2017-09

牛島満中将のことなど - 2012.12.12 Wed

私の母などと話をしている時ふっと思うことは、どうしてこの世代はこれほど激しく「戦前の日本」を非難・否定するのだろうかということ。「修身」「教育勅語」などという言葉は禁句でもある。

それらの何がいけないのか私にはわからない、先ごろ「国民の修身」(監修・渡部昇一 産経新聞出版)を買い読んでみたがそこに書かれていたものを読めば「ああ、こういうことを教えられていたからかつての日本人は徳が高かったんだな」と納得こそすれ非難の対象ではない。

母などが激高する原因らしきものをあえて探すなら「テンノウヘイカバンザイ」など皇室を敬愛し国家を愛するという部分か。

愛国心・皇室崇拝=戦争に行くというあまりに短絡な思考に笑ってしまうが。

 

きっとそれは受けた教育のせいだろうというのはわかるが、激烈な言葉で戦前の日本、特に日本軍を攻撃する様は子供のころ見ていて若干の恐怖さえ感じたものだ。

 

よく言われたのは「中国やフィリッピンで日本兵は現地の子供を投げあげて銃剣の先で突き刺した」とか「中国で村を襲って住民を軍刀で串刺しにした」・・・見て来たように言うその言葉と顔つきが子供心に「日本軍は怖いんだ」というすりこみをするに十分だったと思う。

 

でも子供もバカではないもので、大きくなるにつれさまざまな本を読むようになり、決して母親の言うことが正しいとは思わなくなる。

鬼のように聞かされていた「日本軍」の軍人の中にもいい人がたくさんいた事実。

大体が母親の叔父も、母が鬼のように言う「日本軍」の将兵として出征していたのだから、それならば母は叔父のことも「鬼」とののしらねばならない。

 

素晴らしい日本陸軍の軍人の一人に、牛島満陸軍中将と言う人がいた。

この名前を聞いてピンとくる人は多いかもしれない。かの沖縄戦で第三十二軍を率いた司令官である。明治二十年東京に生まれた牛島満は明治二十七年鹿児島の尋常小学校に入学している(本来牛島家は島津藩士の家柄、満の父親の急逝により鹿児島に戻った)。その後明治三十四年には熊本陸軍地方幼年学校に入り、三十九年には陸軍士官学校に入学を果たす(二十期)。その後陸軍士官学校から陸軍大学校に学んだあと大正七年、シベリア出兵で初陣を飾る。第四十三連隊大隊長や陸軍戸山学校教育部長、歩兵第一連隊長、歩兵第三十六旅団長等を歴任し北満や北支・中支に出動。昭和十四年に陸軍中将になり、やがて彼は昭和十九年八月に初めて沖縄に赴任し小禄飛行場に降り立つこととなる。

ここから少し、彼と彼の沖縄戦についてつたない筆ではあるが書いてみたい。

彼は薩摩隼人で堂々たる体躯の持ち主、その温厚な風貌と部下に対する接し方や責任感の強さで以前から定評のあった彼の赴任で三十二軍の士気は上がり住民も安堵感を持ったという。

 

しかしアメリカの攻撃はいよいよ沖縄にその魔手を伸ばしてくる。疎開も奨励されたが、沖縄から本土まで約六百キロ。その間に敵航空機や潜水艦による攻撃もとうぜんながら予想されていた。(実際壱拾九年六月には<富山丸>が遭難し多くの犠牲が出ている)

その中で、なかなか疎開に応じようとしない県民への率先垂範の意味もあり県庁職員の家族らを乗せた第一船が鹿児島にむけ出航。疎開児童も本土や台湾への疎開を開始。

そんな中、「対馬丸」が撃沈され牛島中将は心を大変痛めることとなった。

「対馬丸」とは?

「対馬丸」は十九年八月二十一日十八時三十五分、「和浦(かずうら)丸」「(ぎょう)(くう)丸」とともに駆逐艦「蓮」、砲艦「宇治」の護衛で長崎に向け那覇を出港。この時「対馬丸」には疎開児童約七百名、一般疎開者約千名が乗船していた。

船内では、児童や一般疎開者たちが不安な気持ちで過ごしていた。何事もなく長崎に到着することだけを祈っていたに違いない。

しかし、翌晩の二十二日二十二時十五分鹿児島県トカラ列島悪石島付近で米潜水艦の攻撃を受け沈没、乗員乗客一四七六名が犠牲になった。生存児童はわずか五九人。一般疎開者の生存者は百六十八人。

この事件が、自身も人の親である牛島中将の心中は想像に難くない。いかなる思いでこの悲報を受け取ったのだろうか。

 

しかし、ごく近い将来予想されるアメリカ軍の攻撃から県民を守るため県民を疎開させねばならない。疎開事業は二十年三月まで行われ、九州・台湾などへ約八万人の県民が疎開を果たした。

その功績に、島田叡知事が大きく関与していたことを特に記す。

 

昭和二十年四月にアメリカ軍が沖縄上陸し日がたつにつれて、もう日本軍にはほとんど抵抗のすべさえなくなる。三十二軍に勤務していた女性たちは撤退を命じられ口々に軍と運命を共にするつもりだったのに、とか、私たちは自分を女とは思っていないからと抵抗するものの司令部を出てゆくこととなった。

三十二軍は南部に撤退、そしてそこで運命の日を迎えることとなる。

 

六月二十二日。いよいよ牛島司令官と長勇(ちょう いさむ)参謀長他の自決の日が迫る

第三十二軍はアメリカ側の予想をはるかに超える持久戦でアメリカ軍に抵抗し、当初一カ月もあれば沖縄を攻略しその後はそこを足掛かりに本土上陸作戦に移るはずだったアメリカの予定を大きく狂わせた。

アメリカ軍の沖縄上陸からここまで三カ月かかっていた。

なお、海軍部隊太田實中将は牛島中将らに先立つ六月十三日小禄にて自決している。

 

その日の朝牛島司令官が身に付けた白い肌着は、司令部付軍属の女性の一人が縫ってくれたもので、自決の数日前にはその女性たちに牛島司令官は、ぜひにも生き延びること、親元に帰るように頑張ること。私はあなたたちの無事を陰ながら祈りますと言って記念品を贈った。

 

若い人は決して死んではいけない。

 

しかし、牛島中将のもとに「あの女性軍属たちが自決しました」の悲報が入る。おそらく自身の娘を重ね合わせて「死んではいけないよ」と諭したのだろうが、軍属の彼女たちは死を選んでしまった。

 

牛島中将の悲しみや無念の思いはいかばかりだったであろう・・・「死なせてしまった」人一倍責任感の強い彼は自分を責めたかもしれない。

 

二十二日の晩には最後の晩餐会が開かれ、とっておきのウイスキーが開けられ残っていたパイン缶もすべて開けられる。

通りかかる将兵や中学生に牛島中将は、パインをフォークにさして差し出す。それを押し戴こうとすると、「口を開けなさい」と言って一人ずつ口に入れてくれたという。

牛島中将の温厚さは中将の馬の係をしていた沖縄男性も証言している、中将はいつも彼に穏やかに丁寧に接し「○○さん、戦争がおわったらこの馬で一緒に遠乗りしようね」と言って嬉しそうだったという。

また兵に対しても牛島中将は何かと声をかけてはその身や家族をいたわっている。

 

生存者の女性の回想によればその時牛島中将は丸で慈父のような顔で「あーん、としなさい」と言って口を開けさせるとパインを口に入れてくれた、その温顔が忘れられないという。

 

昭和二十年六月二三日、夜明け前の摩文仁の丘。

断崖の上に白い布が敷かれている、そここそが牛島中将・長参謀長・佐藤大佐の終焉の地となる場所である。

 

軍服姿の牛島中将、長参謀長、佐藤大佐が洞窟からいで来るとそこに軍刀を手に座る。

長勇参謀長の肌着には 忠則命 盡忠報国 長勇 と墨書されていた。

佐藤大佐が手にした拳銃をこめかみに当て引き金を引いた。そのあと、牛島中将が抜刀。介錯の刀が振り下ろされ――多くの人にに慕われ人望の厚かった牛島中将の人生がここに終わりを告げた。

 

そして、長かった沖縄戦も終わりを告げるのである。

 

沖縄を守るため出撃した「戦艦大和」以下十隻。そのうち四隻の駆逐艦を残し、海の藻屑と消えていった。第三十二軍は第二艦隊出撃準備の報に対し、牛島名で海軍に対し「・・・ゴ厚志ハ 感謝スルガ時期尚早ト考察スルノデ 海上特攻ノ出撃ハ取止メラレタシ」と打電していた。

 

ようするに、とても沖縄まで来ることはかなわないだろう、無理だからやめろということを示唆したのだが、海軍は<海上特攻>を強行した。ここだけでも数千の命が儚く消えた。残ったのは将兵たちの『国や家族を守るため往く』という純粋な思いだけである。

 

摩文仁の第三十二軍司令部跡は当時の激戦の跡を今に伝えている。

牛島中将が・太田海軍中将がその命を張って守ろうとした沖縄。彼ら――牛島中将や太田中将、そして多くの陸海軍将兵――の終焉の地には今も、英霊となった彼らが<外敵>からこの地を守らんとしているような気配を受けるのである。

 

矢弾尽き天地(あめつち)染めて散るとても 魂還り魂還り皇国(みくに)護らん (牛島満陸軍中将 辞世)

 

  (参考図書・「魂還り魂還り皇国護らん 沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯」将口泰浩・海竜社 ほか)

 

牛島中将牛島中将

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● COMMENT ●

荒野鷹虎さんへ

荒野鷹虎さんこんにちは!
靖国神社への転法陛下の御親拝はご遺族はもとより戦没された将兵のみなさんの一番の願いだと思います。崇敬奉賛会の私たちも努力しないといけないです。
靖国の社頭で『英霊にこたえる会』のみなさんが署名活動をなさっているときがあります、ガンガン署名したいものです!

見張り員さんへ!!

大変ありがとう御座います。靖国は本当に早く天皇陛下が参拝できます事祈るばかりです。安倍総理が先鞭をつけて欲しいです。!

荒野鷹虎さんへ

荒野鷹虎さんこんばんは!
牛島中将も、栗林中将もそのご最後は立派ですね。こんなに素晴らしい人たちがなぜ死なねばならないのかと思うくらいですが、あの戦争の結果を見れば自決なさらなかったとしても戦犯というレッテルを張られたことでしょう。
多くの将兵を死なせた責任を、自決という形や、栗林中将のように切り込みをなさって散華という形で取られた。まさに武士道ですね。泣けてきます。
今の物差し--東京裁判史観--では彼らはただの「戦争責任者」「戦争犯罪人」かもしれませんが日本人としての視点で見ればやはり立派な人たちです。

靖国神社を変な次元に引きずりおろして論議することは私は反対ですね。戦犯だから分祀せよという話があるそうですが「戦犯」とは連合国軍が勝手に決めたことではないでしょうか。
結局同じ戦没者として扱うべきです。
総理・国会議員そして誰より天皇陛下がご参拝できるようになることが一番の戦没者へのご供養だと思いますね。

オスカーさんへ

オスカーさんこんばんは!
ご紹介のご本を読みたいと思います!創作であれ実話であれ、沖縄戦や「戦争」というものに触れて考えるよすがになればいいのだと思いますね。
考えること、感じること。そこが一番大事なんですよね。

地震雲!そういえば昨晩もそう大きくはなかったですがありましたよね地震。
なんだかまた最近揺れ始めた気がして怖いです・・・貴重な情報をありがとうございます!気をつけます。

寒いですね、ちょっと風邪気味ではありますが頑張っております^^いつもありがとうございます!!

まろゆーろさんへ

まろゆーろさんこんばんは!
私の母は昭和16年8月の生まれで終戦の年には丁度4歳でした。化の東京大空襲を対岸の雪谷で目撃し大変怖かった思い出があると言っています。またその父親で私の祖父である人は同じころ、大森駅?で米軍艦載機の機銃掃射を受け、命からがら逃げたといいます。そのご祖父は被爆直後の広島に入りどうやら二次被爆したようです。
そんなことをつぶさに見ている世代があの世代ですから当然戦争を憎んでいるんですよね。
そして学齢に達すると日本軍批判の学習ばかり。戦時中は「出てこいニミッツ、マッカーサー♪」だったのに180度転換。
考えてみればしんどい世代です・・・

戦争という極限状態の中でも牛島中将や栗林中将などのように素晴らしい将校さんがいたことは誇っていいことですね。そして沖縄に関していえば、「沖縄」を身をもって守ってくれた将兵やそして県民は未来永劫、日本の誇りですね。

私はまだ沖縄に行ったことが無いですがいつか行ったならば摩文仁の丘に立ちたいと思います。

見張り員さんへ!!

何時も帝国軍隊の貴重な記事を記載されている事に感銘で御座います。(特に戦争遺族として)

牛島中将や硫黄島の栗林中将の国を思う自決は今の世の礎となっていますねー。!武士の血とは尊いものと思いました。
牛島中将は山下奉文大将と同期だったのですね。
いずれも立派な軍人と思います。

私たち遺族の心からすれば、戦犯とか分祠というより総理が靖国神社を堂々と参拝できるようにして欲しいのです。涙)

こんにちは。沖縄戦を描いた「八月十五日の夜会」(蓮見圭一)を買いました。創作の世界ではありますが、いろいろなことを感じ学べるのではと思っています。
また地震雲が出たようです。2週間ばかりは要注意になりそうです。寒い毎日ですが、お身体はいかがですか?お大事にして下さい。

お母様たちの年代は戦争期がちょうど幼少の頃。戦争を憎む人が多いのも事実だと思います。そして昭和20年8月15日をもってガラリと世の中や人々の心まで変わらざるを得なかったのですから、その狭間にいた多感期の子供たちにとってはあまりに精神のギャップが大きすぎたのでしょう。さらに終戦以降、日本軍の非道極まりないことを有ること無いこと。逆につらいことをインプットさせられてしまった。お母様や我が家の母たちの年代は心の立て直しを自分でするしかなかったのかもしれないですね。
戦争は決して良いものではありませんが、その中でもこうやって牛島さんのような人がいたということは有難い歴史の一片だと思います。水際で食い止めてくれたのです。沖縄が、沖縄に居たすべての人たちが。
摩文仁の丘に立つと戦争の悲惨さと生死の境がはっきりと見えてつらいものがあります。

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matsuyama さんへ

matsuyama さんこんばんは!
本当にこのお姿から人を慕い寄らせる何かがわき上がっているような気がしてなりませんね。
命をかける軍人にとって如何に上官が信頼をおけて命を預けられるか。これは一番の問題だったと思います。

よく本当に悪くいわれる日本軍軍人さんですが、こういうひとだっていたんだということをお知らせしたく書いた次第です。
家族を思い国を思い、そして沖縄県民の行く末を思いつつ散華した牛島中将のご遺徳を今こそ多くの人に知ってほしいものだと思います。


こういうまさに命をかけて国のために戦ったその精神を、政治家のみなさんは見つめ見習ってほしいですね。

酔漢さんへ

酔漢さんこんばんは!
何かというと悪しざまに言われる帝国陸軍軍人さんではありますが牛島さんのように人徳あふれる人もたくさんいました。
この方のお話を読むとなんだか私もその場にいたら「どこまでもお供いたします」と言っていると思うくらいのお人柄です。
沖縄戦で敵のバックナー将軍が戦死された際それを聴いた牛島さんは「惜しい人を亡くした」とおっしゃったとか。
敵であれ味方であれその人の死を憐れみ惜しむ・・・普通の人ではなかなか言えないことだと思いますね。


宮城の方が沖縄で多く戦死されているのですか・・・その辺も調べてみたいと思います。

ウダモさんへ

ウダモさんこんばんは。
コメントをありがとうございます!
今の沖縄は「沖縄県民」のものではなくなってしまったような気さえしています。何かというと「反対」の旗を掲げたプロ市民が跋扈し、本当の県民の声が届かない。
そればかりか、たった70年弱前の人たちの残した声さえ消されてしまうこの現実。

日本軍がしたという残虐行為の多くは実はアメリカ軍がしていたことという話もあります。戦勝国だから自分たちのした残虐行為を日本にすり替えたんですね。
その歴史を戦後の日本人--私たち世代--はしっかり教え込まれてしまったんですね。
GHQの工作、その後きっと中共あたりの圧力もあったと思いますね。徹底的に日本と日本人を貶める教育。それが連綿といまのいままで続いている状態は国家として異常ですね。
正しい日本の歴史-日本人視点の歴史-を教えないで何が歴史教育なのか。
残酷な日本兵とは言うが、ウダモさんもおっしゃるように戦争ではどの国も残酷なことをしてきました、そしてそれが戦争なんだと思うのです。
なのにことさら日本の残虐性だけが取り上げられるのはこれは「東京裁判史観」そのものです。

「日本を守る」と言って散華された英霊の心を引き継ぐためにやはり子育ての部分でもしっかりその思いを次代に受け渡したいです。
そう何も戦争に行けというだけが英霊の心の引き継ぎじゃない。
この素晴らしい国土・伝統文化・・・ありとあらゆるものをきちんとした形で次の世代に手渡すのがそれではないかと思います。

ウダモさん、素晴らしいコメントをどうもありがとうございました!!

牛島中将、柔和で温厚そうなお顔つきですね。この風貌が周りからの信頼感を得ている証なんでしょうね。
何においてもその方の責任感、信頼感というものは大切です。ことに命を捧げるようになるかもしれない相手には、絶大の評価ですよね。「あなたのためならいつでも死にます」という世界かもしれません。
戦時中は連戦練磨の鬼上官だけではなかったんですね。相手を労わる優しい上官。自決を腹に決めた中将。その時の心境はいかばかりだったのでしょう。
軍を背負う方々の責任感というものは、現代社会では考えつかないものがあるんですね。自分にはお国のために、自分の命を絶つ行為など考えられないです。今の政治家にしろ国民のために命を掛けます、という方がおりますでしょうか。
素晴らしい逸話でした。

牛島中将の電文

第二艦隊が、沖縄へ出撃する。との報を受けた牛島中将です。これを中止させようと電文を打ちます。しかし、最早これは、届きませんでした。最期を知り、また、軍歴を省みますと、中将のお人柄が、忍ばれます。宮城は、陸軍、海軍とも沖縄で戦死された方が多いのです。ですが、あまり知らされておりません。


なんという終焉…

在日朝鮮人で埋め尽くされた現在の沖縄の姿を思うと、ご先祖様達の命が惜しくてたまらない。
命をかけて沖縄を守ろうとしたご先祖様達の姿が、どんどん消えていってしまうような気がする。そしてかわりに浮かび上がるのは、歴史捏造問題ばかり。
例の日本兵による短剣串刺し事件だけど、あれも最近、捏造だと判明されましたね。中国の歴史博物館に展示されている写真でさえも捏造だと判り、これだけ日本と日本兵が悪者にされてきたのに、今まで気がつかなかった私たち子孫の不甲斐なさを痛感した次第です。教育って、洗脳ですよ。恐ろしい。

反日教育と簡単に言ってますけど、根は深いですよ。かなりの長い時間と綿密な裏工作によって、私たちは騙され続けてきたようです。
今や政治もメディアも教育も宗教も他国に侵入を許している状態となり、ねじれた歴史の事実を元に戻す事は不可能に近い状態となってしまいましたね。
こうした見張り員さんのようなブログや、一部メディア、ネットユーザー達の存在は、今の日本にとって、とても大事ですよ!
日本兵は確かに残酷な部分もあったかも知れない。けれど、それを言うなら、戦争をしてきたどの国も同じ。
戦争自体の是非を論じなければいけないのに、戦争による残虐性について、特に日本だけが取り上げられなければならないというのが異常だと思いますね。何らかの強い意志が働かないと、こうならないもの。

日本の為に戦い、日本の為に散ったご先祖様達、その気骨と精神の強さ、これはもう政治家特定でDNAレベルの継承をしてもらいたいぐらいですよw
散る覚悟で日本を背負う!…こんな日本男子もうどこにも居ないもの。
切腹というシステム自体は賛成しかねるけど、それぐらいの覚悟があって欲しいと思う今日この頃です。
そして私たち母親も、子供は社会の、日本の財産だと改めて認識し、お国の為になるような子育てをしていかなければならないと思うのです。
こう言うと誤解されますが、戦争に行く事だけが、お国の為ではないですからね。何でもいいんですよ、日本に生れて日本で育ったのなら、日本の為になるような事を、何かひとつ小さい事でもいいから出来るような人間になってもらいたい、、そう思います。

いいお話でした!ありがとうです!!


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ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
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