ばして眠れます。そしてあなたにやっと、会えました。私も子供たちも安心してゆくべきところにゆけます。私たちを見つけてくださった皆さんありがとう。

逢いに来てくださったあなた、ありがとう。遅くなりましたが、「お帰りなさい」。お疲れさまでした。

 

隣のチカちゃんはどうしたでしょうか、無事だったのでしょうかそれとも。

気になることはたくさんありますがそろそろ刻限です。私は子供たちと別の世界に参ります――

 

さようなら

 

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

三月一〇日は「東京大空襲」の日です。今年であれから七十年。

東京の下町一帯を焼き尽くした大空襲を忘れてはなりません。アメリカ軍は下町には町工場が多くそれは軍需工場であるという認識のもと「焼き払う」計画を立て実行しました。一晩で十万人からの死者が出ました。多くは焼死、そして川に飛び込んでの溺死も多く凄惨を極めました。また、国民学校六年生は卒業式や進学のため疎開先から東京に帰ってこの惨禍で多くが亡くなったり被災しました。(この爆撃の総指揮官であったカーチス・ルメイ将軍は戦後日本の航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で叙勲されています。大勢の日本人を殺戮した張本人にたいしてのこの叙勲は不愉快でしかありません)

かの「リンゴの唄」で一世を風靡した並木路子さんもこの空襲で被災されご母堂をなくされていますがご本人はこの経験を語られることはほとんどなかったそうです。

 

この話の冒頭の地下鉄工事現場での遺体発見は、以前に聞いたことがありましたのでモチーフに使用しました。地下鉄東西線工事中に、家族らしい遺体が発見されそれは東京大空襲の犠牲者であったと。そしてその身元が判明したのは遺体のそばにあった位牌からだと聞きました。昭和五〇年代には墨田区の公園造成地で遺骨が発見されたという話もありました。

もしかしたら今もどこかで人知れず眠っているご遺体があるかもしれません。

都民として、日本人として忘れたくない日本の近現代史の一ページです。

 

以前放映された東京大空襲のドラマ(東京大空襲第一夜・受難、第二夜・邂逅。2008・平成二〇年放映。堀北真希主演)の一部分です。賛否あったドラマではありますがあの空襲を知るよすがとなればいいと思っておりました。

実際の画像は痛ましくて引用する気になれませんでした。


関連記事

● COMMENT ●

マナサビィさんへ

マナサビィさんこんばんは!
コメントをありがとうございます!
私はどちらかというと右がかっていると自他ともに認めていますがそれでも戦争はしてはならないと思っています。
近代戦においては民間人にも多大な犠牲を強いるものだと思っています。その顕著な例が先の戦争における東京大空襲であり広島長崎への核攻撃だと思います。
誰をも、老若男女の別なく殺傷することはあってはならない。そう思っています。

東京大空襲、あの壮絶さは言葉を失います。私は何人か経験した人から話を聞いたことがありますが、自分ならとても生き延びられないだろうとぞっとしたことがありました。
戦争というものは結局誰も得などしないんですが…いまだに世界では戦いが絶えないこの現状。どうしたものか…。

No title

いつもブログ見に来てくださってありがとうございます(*^.^*)

左右色々な考え方の人がいますが、私は最終的には「戦争だけはぜったいにしてほしくない」この1点です。
日本にも世界にも極端すぎる考え方をしている方がおられますが、
いつも不思議に思うのは、そういう方達は、自分や自分の家族、友人が
こういう悲惨な状況に巻き込まれるという想定をしてないのかな?ということです。
「自分は無差別に人を殺すが、自分の家族はぜったい狙われないし死なない」とか
「戦争は実質的には軍隊がやるものであって、自分達はいざとなると外国にでも逃げていればいい」とかそんな風に安易に思い込んでるとしか思えなくて。
憎悪や報復が広がって行って、自分や自分の愛する人がまさにこの空襲のような恐ろしくて悲惨な目に遭うかもしれない、生死の境を彷徨うかもしれないという想像ができていたら、過激な無責任なことはできたり言えたりしないはずですよね。

いつもなにげに思っていることではあるんですが、こういう記事を読ませていただくとあらためて思いました。ご遺骨が見つかってご家族の元に戻る事ができたのは良かったけど、どんなに怖かっただろう苦しかっただろうと思うと・・・(涙)みんながつらい思いをしますね。

かなやのぶ太さんへ

かなやのぶ太さんこんばんは!
どんな形であれ家族が再びまみえることができてよかったです。今回の震災でも4年目にしてご遺骨が見つかったという話を伺いよかったね、と言ってあげたい気分でいます。

戦争というものの残虐性は、こうして無辜の民を標的にするというところにあります。まさに今の中東がそれですよね。市民の住む都市に対立する相手がいるからとミサイルを撃ち込まねばならないジレンマもあるのでしょうが、納得できないですね。いつも犠牲は子供や女性ですから。

大空襲が再び、起きないよう祈るばかりです。

No title

家族が再会できて、よかったです。
見つけてくださって、お父さんが報道に気が付いてくれてよかったです。
このような状況で、見つからなかった子たちもたくさんいることと思います。でも、見張り員さんのつづる物語で、なにか救われた心地がしました。
戦争は国同士の利権の問題で、一般市民の住む都市を最初から攻撃目標にする「無差別爆撃」は、許しがたいものだと思います。それは今も、中東を見ていて感じます。

これからも、戦争がおきませんよう。

柴犬ケイさんへ

柴犬ケイさんこんばんは!
こちらこそありがとございます^^。

70年前の今日、間もなくあの空襲が始まる時間です。あの当時ゆっくり眠るなんてことが出来なかった。それを思うときゆったり手足を伸ばして眠れるこの平和をありがたく思います。
二度とあんな戦争をしないようにしないといけませんね。土の中でだれにもみとられない親子を作ってはいけません。

No title

見張り員さん    こんばんは♪

いつもありがとうございます♪
戦後70年でB二九爆撃機の空襲ですとか
日本中に工場があるからと攻撃されて子供
さん達が被害にあって焼け野原になった町
の姿も見ました。
こんな田舎まで攻撃されたのには驚きでした。
広島に長崎の原爆ですとか酷いことがあり戦争
を始めた日本ですから2度と戦争はしてはいけ
ないです。

まろゆーろさんへ

まろゆーろさんこんばんは!
特に「東京大空襲」に関してはアメリカの言いがかりのようなものを感じて大変不愉快です。下町には軍需工場が密集していたから標的にした、といいますが下町にあったのは庶民が営む町工場。
なんだかんだと言いがかりつけて「真珠湾の敵」を討ってやるという嫌なものを感じます。それはまろ兄様もおっしゃる通りまさに血に飢えた野獣そのものです。
東京他各都市、そして広島長崎。沖縄、硫黄島…。アメリカ軍の正気とは思えない「日本討伐」。戦争というものは本来戦争の仕掛け人同士のものなはず、なのに。
罪もない人が虫けらのごとく殺される戦争というものを考えております。

この物語の母子は、見つけてもらえ夫にも再会できました。魂というものは肉体が滅びてもあるのだと私は思います。
前にも書いたかもしれませんが私は隅田川やあの周辺を夜歩いたことがありましたがどうもざわざわした感じを受けて落ち着けません。きっとまだあの時の御霊がさまよっているからではないかと思うのです。
何にもしてあげられない自分が情けないです。

「ちいさいおうち」私も見ました!古き良き日本の情景が描かれていましたね。でもあのラストは泣けました。

70年目の三月九日、東京は雨です。
あの惨禍を忘れ去った日本人に、戦没の人々は何を語りかけてくるのでしょうか。

matsuyamaさんへ

matsuyamaさんこんばんは!
こういう話は昭和40年代くらいまではよく聞けた話で50年代初頭にもあったようです。いわゆる下町、あの戦火の激しかったところではきっと今も地下深くに残されたご遺体はあることでしょう。
防空壕が爆弾の直撃を受けてなくなったりこの話のように蒸し焼き状態、酸欠で亡くなった方も多数だったと聞いております。どんな苦しかっただろう、と胸の詰まる時があります。
やはり戦争は嫌です。
罪なき人々が戦火に焼かれるという悲劇はもう、絶対繰り返してはなりませんね。

酔漢さんへ

酔漢さんこんばんは!
仙台は東北随一の大都市ですものね、やはり空襲にさらされたのですね。
学童が亡くなった話は時折聞きますが痛ましいものです。
お母様もお父様も、その惨状をご覧になったわけですね。
B二九のあの爆音は、当時4歳だった私の母も覚えているといいます。様々な年代の日本人の網膜と鼓膜に忌まわしい記憶を残したB29です。

お母様との会話では貴重なお話も聞けますね、いつか教えていただけたら嬉しいですね。

No title

あらゆる場所で罪もない人たち、町に暮らす人たちが命を落とした東京大空襲。戦争を起こした日本の罪は深いものがありますが、その代償としてアメリカは『殺戮』を繰り返したのですから言いようのない不条理を感じます。終戦間際のアメリカはまるで血に飢えた野獣ではなかったかと。それでも喧嘩を仕掛けた日本が悪いのでしょうか。
親子の亡骸の話に、一般人まで巻き込んだ先の戦争の善し悪しを考えさせられています。
しかし時を超えてご主人の元に還った母子。良かったですね。肉体は朽ちても魂魄は其処にあるということでしょうか。
先日観た映画の『ちいさいおうち』の最後を思い出しました。

明日3月10日。現代人たちが日々行き来している足の下の地中深くには忘れてはならない歴史と人々の魂があるのですね。

No title

終戦20年経っても悲惨な現状が発見されるんですね。
この悲惨な状況は目に浮かぶようです。
とても言葉には表現できないです。

熱かったでしょうね、暗闇は怖かったでしょうね。
2度とこのような悲劇は味わいたくないものです。
世界はいつまでも平和であることを願います。

母校の碑

昭和20年7月9日~10日未明に仙台空襲が行われました。
小学校の校庭には、その空襲で亡くなられた児童の碑がございます。
母は空襲の翌日から市内の瓦礫をかたずけに行ってます。
父も同様でした。
地方都市までに及んだB29の爆撃。
「あの爆音は耳に残っている」と、母が申しております。

70年の歳月。母との会話が増えていて、初めて聞く話が多い事に気づいております。


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ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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