70年目の夏 4 最終話 <樺太> 

――昭和二十年八月九日、ソ連軍は日本との中立条約を破り、樺太の国境を越えてその戦車部隊を進撃させてきました。

十三日にはソ連艦隊による艦砲射撃が始まり、樺太南部の日本人住民は恐慌と混乱をきたしました。避難民となった住民の長い列が幾日も続きます。

その後もどんどん進撃してくるソ連軍に対して日本軍は必死の抵抗を試みましたが、もうどうにもならなかったというのが事実だったようです。十五日には陛下の玉音放送があり、戦争が終わったことを知りました、が、ソ連軍は猶進撃の手を緩めようとはしませんでした。

私たちはこの地の病院の看護婦として働いていましたが、いよいよソ連軍が近くに来たというので病院から脱出することにしました。

患者さんたちを軍のトラックに頼み、そこで別れました。私たち看護婦十数名は婦長さんの指揮のもと、南を目指して避難することに決めました。

そこから長い道を歩きました…時には「もう歩けない」と弱音を吐く若い沢口看護婦を励ましながら。

私の横を歩く米田看護婦は、二十一歳。軍人さんと結婚が決まっていていつも張り切っていました。彼女は「あの人に会うまでは、絶対死ねないわ」と言って婚約者の写真を胸に収めて黙々と歩きます。

しかし、ソ連軍がもう至近に迫ってきました。

時折戦闘機も飛んできては機銃掃射をするので昼間はほとんど歩けなくなっていました。戦闘機が飛ぶ頻度も高くなり、いやが上でも戦車部隊の接近がわかりました。

ある朝、婦長さんが意を決して皆を集めるとおっしゃいました。

「もうそこまでソ連軍は迫っています。このままでは、私たちは死ぬより辛い目に逢うのが目に見えています」

そう、ほかの場所で日本人が殺されたり、女性が辱めを受けたという話を聞いていました。私たちは息をのんで婦長さんを見つめました。

婦長さんは一人一人の顔を見つめて

「もうとても内地には戻れない…かといってここに居てソ連軍に捕まって辱めを受けるのは、嫌です」

とおっしゃると皆も、私もうなずきました。

「婦長…自決ですね」

川野看護婦がぽつりと言いました。川野看護婦は二十五歳、とても美しくまた、やさしい人で患者さんたちから人気者でした。川野さんは泥に汚れた美しい顔を上げ、そういいました。

婦長さんはそっとうなずきました。そして「みな、どうしますか?」と尋ねられました。皆に依存があるはずはなく自決が決まりました。

 

まず、婦長さんと主任看護婦の加藤さんが自らの手首にメスを入れ、血が噴き出しました。そして血にまみれたお二人は気丈にも私たちの手を取って、メスを入れました。血が吹きこぼれてきました―ー私たちはかねて用意の薬を口に入れました。

やがて、出血のためと薬のせいで朦朧としてきました。どさっと草の上に倒れました。そちこちで倒れる看護婦の仲間たち。

私の横に倒れている米田さんが、「栄治さん…栄治さん」と婚約者の名前を小さな声で呼び続けています。苦しげな息遣いが、そして「栄治…さーん」と悲しい声で言った後、彼女は沈黙してしまいました。

一番年下の十八才の沢口看護婦は米田さんの足元のほうで

「お母さーん…お父さーん…おねえちゃーん」

とか細い声で呼んでいました。とぎれとぎれのその声、苦しそうに唸った後「おかあさん」と一声はっきり言った後、沢口さんも黙ってしまいました。ほかの皆も苦しげに唸っていましたが、一人また一人と沈黙してゆきました。

その間にも婦長さんが倒れ、主任看護婦の加藤さんも倒れました。

私も苦しくてもう、目がかすんで見えにくくなっていました。それでも横を見れば川野さんがその美しいお顔をうつ伏しています。彼女の顔を彩るように名も知らぬ小さな花が寄り添っています。
ああ、川野さんも私より先に逝ってしまわれました。待ってみんな、私を置いていかないで。

私は、はあっと熱い息をひといき吐きました。

もう、何もわからなくなりました。


樺太の、短い一瞬の夏に短い人生を私たちは終えたのです
――

 

              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

以前から書かねば、と思っていた女性たちの戦争。十四日の読売新聞朝刊に、南樺太での看護婦さんたちの集団自決のことが出ていましたので、それと「氷雪の門」での看護婦さんの集団自決をモチーフに書いてみました。避難の末自決を選ばねばならなかった女性たちの慟哭が聞こえてくるようで胸が詰まります。

戦争が終結していながら攻め込まれ死ななければならなかった樺太の日本人住民の無念を忘れてはなりません。

そして本日は終戦から70年の日です。

日本国内で、南方で、北の国で、密林の中で、海の中で…亡くなって行った多くの人たちに祈りを捧げましょう。

 

あなた方を忘れない、と。忘れないということが本当の平和への第一歩であることを信じて。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・





さて私は本日十五日から四日ほど山梨県に行ってまいります。その間更新はできませんがコメントを入れておいてくださったら帰宅後お返事いたしますのでよろしくお願いいたします。
暑い日が続きますのでどうぞ皆様ご自愛くださいませね。

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ponch さんへ

ponchさんこんばんは
ponchさんのお祖母様も樺太にいらしたのですか。日本本土に帰ってくるのはまさに命がけだったでしょうね…ご苦労なさったことでしょう。
樺太では「氷雪の門」にもあるような電話交換手の乙女たちや看護婦たちの自決があり生産を極めたようです。あまりに痛ましい犠牲です。しかも8月15日を過ぎての出来事です。そのほかにもソ連(当時)は停戦のため交渉に行った日本軍の軍使を射殺しています。

ご祖母様本当に良かったです。お子さんを連れての帰国は言語を絶するものがあったことでしょう。

樺太での悲劇はあまり取り上げられないことが多く、とても遺憾です。

自分の祖母も樺太からの復員世代ですが、樺太ではこのような痛ましい事件があったのですね。
祖母が子供たちを連れて日本に引き揚げたのは終戦から2年後だったと、祖母の死後
父から聞きましたが、それだけに樺太の看護婦集団自決は痛ましい事件だと思いました。

樺太の看護婦集団自決を見ると、祖母はよく無事で帰ってこれたなと思います。
本当は去年コメントすべきだったと思うのですが、見張り員さんが樺太のことを取り上げてくれてたのを嬉しく思います。

Gくんさんへ

Gくんさんこんばんは!
ご訪問&コメントをありがとうございます!

そうなんですよね、沖縄の悲劇は良く取り上げられますが樺太の悲劇はあまり知る人もいないかもしれないと思うほどTVでも報道されませんね。
15日の終戦の象徴句が出た後に攻め込んだソ連、その先々で非道を繰り返したソ連には憤りしか感じません。正直大嫌いです。

私の家族のほんの一端ですがお話ししました。また折に触れてお話しできたらと思っております。

こんばんは!

最新記事山梨の夏休みと南樺太の本記事、拝読いたしました。終戦間際は、南(沖縄)でも北(樺太)でも悲劇がありました。この北の悲劇は、あまり採り上げられることがありません。終戦(日本が降伏)してからも戦闘を続けたソ連、またソ連軍は、停戦交渉役使者も撃ち殺したとか、悪質です。最新記事の方では、見張り員さんのファミリーヒストリーも拝読いたしました。

河内山宗俊さんへ

河内山宗俊さんこんばんは!
ご無沙汰しておりました、やっとお返事書けます。

情報が発達しすぎても問題があるようですが、あの時代はあまりに情報がなさ過ぎて悲劇をたくさん引き起こしましたね。戦陣訓は本来は軍人に向けてのものだったと聞いていますが当時の一般の市民の心にも訴えるものがあったのでしょう。それこそ集団心理に訴えるようなものが。
なんだか背中に冷たいものが走る、そんな感じがしています。

オスカーさんへ

オスカーさんこんばんは!
ちょっとご無沙汰しておりました、山梨最高でしたよ^^。

オスカーさんもこの記事を読まれたのですね。泣けましたよね、本当に…戦争が終わっていたのは内地だけだったのだと思うとき、まるで8月15日ですべてがピタッと終わったように言っていたある有名司会者(最近ほとんど出てこないあの人)に「不勉強!」と言ってやりたい気がしてなりません。

いやいや、オスカーさんは無知なんかじゃありませんよ!私のほうが教わることが多いんですから。どうぞこれからもいろいろ教えてくださいませね、私も頑張ります^^!

まろゆーろさんへ

まろゆーろさんこんばんは
ちょとご無沙汰しておりました、やっと日常復帰ですw。

にいさまもおっしゃるように「当たり前」であることのありがたさを日本人は痛感すべきです。あの戦争で大きな犠牲があったからこそ、そしてその多くの人の命の上に現在の繁栄があり平和があるということを知ってほしいです。

樺太(南樺太)ではソ連軍に攻め込まれ、五千人ともいわれる日本人住民や軍人が亡くなっています。その中でも女性たちはソ連兵からの辱めを恐れ、自決の道を選んでしまいました。真岡の郵便局の電話交換嬢9名の悲劇もそんな中で起きています。本当に壮絶な最期を遂げられた子と胸が痛むばかりですね。

私のにいさまと一緒にこの記念すべき年を迎えたこととてもうれしく思っております。これからも頑張っていろんな話を発掘したいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします!

情報網の発達し過ぎた現在ですが、デマなどの流布は未だに絶えません。ましてや戦地であれば、どれがデマかと判断できないほど、情報が錯綜します。
戦陣訓などで「日本人はこうあるべき」という教育が徹底的されていたため、集団自決に対して抵抗感が薄かったのか、反対意見を出すこと=非国民として、社会的に抹殺されることが、日常的だったのでしょう。
ヨーロッパ戦線における若いソ連将兵のドイツ人捕虜に対する残虐行為については、歴史に詳しい友人から聞いたことがあります。古参兵が「そこまで酷いことをするのか?」と言ってたしなめると、「こいつらは人間ではない、豚だときいている。だからなにをしてもいい」と返答したといいます。教育とは恐ろしいものです。

こんにちは。
私もこの新聞記事を読みました。マンガに戦争が終わったら特攻隊の人たちが書いた遺書や家族あての手紙など持っていたらひどい目にあわされるという噂が広がり、家族のもとに届けられないままの手紙がたくさんあったことが書いてありました。それでも燃やすことなく大事に持っていた方々がいたからこそ自分たちは今、彼らの想いを知ることが出来るのだと。
最近自分の無知さを痛感することばかりです。見張り員さまを見習わなくては、と思っています。

終戦からまぎれもなく平和な今日を迎えました。70年もの長い歳月にわたってこの国が無傷でいれたことの意味。貴重な意味を真摯に今の日本人は思ってもらいたいです。「当たり前」が、どれだけ有難いことか。決して忘れてはなりませんね。

樺太の話に息を呑む思いで拝見しました。美しくも、壮絶すぎる。

終戦70年の大きな節目を見張り員さんと迎え、ともに思いを寄せることができ、心から嬉しく思っています。精進を重ねられてますますご活躍下さい。
プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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