「花の命はみじかきものをなどてか君は散り急ぎたまへり」(昨年8月公開記事の再掲載です)|女だらけの戦艦大和・総員配置良し!

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「花の命はみじかきものをなどてか君は散り急ぎたまへり」(昨年8月公開記事の再掲載です)

2014.08.15(18:30) 712

 

       桜(はな)は 人

         人は 桜(はな)

           桜(はな)は 散る

           桜(はな)は 散る

        人も・・・・・・・・・・

 

――私があなたと初めてお会いしたのは私がまだ女学生の18になる年でした。私はある日母親からいきなりのようにお見合いの話を聞かされて戸惑いました。お相手は海軍さん、当時私達女学生にとても人気のあったのは、やはり見た目もスマートで素敵な海軍さんでした。

でも、いきなりそのあこがれの海軍さんとお見合いですよと言われたら当惑するのもこれまた道理かもしれませんね。私はまだ恋も知らなければ世間もろくに知らない娘でしかなかったのですから。来る日も来る日も、勤労動員の工場で兵器の増産に励み、日本の勝利の日を夢に見る乙女でした。そんな世間知らずのお下げの女の子に降ってわいたお見合い話。

それなのに私はそのお相手のお写真も見せていただけず、当日まで不安ばかり募らせていました。御年は28歳だということしか私にわかりませんでした。

どんな方なのだろう、どんなお声でお話しなさるのだろう。そして何より私はその方と結婚することになるのだろうか?いろんなことを考えましたよ、あの時。

そして私は長いこと電車に揺られて母と一緒にとある場所に行きました。降りたった駅は「呉」駅でした。はじめて来た場所に私は少しおどおどしていました。町は水兵さんたちがたくさんいるにぎやかなところ。私たちは駅から少し離れた一軒の旅館に行きました。そしてそこで、あなたとお会いしたのです。

私と母は一室に通されました。たいして待つ間もなく、あなたがお父様とご一緒にお部屋にいらっしゃいましたね。私はもう恥ずかしくてずっと下を向いていました。あなたが私の正面にお座りになった時、私は初めてあなたのお顔を見ることが出来ました。考えていたよりずっとやさしいお顔でした。

紺色の海軍の制服がよくお似合いの準士官。あなたの、座卓に置いた軍帽の徽章の輝きはあれからもう何十年もたつ今でもはっきり覚えております。あなたは私を見て、はにかんだように微笑まれましたね。私の想像の中のただ勇ましいだけの軍人さんとは違って、なんだかとても人間臭さを感じ好感が持てたのです。

そして驚いたことにこの席は見合いであると同時に婚礼の席でもあったのですよね。仮祝言というのでしょうか、正式な祝言は数日後あなたの郷里で行いましたね。あなたのりりしいお姿は忘れられません。

住まいはあなたが借りていた呉の下宿でした。物資に事欠く毎日でしたが折に触れてあなたのお母様がお野菜など重いものにもかかわらず遠いところを持ってきて下さり大変うれしかった。お母様は私が年若いのに夫の留守をしっかり守っていることを「えらいね、でも寂しくないかね?何かあったらすぐに言っておいで?」とおほめ下さりまた、心配してくださいました。

あなたの乗ったおおきな艦はなかなか内地にいることもなく、私は正直寂しい思いを抱いて時に港を見つめることもありました。でもそんなとき思い出すのがあなたのあの、はにかんだような微笑み。それを思い出す時私は胸の奥がほうっと暖かくなるような優しいような、それでいて物悲しいような気持ちになるのでした。

そんな中でも日本を取り巻く戦局は日増しに悪化の一途をたどり中にはこっそり日本の敗戦を言う人もいたようです。でも私は日本の勝利を信じ、あなたのご武運を必死に祈っておりました。

その年の秋も深まったころあなたの大きな艦は内地に戻ってきました。そして私たちはここで久しぶりに最高の楽しい時を持つこととなりました。

御正月には、あなたのお父様、お母様に私の母も来て楽しく過ごしましたね。あなたも楽しくお酒を飲んで笑いました。私もとてもうれしく過ごしたあの――最期のお正月。

次にあなたがお帰りになったのは春三月、あなたのお顔からは楽しげな表情が消えていました。あなたはあなたのお父様お母様に「これが最後の上陸だ」とお知らせしていたのですね。あなたのお帰りになる二日前にお二人が下宿にいらして、私は何も知らず嬉しさにはしゃいでおりましたの。でもあなたの大きな艦は他にたくさんのお伴を連れて沖縄に出撃することがもう決まっていたのですね。二度と帰らぬ死出の旅、ああ、それがもっと早くわかっていたなら・・・。

そのころ私はちょっとした秘密を持っておりました、それをあなたのお父様、お母様に申し上げましたらお母様は急に涙ぐんで「良かった、それはあなたからおっしゃいね」と言われました。お父様はしばしまぶたを閉じていらっしゃいました。

ささやかな夕餉のすんだ時、私は意を決して切りだしました。

そう、あなたの子供が私の身体の奥にひそやかな息を立て始めたということを。

その時のあなたのお顔・・・あのはにかんだような微笑みが満ちましたね。あなたはその晩布団の中で私をそっと抱きしめて下さいました、そして「丈夫な子を産みなさい、君にはなんにもいい思いをさせてやれなくてすまなかった。――はっきり言おう。僕はね、もう帰ってこれないかもしれない。でも僕は日本を守るためそして大事な君を守るために行くんだから何の後悔も憂いもない。一つだけ心残りがあるなら、生まれる子供の顔を見ることができないということだけだ。でも僕はたとえこの身は滅びようとも魂は残って君を守る、子供を守る。だから君もしっかりしてこの先の日本と、子供の為にしっかり生きてほしいんだ。いいね、頼んだよ」とおっしゃいましたね。

外ではいつやむとも知れず雨が降る音がしていました。それともあの雨音はあなたの心に降る涙の音だったのでしょうか。

翌日の朝まだき。あなたはいよいよ、あの大きな艦に戻られる時間になりました。玄関を出て周囲を見回した後、私達に敬礼してお父様、お母様そして私の順に食い入るような瞳でお見つめになって、「行きます」とおっしゃったあとくるりと踵を返して玄関を出られました。するとその時お母様がそっと、私の背中を押して下さいました。私はあわててあなたのあとを追いました。私の足音にあなたは立ち止りふりかえると、あのはにかんだ微笑みを浮かべ

「ご覧」

と道端の桜の樹を指差しましたね。気の早い桜がいくつか、ほころんでいます。あなたは桜を見上げると、私にこうおっしゃいました。

「桜は軍人そのものだね。美しく咲いて、その美しさが消えぬうちに潔く散る。花は散るからこそ美しいんだ。まさに今の僕たち海軍軍人そのものだよ。僕も散る時は綺麗に散るつもりだ。・・・では」

そういうとあなたは私に決然と敬礼をすると足早に歩いて行ってしまいました。

 

私はあなたの後ろ姿を、涙でかすむ眼でずっと追っていました。次から次へと新たな涙があふれ、止まりませんでした。すべてが、私の周りのすべてのものが色あせてゆきました。ほんのりと春の色に色ついた桜でさえその色を失くしたように見えました。

いつしか私の後ろにお母様がいて、私の肩をしっかり抱いてささえていてくださったのに気がついたのは、それからずいぶんしてからのことでした。

それから数日ののちのある晩、私は下宿の部屋で一人、繕いものをしていました。なんだかとても眠くてついうとうとしてしまいました。どのくらい時間が経ったか、下の玄関のベルが鳴り私の名前を呼ぶ声がしました。あなたの声です。

私は「ああご無事でお帰りになったんだ」とうれしくてたまらず玄関へ降りてゆきました。玄関にあなたが立ってらっしゃいました。玄関の電燈が何だか薄暗くてあなたのお顔がはっきりしません。でも、すがりつこうとした時あなたの御身体から血と硝煙のようなにおいがしてはっと思った時あなたの姿は消えていました。そして気がつけば私は部屋の座布団の上で眼が覚めたのでした。

胸騒ぎの一夜が明け翌朝、下宿のおばさんがそっと見せてくれた新聞に・・・あなたの乗った大きな艦やそのほかのおふねが沈んだことが書いてありました。はっきりそうは書いてなかったですが私には確信がいきました。昨晩あなたは私にお別れを言いにいらしたんですね。涙があふれてきました。

 

桜は 人。

人は 桜。

美しいうちに潔く散るのが桜のさだめ。

人も同じ、散るべき時に潔く散るのがさだめ。

 

桜(はな)は散るからこそ美しい。私もそう思います。

でも、なぜ桜は散り急ぐのでしょう?桜が散らない世界があってはいけないのでしょうか。桜が散らない世界があれば、そしたらあなたはたくさんのお仲間たちと深い海に沈むことなく、またあのはにかんだ微笑みで帰ってきてくれたのに。

そして・・・あなたは本当に、本当に花と散ることを望んでらしたのでしょうか?

 

あなたの大きな艦が沈んだという話があって間もなく、あなたの郷里からお父様が私を迎えに来て下さいました。お父様はここ呉も危ない、とおっしゃいましたがそのあとまさにその通りになり、懐かしい呉の街もその多くが戦火に燃えてしまいました。

私はあなたの郷里のあなたの御実家でお父様お母様と一緒に暮らし始めました。あなたがいつかお帰りになるのではないかと皆で思いつつ。

それでもあなたからのお便りも何もないまま、熱い八月のあの夏広島に新型爆弾が投下され、何の罪もない幾十万の市民が殺されました。次いで9日の長崎にも新型爆弾投下でこれも幾万の人たちが広島と同じく焼き殺されました。大陸方面ではソ連が中立条約を破って満州に進撃、大きな犠牲が出ました。

そして八月一五日。

天皇陛下の玉音放送によって日本は連合国軍に降伏したということを知らされました。私は臨月間近いおなかを抱えて泣きました。お父様もお母様も泣く。向けどころのない怒りとか、悲しみが一気に噴き出してどうにも仕方がなかったのです。

いよいよ私のお産が近くなってきたある日、まるで夢のようにあなたからの手紙が届きました。あなたが出撃の前に急いで書かれた手紙のようです。それにはご両親への今までの感謝の言葉、そして先立つ不孝への謝罪の言葉がありました。そして私には

>君と一緒になれたのは小生の人生において最上・最良・最高のことであった。何もしてやれなかったわが身をわびる。本当にすまなかった。生まれいずる子供を見ることが出来ないのは少しさみしいが、小生の魂は必ずや君のもとに返って子供の顔を見る。そして君たちを守ろう。そして何より気がかりなのは君の今後だか、それは君の思うようにしなさい。もし再婚の道があればするもよし。自分自身が一番幸せになれると思う道を往きなさい。それが小生の一番の願いでもある。

ただ・・・君がこの後誰と再婚しようとも・・・君は僕の妻である。

では元気で暮らせよ。小生の死をいつまでも悲しまぬように。小生はいつも君のそばにある!

 

と書かれた手紙がありました。あなたの心に触れた気がして嬉しくもありまた、悲しくもあり・・。

それから間もなく私は女の子を産みました。父親の顔を知らぬ娘が不憫ではありましたが、それに負けない愛情をお父様お母様が娘に注いでくださいました。あなたの戦死の公報が来たのはその年の暮れでした。

娘が4つになったある日、アルバムを見ていた娘が「この人だあれ?」とあなたの準士官姿の写真を見て言いました。お母様はハッと胸をつかれたような表情をなさって私を見ました、私はお母さまにそっとうなずくと

「あなたのお父様ですよ」

と言ってアルバムから写真をはずして娘に手渡しました。娘はしばらく写真に見入っていましたが突然にっこりと笑うと写真を裏返し、そこに鉛筆で「おとうさん」と、覚えたての幼い文字でそっと書きつけました。

その写真は、あの子のあの時の幼い文字もそのままで私の部屋にあります。

 

あの日からもうずいぶん長い年月が経ってしまいました。

私は再婚はせず、あなたのお家でお父様お母様と暮らしました。

優しかったお父様、お母様もとうに鬼籍に入られ、私も年を取ったこの頃では寂しさをひとしお感じます。娘はおかげさまで21で良縁をえてこの近くに嫁ぎました。三人の子供に恵まれた娘も、もう孫が四人もいます。私はひいばあちゃんになりました。

あなたも、ひいおじいちゃんになりましたよ。

あなたが4月のつめたい海に消えた日には、娘一家が私を必ず誘って長迫の海軍墓地に連れて行ってくれます。そして「戦艦大和戦死者之碑」にお参りします。そして戦没者名簿の碑に刻まれたあなたのお名前をそっと撫でていると、あなたがあの日のまま微笑んで立っていらっしゃるような気がしてなりません。しばらくそこにたたずむ私を、娘も娘の夫も孫たちもひ孫も・・・優しく見守ってくれています。

その優しい瞳たちはまるであの時のあなたのそれのようです。

あなた。

あなたは約束の通りこうして娘たちの瞳を通して私を見つめて下さってらっしゃるのですね。本当にありがとう、あなた。

 

どんなに月日が流れてもあなたと暮らした日々は一生忘れません。

あなたと私の間には今は渡れない河があるけれど、そしてあの日聞いた雨音は今も時折聞こえるけれど、私は生ある限りあなたとあなたのお仲間の皆さまが懸命に生きそして散って行ったその気高い心を孫やひ孫たちに伝えていきたいと思っております。あなたやあなたの死の意味、意義を未来永劫続いてゆく日本人の心に問いかけるためにも。

桜(はな)が無駄に散らない世界が来るように、祈って。

 そしていつの日にか私が二人を隔てる川を渡ってあなたのもとに行ったら、あの日のように抱きしめてくださいませね。
はにかんだような笑顔で・・・。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

夫を戦争で亡くした妻の気持ちになって書いてみました。今回「全国戦没者追悼式」に出席なさる戦没者の妻は、ついに十人台になったと聞いております。鬼籍に入られた妻たちは、今、夫のそばで何を語っておられるのでしょう。

(この記事は昨年・平成25年の8月15日に公開したものの再掲載です。だんだんと戦没者のご遺族が減ってゆく今日、どうやってご遺族の悲しみも継承していったらいいのか?こういう形でもいいのだろうかと自らに問いながら再掲載いたしました)




リンホラ「花の散る世界」
(再生できない場合はこちらをhttp://www.youtube.com/watch?v=5dBdQ4vpGg8)
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コメント
かっつんさんこんにちは!
こういう悲しいお話がたくさんあったと聞いています。夫の戦死の公報が入って、家を存続させるために夫の弟と結婚させられた妻、しかし戦争が終わってその戦死したはずの夫が帰ってきて…大ごとになった家もあったと聞いています。
知らなくてはいけない歴史ですよね。知らなくってもいい、なんてことはないはずですよね。
【2014/08/21 16:24】 | 見張り員 #- | [edit]
日本中にたくさんたくさんあったのでしょうね
僕たちはそうやって命をかけて守ってもらったことをもっと知らなくてはいけないのに知らないままの日本人が多すぎると思います

改めて 合掌。
【2014/08/21 10:34】 | かっつん #03mm.wTc | [edit]
すっとこさんこんにちは!
この記事自体は昨年の焼き直しですがあれから一年たっても思いは変わりません。
年々少なくなるご遺族、その想いを継承してゆかねばすべてがいずれ、なかったことになってしまいます。それではいけません、遺族であるなしにかかわらず戦没者やその家族の想いを伝えるのが我々日本人の使命ではないかと思っています。

ありがとうございます!
【2014/08/19 14:59】 | 見張り員 #- | [edit]
本当に戦艦大和の未亡人が書かれたとしか思えませぬ。
それほど真に迫った文章でした。

  <今回「全国戦没者追悼式」に出席なさる戦没者の妻は、
   ついに十人台になったと聞いております。
そうなりましたか・・・・。

見張り員さんが このような形で語り継がれ
わたしどものように それを読ませて頂く者がいて
記憶は語り継がれるものと思います。

「美しい文章を 有難うございました。」
【2014/08/19 06:07】 | すっとこ #O.IV57GY | [edit]
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