遠近の春

桜本兵曹がその許婚の紅林次郎からの連絡をひたすら待っている間に、別の兵曹の結婚の話はどんどん進んでいた――

 

その兵曹は高田佳子兵曹。婚約者の佐野基樹は(早く結婚式を挙げたい、夫婦になりたい)と切に思い、内地の高田の養母に手紙を書いたのだった。曰く、…佳子さんからもう私のことはお聞き及びだとは思うが私は早く佳子と結婚式を挙げたい。かといって内地にはすぐには帰れないとなると彼女の晴れ姿をおかあさんに見せられないということになって大変心苦しい、ついては私の勤務する<南洋新興>の船が今月末に広島からこちらに来る便があるので、私が話をつけておくのでそれに乗ってこちらにいらしてほしい、そしてきちんと式を挙げたい…といった内容で兵曹の養母・瑞枝の喜びは大きいものであった。

佐野からの手紙を嬉しそうに読んだ瑞枝は

「そうね…ほいじゃあお言葉に甘えてその船に乗せてもらおうかねえ。よっちゃんの晴れ姿を外地で見られるなんうちは幸せじゃわ」

と言って手紙を大事に懐に入れた。

その手紙を書いたという話を佐野は高田兵曹にして、兵曹はうれしくなって佐野に満面の笑みを見せた。そして

「佐野さん…ほんまにありがとうございます。うちのおかあさんにそんとなまでに気をつこうていただいて。お母さんもよろこんどってでしょう。ほいでもう結婚許可は下りとりますけえ、いつでも平気です」

と言った。佐野も満足そうにうなずいて

「それは良かった、ではお母さんがこちらにつき次第日にちを決めましょう」

と言って二人は嬉しそうにほほ笑みあった。高田兵曹は、自分の<>の二階で佐野と並んで海を見つめながら

「うちら…思えば<あの時>結婚せんでえかったと思います。あの時結婚していても本当に幸せにはなっとらんかったでしょう。今だからこそお互いに大好きで大切で幸せになれるいう気がしとってです」

と言った。海からの爽やかな風が高田兵曹の髪をそっとなびかせた。その兵曹を愛しげに見つめて佐野も

「私もそう思っていました。あの時はまだお互いに若すぎて幼すぎました。あの時一緒になって居ても互いに傷つけあってダメになって居たでしょう。あれから何年かが過ぎてお互いに人生経験を積んだからこそ再び出会えて一緒になりたいと思えるようになったと…まさに天の配剤でしょうか」

と言うと高田兵曹を抱き寄せた。

明るいトレーラーの空と海の青を二人は見つめながら、これ以上ない幸せな思いに支配されていた。

 

そんな思いをしている二人がいる反面、桜本兵曹は何か浮かない顔つきで『大和』艦内にいた。今日は半舷上陸で多くの将兵嬢が(おか)に上がっている。石川兵曹も久々の上陸で跳ねるような足取りで出て行った。皆それぞれの楽しみのためにうれしさを抑えかねているように見える。桜本兵曹は上陸場のあたりに視線を当てて「ええねえ…みんな」と独り言ちた。紅林がここトレーラーに来てからもうひと月になるのに彼からは何の連絡もない。小泉兵曹が何か知ってはいまいかと話を聞いてみたが

「うちも何も聴いとらんのよ…進次郎に聞いてはおるがなかなか忙しいらしゅうて返事も寄越さん。ほんまにすまんねえ」

というばかりである。桜本兵曹は、あまり小泉にせっつくのはやめておこうと思った。彼女や彼女の弟も忙しい立場であるから人の許嫁の動向に気を配っているわけにもいかないだろうから。

(ほんならうちがもっと手紙を書いたり…逢いに行けばええんじゃ。ほうじゃせっかくここに居るんなけえ、じかに逢いに行ったらええんじゃ)

桜本兵曹は、そう決断した。

小泉商店の場所はいつか小泉兵曹に教えてもらってわかっている。忙しいところを悪いとは思うが逢いに行けば絶対に顔を見ることができる。オトメチャンの胸は弾んだ。(今度の上陸の時、逢いに行こう)

うちの心は紅林さん、あなたにずっと預けてあります。そしてずっと返事を待っとります。じゃけえ早うにいついつなら逢える、言うて返事を下さい。うちはあなたのことをずっと待っとります…ほいでもちいと待ちくたびれました。ほんの少しでもええ、あなたのお顔が見たい。

オトメチャンは心の中で紅林に呼びかけていた。

 

そんなころ、『小泉商店』『南洋新興』合弁会社の周辺では妙な噂が立ち始めていた。

「なあ、最近夜中になるとどっからか妙な声が聞こえてこんか?」

<小泉商店>の一人、柴本である。彼はこの一週間ほど夜中に厠に起きたときやふと目覚めたとき<妙な声>を聞いたのだと言った。

「ほう、どんとな声ですかねえ?」

と興味津々で訪ねるまだ若い増田が尋ねると柴本は「なんていうたらええんかのう。うーん、なんかこううめき声にも似とってじゃ。じゃけえうちは話に聞いた南方妖怪なら恐ろしいけえ走って自分の部屋に帰ったわい」と言って増田に「なーんじゃ、柴本さんは弱虫じゃのう」と笑われた。ほかの社員たちも笑いその話はいったんそこで終わった。

さらに<南洋新興>の社員たちも「最近宿舎内でおかしな声が聞こえるときがあります」と話している。グアム支店長のみでトレーラーに出張してきている佐野基樹はその話を聞いて

「おかしな声ねえ?海鳴りとか、鳥の声を聞き違ったんじゃないかね?」

と言ったが数名の社員たちは真顔で

「そんなんじゃないんです。本当に人の声のようです。なんというのかうめき声にも似ています」

と真剣な顔で応えて佐野は「まさか…」と苦笑した。が、以前に高田佳子から

「トレーラーにも妖怪がおってですよ。うちらの艦にも出たことがあります。あがいなもんはどこでも居るんですねえ」

と聞かされたのを思い出した。そしてそれらの南方妖怪は「うちらの艦には<陰陽師>みとうな下士官の居ってですけえ、そん人に祓ってもらいました」と言ったのも思い出し、彼ら社員のほうを見つめると佳子から聞いた話をして

「あまりいつまでも続くようならその人に頼んで払ってもらわんといけないかもしれないね。仕事に支障が出ては困るからね」

と言った。

 

その話を、さりげない表情で聞いていた<小泉商店>紅林次郎。そして<南洋新興>香椎英恵は、その日も暮れ始めたとき浜辺でこっそり逢うと

「聞いたかいあの話」「聞きました?あの話」

と言い合った。二人は互いにうなずきあって紅林は

「まずいな…。我々のことを知られたら困るけえの」

と苦り切った表情で言った。英恵はなんだか悲しげな表情になるとうつむき

「逢うの…やめるんですか?噂になったら困りますものね、将来のあるあなたですもん…。それであなたは海軍のあの人の所へ行くんでしょう!?」

と言った。その頬を涙が流れて落ちた。すると紅林はがっと英恵の両肩をつかみ怖い顔で

「誰がやめるものですか!私はあなたが好きだ、絶対離さない!知られんように上手うやったらええんじゃ。これから宿舎で逢うんは辞めよう、どこで会うかは私が考えるけえ、ちいと時間をください。ええですね?」

と言った。その真剣な表情に、英恵は心の奥からよろこびが沸き上がるのを感じ思わず彼に抱きついていた。

紅林は彼女を抱きしめながら

「ほういやあ、街中で私たちのことが軽く噂になっているとも聞いたけえ、そっちも気をつけんといけませんね。こんなことがあれの耳にでも入ったら大ごとなけえね」

と言った。英恵は紅林の胸の中で

「こそこそしなくちゃいけないなんて、悔しいわ。堂々と歩いていいと思うのに」

と言って涙を流す。紅林は赤子をあやすように体をやさしく揺すりながら

「もうちいと待ってつかあさい。わたしにも考えがありますけえね。それまで窮屈な思いをさせますがどうかこらえてつかあさい。決して悪いようにはしないから安心して?」

と言い、英恵も「はい…わかりました。あなたに従います」と答え、二人は唇を合わせたーー

 

そのさらに一週間ほどのち、小泉兵曹は巡検後岳野水兵長を訪い「その後どうなっとりますかのう?」と尋ねた。

岳野水兵長はうんとうなずくと

「あれからうち、注意して街中やら港やら見とるんじゃがあのどっちの人にも会わんですわい。やっぱし、あれはうちの見間違いじゃったんかもしれませんのう」

と言って小泉兵曹は何かほっとした気分になった。がしかし、

「となると何で紅林さんは何の連絡もオトメチャンに寄越さんのじゃろうか?変じゃのう。焦らすにしても限度いうもんがあろうが」

とまだ不信感に心を占められているようだ。岳野水兵長もそれには

「それはほんまに変じゃのう…。そうじゃ小泉兵曹、こうなったら一度オトメチャンを紅林さんにじかに逢いに行かせたらどうじゃろうか?その辺の手はずは小泉さん、あんたがしたらええよ。友達の株、あがるで!」

と言って小泉兵曹は「それもそうですね、いつまでこうしとっても仕方がない。こっちが動かんと、もしかしたら向こうさんも動けん状態なんかも知らんし。―わかりました、うち紅林さんに連絡とってみます。うちからの話なら、あん人も何とか言うてくるじゃろうから。岳野さんありがとうございました、どうぞこれからもよろしゅう願います」と頭を下げ、岳野水兵長は微笑んで

「ええですよそがいなん。それより小泉さんもどうぞよろしゅう願います」

と言ってその晩は別れた。

 

それから数日ののち、紅林次郎は支社長の小泉進次郎から

「わたしの姉から手紙が来ています。読んでやってください」

と手渡された封筒こそ、紅林とオトメチャンとの再会を願う小泉兵曹からの手紙であったーー

   (次回に続きます)

 

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全く連絡のない紅林を、それでも待ち続けるオトメチャン。その反面結婚式の話がついに出た高田兵曹。明暗がくっきり、となってしまうのかそれとも…。

オトメチャンひたすら春を呼んでおります。

 

松任谷由実「春よ来い」 
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いとし子よ 横須賀編 2 解決編

継代が桃恵の兄夫婦の家に行って三日目――

 

その日の朝、智一大尉は「私は今日ちょっと帰りが遅くなります。もし何かあったらすぐに連絡をしてくださいね」と言った。例の<松岡式防御装置>の横須賀海軍工廠側の本格実験が間近であるので忙しいというのを桃恵もわかっていた。だから

「はい。解りました…もしかしたら泊まられるかもしれませんね。私は平気です、まだ何の気配もありませんもの。予定の日までまだ十日もありますし」

と安心させるようにほほ笑んだ。その桃恵に大尉は

「すまないね、大事な時が近いというのにいてあげられなくて。私は本当に心配だ…お兄さんのとこにも連絡をしておくが決して無理をしてはいけないよ?明日私が帰るまで外に出てはいけない、いいね?」

と言って抱きしめた。夫の背中に両手を回し抱きしめて桃恵は

「ありがとうあなた。…はい、遠出は致しません。でも今日はちょっと郵便局に用事がありますの、それだけ済ませたら家に居りますからね」

と言った。それならいいけど、でも気を付けてと智一はまだ心配そうな顔でいる。平気ですよ、大丈夫と桃恵は言って夫の背中に回した手に力を入れた。

智一は「わかった…では行ってきます」とほほ笑み、そっと桃恵の唇に自分のそれを重ね、そして玄関へと歩き、きちんとそろえてある靴を履いた。そして敬礼。頭を下げ「行ってらっしゃいませ」と桃恵の礼をうけて満足そうな顔で彼は出勤していった。

さてと、と桃恵は独り言ちると食卓を片付け洗濯を始めたーー

 

工廠に向かう三浦大尉はその途中で『武蔵』の北野中尉に出会った。北野たけ中尉は几帳面な挨拶をして「また先日はお邪魔してしまって申し訳もございませんです。その後奥様はいかがですか?」

と問うた。かつての部下ではあるが今は海軍技術大尉の妻であるから<奥様>と言ったが何かしっくりこない。それを察した大尉は微笑みながら

<桃恵>と呼んでやってください。おかげさまで桃恵も変わりなくおります。またどうぞいらしてやってください。桃恵も喜びましょう。私は今夜、もしかしたら職場に泊まり込みになるかもしれません。桃恵のことが心配ですが、何事もなく過ごしてくれるとは思っています」

と言った。北野中尉はその切れ長の目を瞠って

「桃恵は今夜一人なんですか…。そういえば継代ちゃんはおにいさまの家にあずかってもらってると伺いました。すっかり彼女は一人になるわけですか。うーん…」

とうなった。なにか胸の奥がもやもやしていやな予感がする。北野中尉は顔を上げて

「では今夜、私がおうちに伺います。なに、今日軍需部に行けばほかにはすることも無し、平気ですよ。夜におうかがいして様子を見てまいります」

と言った。三浦大尉は「それでは申し訳ないです」と言ったが北野中尉は

「なんの。これこそ分隊長の特権です。それに我々は少し、医療をかじっていますから何かあったとしても対応できます」

と自信を持って行ったので大尉は嬉しそうにほほ笑み「それではよろしくお願いします」と言い、二人は「ではごきげんよう」と別れた。北野中尉は急いで軍需部に走った。

(何か嫌な予感がする、今夜はあと二人ほど連れて桃恵のところに行こう)

そう思いながら。

 

桃恵は、昼前までに郵便局へ行き用事を済ませ家に戻った。継代の不在の家はなんだか寂しいし手持無沙汰で、なにをしたものか桃恵は迷った。では、と庭の片隅に作った小さな畑を見に行き、菜っ葉を少し摘んだ。今夜は智一も不在、となるとそれほど夕飯もいらない。ふう、と息を吐いた桃恵はお腹の張りを感じた。

(あらいけない。ちょっと張りきり過ぎたかしら)

と思った彼女は菜っ葉を台所の流しに置くと居間に入り、その身をそっと横たえた。そしてそっとお腹を撫でながら(お願い、今夜はお父様がいらっしゃらないの…明日まで待って?)とお腹の子に話しかけるのであった。

 

『武蔵』に取って返した北野中尉は村上軍医長に事の顛末を話した。村上軍医長は「春山…ではなかった三浦さんがたった一人で家に?それはいけないね、では北野中尉、秋川兵曹長と剣持兵曹を連れて今夜彼女の家に行きなさい」と言ってくれた。そこで北野中尉は剣持兵曹を呼び出すと早速上陸のため準備を始めた。

 

その日も暮れたころ、桃恵はお腹の張りが規則的になって居るのを感じた。(どうしよう、規則的になってきている)

ということはお産がごく近いということであると彼女は思い、かねてから用意の入院のための荷物を隣の部屋から出しておいた。そして(そうだ、隣の宮内さんに言っておこう)とそっと家を出て右隣の宮内の家の戸を叩いた。が、応答がない。桃恵は思い出した、(そうだった、昨日からご実家に行ってらっしゃるんだった)左隣は最近越してしまって空き家である。

(ならその先の…)と歩を運ぼうとしたとき、ぬるりとしたものが股の間から出てきたような感じがして、いけない!と慌てて、しかしゆっくりと家に戻った。

「しるし」が下りてきていた。

居間に座り込んで、(電話をしなくては…)と思ったが張りがきゅうきゅう来て動けない。

このまま赤ちゃんが生まれてしまったらどうしよう、早く智一さんに連絡しないと…

桃恵は、お腹を押さえてその場にごろっと横になってしまった。

 

それから一時間ほどして、三浦家の玄関を叩く音がした。

北野中尉と剣持兵曹である。しかし応答がない。「留守ですかねえ」という剣持に北野中尉は首を振り

「そんなはずない。三浦大尉は『彼女は今夜一人きり』だと言っていた。大尉は今夜遅くなるかあるいは泊まり込みだとおっしゃっていたから間違いない」

となると。

「緊急事態かもしれない」と二人は顔を見合わせ、玄関のカギをこじ開けた。そして「桃恵さん、桃恵!」と呼びながら中へ入った。居間に入った二人「暗いなあ」と電灯をつけると座卓の向こうに桃恵が横たわっているのを見つけ思わず「春山兵曹、どうしたっ」と旧姓を叫んで駆け寄った。桃恵は額に汗をかいていて、二人の顔を見ると「北野中尉…剣持兵曹!」と小さく叫んでその袖にすがってきた。北野中尉は

「大丈夫、もう大丈夫だ。産気づいたんだな。しっかりしなさい、いま自動車を呼ぶ」

としっかり桃恵を支えると剣持兵曹はうなずいて「電話を借ります!」と言って海軍病院に電話を掛ける…

 

『武蔵』の医務科の分隊長からの連絡とあって海軍病院からすぐに三浦家へ自動車が差回されてきた。官舎の一角の三浦家の玄関前に自動車が止まるとすぐに玄関の扉が開き、北野中尉に抱えられた桃恵が出てきて自動車に乗せられた。そのあとを剣持兵曹が荷物を持って出てきて、玄関に鍵をかけると自動車の助手席に入った。そして自動車はヘッドライトをギラリ光らせて一路海軍病院に急いだ。

 

桃恵入院の知らせは海軍工廠の智一大尉のもとへと、そして桃恵の兄の竹男とその妻、あやこのもとへも走った。兄夫婦は電話をかけてきた剣持兵曹に丁重に礼を述べた後

「幼い子供を預かっても居りますので、明日になりましたら病院に伺います。その旨桃恵に伝えてくださいませ。いろいろご迷惑をおかけして申し訳ありません」

と言って剣持は恐縮した。そして剣持は「私たちが付いていますからどうぞご安心を願います」と言って電話を切った。

そして海軍工廠では智一大尉の上司、喜木キリ中佐が最初にその知らせを受けたが電話を切るなり

「三浦さん、三浦大尉!あなた急いで海軍病院に行きなさい!奥さん入院したそうよ」

と叫び、同僚たちも「早く行ってあげなさい!」「急いで!」と彼を急き立て、智一大尉はなんだかとても不安になると

「では大変申し訳ありませんが行きます!また明日になったら…」

と言いかけたが喜木中佐に

「明日なんか大丈夫だから奥さんのそばにいなさいよう!」

と押し出され、夜の闇の中へと飛び出していった。

 

 

次の朝の、新しい光の中。

横須賀海軍病院産科病棟に大きな産声が響いた。分娩室前の椅子に座って待っていた三浦大尉、北野中尉そして剣持兵曹は互いに顔を見合わせて「う、生まれた??」とささやいた。ややして分娩室のドアが開き、産科の軍医の高梨美也子大尉がにこにこしながら出てきて

「三浦大尉、おめでとうございます。男の子ですよ。母子ともに無事です。…もう少ししたら病室に入りますからお待ちくださいね」

と言って、椅子から立ち上がった三浦大尉は「ありがとうございます!」と頭を下げた。北野中尉と剣持兵曹は「やった、男の子だって。よかったね…継代ちゃんいよいよお姉ちゃんだ」と手を取り合った。

それからさらに二時間後、桃恵は以前継代を産んだ時と同じ病室に落ち着いていた。ベッドの周囲には夫の智一大尉、そして兄夫婦と継代、そして北野中尉と剣持兵曹がほほ笑みあっている。

小さなベッドの中には男の赤ん坊が無心に眠っている。継代はベッドのふちに手をかけて「赤ちゃん。赤ちゃん…どうしてお眼眼開けないの?」とささやいている。

あやこが「もうちょっとしたら赤ちゃんお眼眼開けて継ちゃんを見てくれるわよ。お姉ちゃんだってわかるかなあ?」と言って継代は「わかるよきっと」と言って嬉しそうに笑う。

桃恵は夫に「北野中尉と剣持兵曹に昨晩大変迷惑をかけてしまいましたの…」と事の顛末を話し、智一大尉は二人に謝った。しかし北野中尉も剣持兵曹も

「謝らないでください大尉。我々『武蔵』の軍医長からも勧められてきたのですから。決して迷惑なんかではありません」

と言い切って大尉も桃恵も感激した。兄夫婦も「本当にありがとうございました、お二人がいらっしゃらなかったら」と言って感謝を表した。

 

 

智一大尉以外が病室を引き上げ、大尉は改めて新生児のわが子の顔を見つめた。

「継代の小さい時によく似ていますね、やっぱりきょうだいだ」

そういって喜びを表した。桃恵はそっと半身を起こして手を伸ばし、赤ん坊の頬をそっと指先で触れると

「あなたと私の愛しい子供たち…継代とこの子。大事に大事に育てます。いろんな素敵なものを見せてあげましょうね、そしてこの家に生まれてよかったって思ってもらえるように」

と言って大尉を見つめてほほ笑んだ。智一大尉は

「私たちの二人目のいとし子…桃恵、お疲れさま。ありがとう。そうだね、これから継代も一緒に大事に育てようね。きれいなものや素敵なものを見て感じて、豊かな心の子供たちになって欲しいね。そしてこの家の、この親の子供に生まれてよかったと思えるように」

というと妻をそっとベッドに寝かせると優しく口づけした。

傍らのベビーベッドの中の赤ん坊が、笑ったように見えたその日の朝であったーー

 

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

桃恵さん無事男児出産でした!継代ちゃんとうとうお姉ちゃんになりました。三浦一家は優しい人たちに囲まれて幸せです。この先もずっと、幸せでいることでしょう!

 

「いとしごよ」NHKラジオ第一<午後ラジ>今月の歌です。とても素敵な歌です。

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いとし子よ 横須賀編 1

横須賀の三浦家では、桃恵が臨月を迎えていた――

 

先日もそんな桃恵を心配して医務科で上司だった秋川兵曹長が訪ねてきてくれた。秋川兵曹長は勧められてあがった座敷の隅に座ると

「春山…じゃなかった三浦さん、もう臨月だろう?兆候はまだかな?もし何かあったらすぐに連絡しなさい」

と言ってくれた。その秋川に座卓の前を勧めると桃恵は大きなおなかを撫でながら

「ありがとうございます秋川兵曹長。二人目ですから予定より早くなるかもしれないと海軍病院の産科の軍医大尉から言われています。でもまだ何の気配もなくって…今度の子供はのんきなのかもしれませんよ」

と言って笑った。秋川兵曹長は差し出された湯呑を手にくるみながら

「そう…でも油断をしないようにね。私はまだ未経験だからいろいろ言えないけど、やはり心配だからね。遠慮しないで何でも言ってきなさい?まだ『武蔵』は横須賀(ここ)に停泊してるんだからね。私は週に二度上陸して下宿はここだから」

と心底心配そうに言って下宿の住所の書かれた名刺を差し出した。その心を察し、名刺を受け取って桃恵は「ありがとうございます」と礼を言うとそれを懐に入れた。そこに庭で遊んでいた継代が入ってきて「こんにちは秋川しゃん」とあいさつして秋川兵曹長は嬉しそうに継代を膝に入れその柔らかい髪をなで

「はいこんにちは継代ちゃん。もうすぐお姉ちゃんだね…楽しみだね」

とささやくと継代はにっこりとほほ笑んで

「はい。楽しみでしゅ。赤ちゃんが生まれたらつぐはお姉ちゃんになりましゅ」

と言って秋川兵曹長は「そうだね、きっといいお姉ちゃんになるよ!」といい継代は嬉しそうに笑った。そして

「つぐは今日から伯父ちゃま伯母ちゃまのおうちへ行きましゅ」

と言った。え?と言った秋川に桃恵は

「もう臨月だし小さい子供がいるといざというとき大変だろうからって兄夫婦が。出産して退院したら帰ってくる予定なんです」

と言って秋川はうなずいた。たしかにそのほうが何かといいかもしれない、きょうだいがいるっていうのもいいものだな、と彼女は思いうなずいた。

「今日の午後にも義姉(あね)が迎えに来ます」

桃恵の言葉に秋川は、継代を抱きしめると「そうか、ちょっとの間逢えないかもしれないね。寂しいけど赤ちゃんが生まれたらまた会いに来ますからね。それまで伯父様伯母様の言うことをきちんと聞いていい子にしていてくださいね」と言い、継代は「はい、いいこにしましゅ」とうなずいた。

秋川兵曹長が三浦家を辞し、そのあと昼ご飯を食べてのち、桃恵の嫂・あやこがやってきた。あやこは立ち上がって迎えようとした桃恵を制し

「大丈夫よ、座ってらっしゃいな…。はい、これは今晩のおかずにどうぞ」

と風呂敷包みを手渡した。中にはあやこの手作りの料理があって、桃恵はうれしかった。まるで宝物を奉持するかのように捧げ持って礼を言う桃恵に微笑んであやこは

「つぐちゃんがしばらくの間でもいないと寂しいわね。でもとっさの時にあなたもつぐちゃんも困るようではね…。つぐちゃん、平気よね?少しのあいだ伯母ちゃんのおうちで寝んねできるわよね?」

と継代にいうと継代は

「つぐはお姉ちゃんになりましゅ…。おばちゃんのおうちでいい子にできましゅ」

と自信ありげに言ってあやこも桃恵も思わず笑った。

それからしばらくして二人は見送る桃恵に手を振りながら三浦家を後にした。あやこが

「無理しちゃだめよ、何かあったらすぐ連絡してね」

と言って手を振り、継代もおもちゃの入った袋を背負って

「おかあしゃんまたね」

と手を振った。桃恵も手を振り返しながら二人の後姿を見送った。

 

家の中に戻った桃恵は、居間に入った。やれやれ、と独り言ちてのみさしの茶を飲もうと座った。すると座卓の上に継代のおもちゃの一つが置いてあるのが目に入った。

すると途端に桃恵の全身から力が抜けたようになり、不意に涙が流れてきた。思えば桃恵は、継代と今まで分かれて生活をしたことがなかったのだ。

(だめね私、情けない)

そう思っても涙はしばらくの間流れていた。

 

夕方帰宅した桃恵の夫・智一技術大尉はなんとなく火の消えたような家の雰囲気に

「継代が留守だというだけでこんなにさみしいとはね…。ああ、あの子がいつかお嫁に行ってしまったらこんな風になるんだろうか」

と言って夕餉の箸を使う手をとめた。そして妻を何気なく見やった智一大尉は

「も、桃恵さん!どうしたんだ、お腹が痛いのか?」

とびっくりして彼女の肩に手をやった。桃恵は涙を拭きながら

「違います、違うの…。いえ、私もあの子が留守だというだけでこんなにさみしいなんてって思っていたから…」

と言った。そうだったの、と智一は言って妻の肩を抱き寄せた。そして

「変なことを言ってしまってごめんね…でもきっとあの子は兄さんの家でもきちんとやってるはずです。そして赤ちゃんが生まれたら今度は四人の生活が始まるんだからそんな風に思って泣いてる暇も無くなりますよ?さあ、涙を拭いて」

というと妻の頬を流れる涙をその手のひらで拭いてやった。

すみません、と言いながら桃恵は、自分の頬に当てられた夫の手に自分の手を重ねて

「継代も、今度生まれる子も私たちのいとし子ですね。何物にも代えがたい、愛しい子供たち」

と言い、深くうなずいた智一大尉は妻の顔をそっと上に向けるとその唇に自分のそれをそっと重ねた。桃恵はそのお腹の中で赤ん坊がゆっくり動くのを感じた。

(早く生まれておいで。みんな待ってるから)

夫婦の想いは一つである――

 

  (次回に続きます)

 

                ・・・・・・・・・・・・・・・

久々、横須賀の三浦智一海軍技術大尉のおうちの話です。元『武蔵』医務科の兵曹だった桃恵さん、いよいよ二人目の子供が生まれそうです。無事に生まれますように祈りながら次回をお楽しみに!

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掌に残る愛

高田兵曹の一言で、小泉兵曹の心は決まったーー

 

「じゃが、いったい誰に探らせたらええんかいのう」

と小泉兵曹はしばし考え込んだ。自分は<小泉商店>トレーラー支社長を務める進次郎の姉で、ほとんどの社員に面が割れている。かといって高田兵曹も許嫁を<南洋新興>社員に持っているからこれもちょっとまずい。では誰がいるのか。

考え込んだ小泉兵曹ははっと顔を上げた。そして「あん人がおったわい!」というなり走り出していた。彼女が行きついたのは内務科の居住区、そこで小泉兵曹は

「岳野カメ水兵長、居ってかいの」

と尋ねた。すぐに岳野水兵長が来たが別分隊の一等兵曹の訪いに緊張しているようだ。が小泉兵曹は彼女を抱きかかえるようにして外へ出ると

「あなたが桜本トメ兵曹の御従妹さんでらっしゃいましたね。ちいとお時間くださいませんか」

といってカメをひと気のない場所へといざなった。当初、自分より階級も上の兵曹の呼び出しに緊張しきっていたカメは丁寧な小泉の物言いにほっとしながらも

「いったい何がありましてん?そんとに怖げなお顔で」

と不審そうな顔になる。小泉兵曹はありゃ、そんとにひどい顔ですかいの?と言って右手のひらで顔をするっと撫でてから

「オトメチャンに許婚の居るんのは知っとりんさるでしょう?実は」

と話し始めた。

その衝撃的な内容に岳野カメ水兵長は「まさか、連絡も無しとはどういうことじゃろうか」と不安そうな声音になって小泉兵曹を見つめた。小泉兵曹が

「そこで、仲間の高田兵曹にちいと相談したがです。ほしたら彼女がそれはちいと困ったことになってる気がするけえ探りを入れたらどうじゃろうか、いうんです。で、」

とそこまで言うと岳野水長が

「なるほど、その役目をうちにいうんじゃね?」

とズバリ言った。小泉兵曹は恐縮して「その通りです…岳野さん」というと岳野水長は

「うちのかわいい従妹のトメちゃんのためじゃ。探りでも何でも、人殺し以外ならやるで」

とまじめに言った。

小泉兵曹は「では、願えますか?」というと岳野兵曹はうなずいて「ええよ。どういうふうにするか、よう策を練らんといけんね」と言って、二人は高田兵曹も交えて明日の晩に話をすることに決めた。

 

オトメチャンはその晩も紅林次郎からもらった手紙を寝台の中でそっと広げていた。

几帳面な文字が並び、思いのたけを伝えている。

>早く祝言を挙げたひと思ひます

その部分をオトメチャンは何度も何度も口の中で反芻した。そしてその便箋を布団の中で抱きしめる。(紅林さん、早う連絡をください。うち、あなたに逢いたい。逢いとうてたまらんのです)と心の中で紅林に呼びかけながら。

しかし、とオトメチャンは不意に我に返った。うちがここに戻ってきてからもう二週間になろうとするんにまだ紅林さんはなあも言うてこん。何かあったんじゃろうか、それともただ忙しいだけなんじゃろか。

「まあええわ。もうちいと待ってみるけえ」

オトメチャンは小さくつぶやくと体を丸めて眠りに入って行った。

 

その三日後。

上陸した岳野水兵長は、いかにも民間人風の服に身を包み<小泉商店>トレーラー支社の周辺をさりげなく歩いた。そして周辺を歩く社員たちを見ている。紅林の人相は事前にオトメチャンからそれとなく聞き出していたので(大丈夫、わかるわかる)。

そして岳野水兵長は、支社の建物から数名の社員とともに出てきてその一番後ろを歩く紅林次郎の姿を認めた。そして何気なく彼らのそばを歩くようにしてみた。なにか情報が得られないかと思ったのである。すると一人の男性社員が

「なあ、<南洋新興>に一人女がおってじゃろ?なかなかええ女のようじゃが、誰か決めた人の居ってんかいな?」

と言って仲間を見返った。するともう一人が

「ほうほう!ええおなごじゃなあ、とわしも思うとってよ。ほいでもなんじゃ、気位の高そうなおなごなけえ、わしは遠慮するわい」

と言って皆は笑った。岳野水兵長はその時、最後尾の紅林が実に何とも言えない表情をしているのを見た。そして気が付けば彼はその『南洋新興の女社員』の話に加わらない。

(どういうことかね?)

と岳野水兵長はやや不審に思った。同じくらいの年齢の男性たちとの会話、しかも女性の話となれば何らかの会話はするだろうと思った。そして(あの顔。オトメチャンがおるけえ加わらんという顔でもなさそうじゃな)と不審が増した。

そして、<南洋新興>の建物から一人の女性が出てきた。これこそ香椎英恵である。英恵は<小泉商店>の社員たちに微笑んで会釈すると何事もなかったように歩み去った。

<小泉商店>の社員たちも会釈をすると彼女を振り返ることもなく歩いてゆく。岳野水兵長は(なんじゃ、思い過ごしじゃったか)と何かほっとした。

が。

次の瞬間彼女は「見てはいけないもの」を見てしまった。

仲間よりやや遅れて歩いていた紅林は香椎英恵とすれ違いざまに彼女の手に何かをさっと握らせたのだ。

それは小さな紙片であったのを岳野水兵長は見逃さなかった。

(なんねありゃ)

岳野水兵長は胸がどきどきしてきたが、それを必死で抑えそっともと来た道に戻り始めた。

 

その日のうちに艦に戻った岳野水兵長は巡検後、小泉兵曹と高田兵曹の待つ最上甲板・第一砲塔前に急いだ。小泉と高田は、岳野水兵長を見ると立ち上がって迎えた。階級は下ではあるが年齢が上でしかもオトメチャンの大事な従姉ということに敬意を表している。

岳野水長は「おそうなってすみません」と言って、二人は水兵長を座らせ自分たちも彼女を挟むようにして座った。

「ほいで、どうでした?なにかありましたかのう?」

と小泉兵曹が急き込んで尋ねる。高田兵曹も水兵長を見つめる。岳野水兵長はのどがカラカラになるのを感じながら

「その…。実はうちは見た」

と言って例の気になる一件を話した。話し終えると小泉と高田は「まさか。まさか紅林さんはその女の人に浮気をしとってんかね!」といきり立った。

岳野水兵長は

「まあ待ってつかあさい。うちの思い違いいうこともありますけえ、これはもうしばらく様子を見たほうがええ思いますが。しかし、あの女の人と顔を合わせたときの紅林さんの何とも言えんうれしそうな顔は、あん人たちの間になあもないとは言い切れん気がして、うちは」

というと絶句した。

小泉兵曹と高田兵曹は互いに不安げな瞳を見かわした。高田兵曹がふーっと息をついて

「そんとなことオトメチャンには言われんなあ。たとえその女の人との間になあもないとしても誤解させるには十分な話なけえね。なあもないとわかればええんじゃがね…。連絡がないんが気になるが…はあどうしたもんか」

と言った。小泉兵曹が

「岳野さんありがとうございました。そういう話ならうちらも黙ってみちゃおれませんけえ、上陸の折々に様子を見に行きます。岳野さんには面倒をおかけしてしもうてすみませんでした」

と謝ると岳野水兵長は

「ええんよそんとなこと。可愛い従妹のオトメチャンのためじゃもん。これからも何でも言うてつかあさいね」

と言った。

高田兵曹も岳野水兵長に頭を下げると

「岳野さん、とんでもないものを見てしもうて…。申し訳ないことをしました。オトメチャンに言えん秘密をもってしもうたことになって…。ほんまに申し訳ありません」

と言い、宝石をまき散らしたような夜空を見上げてまぶたをそっと閉じた。その閉じた目から、涙が一筋流れて落ちた。

 

そんなころ香椎英恵は、昼間紅林からすれ違いざまに手渡されたメモに書いてあったトレーラー水島の繁華街のはずれの<待合>の近くにたたずんでいた。

そして紅林の姿が現れ英恵の肩を抱くようにして<待合>の中へと消えて行った――

 

              ・・・・・・・・・・・・・

けなげなオトメチャンが可哀そうになる展開となってきました。小泉・高田・岳野の三人はこれからどうする?このことをオトメチャンには伝えられないし…苦衷の中の三人です。

 

次回は横須賀の三浦さん出産話です!

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愛の風向きが変わるとき

紅林次郎は熱に浮かされたような顔で香椎英恵を宿舎の自室に連れて行った――

 

私室は6畳ほどの部屋で「風呂はまさに大浴場。飯は食堂で食べられるんだ。洗濯だけは自分でしないと」と紅林は言った。暗い部屋の中で、そうなのと返事をした英恵を紅林は抱きしめた。そして

「英恵さんが…欲しいんだ」

というなり彼女を床の敷物の上に倒すようにしてその上にまたがった。英恵のブラウスの前を彼は引きちぎる勢いで開ける、そして肌着を荒っぽく取るとその豊かな胸に唇を押し付けた。だめ、いけませんわと片手で紅林を防ぎながら、反対の手を紅林の背に掛け自分に引き寄せる。やがて身につけたものすべてを紅林の手によって脱がされた英恵は潤んだ瞳で彼を見つめて

「紅林さん…あなたが好きです…」

と言い紅林は「いいね?」とささやく。英恵がうなずくのを見た彼は、英恵を自分のものにするべく動き始めたーー

 

小泉兵曹は眠れぬまま寝台で寝返りを打っていた。

(どうもおかしい、妙じゃ。なんで紅林さんはオトメチャンになあも言うて来んのじゃろう。いくらなんでももうあれから二週間以上たっとる、許嫁が帰ってきたいうんにいくら忙しいから言うて手紙の一つも寄越さんなんてあるんじゃろうか)

彼女の頭の中で、大事な戦友のオトメチャンへの心配が渦巻く。

(どうしたもんかのう…うちが<小泉商店>に行って紅林さんに会うて来るんがええんかもしらんがうちはそうそう上陸のできん身じゃ。手紙言うても…。うーんどうしたもんじゃろうか)

彼女は悩みうなりながらやがていつか知らない間に眠りについていた。

 

そしてオトメチャン…

彼女は今夜第一艦橋での当直中である。暗い艦橋内ではほかに亀井上水が当直についている。その後ろでは今夜は松岡分隊長が立っている。本当なら今日は麻生分隊士の当直だったが彼女は夕方から航海長のお供で艦隊司令部へ出かけていて今夜は帰らない。その代りに「熱い私が代わりますからね、安心して当直に励みんさい」と松岡中尉が買って出たのだ。

松岡中尉の後ろではマツコ、トメキチにニャマトが床に置かれた籠の中で眠っている。マツコたちは「アタシのマツオカが今夜はずっと当直にたつっていうから、アタシたちも一緒に」と邪魔にならないよう、籠の中で見守る…はずだったがとっくにマツコたちは夢の中である。しかし松岡中尉は気にしないで見張り員たちを監督している。

やがて交代の兵曹たちがやってきてオトメチャン、亀井上水はその場を離れることになった。マツコたちを起こさないように足音を忍ばせてオトメチャンと亀井は艦橋を出る。

二人は居住区にまっすぐ向かうと「お疲れさま」と言葉を交わしてからそれぞれの寝台にもぐりこんだ。寝台に落ち着くとオトメチャンの胸には紅林の面影が浮かぶ。

いつもそうなんよ、とオトメチャンは自分に語りかけるように胸の奥でつぶやいた。紅林さん、とオトメチャンは心の内で語りかける。

――うちやっと帰ってきました。あなたがここにおいでになるいうんに留守してほんまにすみませんでした。でもやっと、これでやっと会えることができますね。うちはあなたと会える日をずっと待っとりました。長いこと、長いことずっと。じゃけえ早う逢いたい。あなたが今、えらい忙しい身じゃいうんは、ようわかりますが、ほいでもうちははように逢いたい…

オトメチャンはなんだかとても幸せな気分になるとウフフっと小さく笑って、そして眠りについた。

 

 

紅林は、英恵の体から優しく離れた。英恵は恥ずかし気に顔をうつむけている。英恵の瞳からは一筋の涙が流れた。その英恵にもう一度接吻すると紅林は

「とても素敵だった…。あなたは初めてだったんじゃね。ごめん、こんなことしてしまって」

と謝った。英恵は微笑みながら

「いいんです。謝らないで…私嬉しい。私はあなたのことずっと前から好きだったから。でもあなたは私を見てもくださらなかったのが悲しかった。でも、今こうなれて本当にうれしいです」

とささやいた。その英恵の髪をやさしくなでながら紅林は

「関心がないように見せていたんですよ。そしたらあなたがもっと私に接近してくるかと思って。でもそんなの男の間違った考えだったんですね。積極的になればよかった。そしたらあんな下士官の小娘なんぞと婚約せんでよかったのに」

と言った。<下士官の小娘>という言葉に英恵は

「紅林さん、本当にそのかたとは結婚なさらないんですね?」

と必死な声音と瞳の色を見せた。念を押すような言いかただった。紅林は英恵をしっかり抱きしめると

「あなたという人がおってんじゃけえ、あがいな娘とは結婚はせんです。あの娘はーー」

と彼が知った桜本兵曹の生い立ちを洗いざらいぶちまけた。英恵は目を瞠って

「そんな人とあなたは釣り合わないわ。確かにお気の毒なお生まれですけど、そういうかたは」

と言って言葉を切った。紅林は先を促すように英恵をそっと揺すった、すると英恵はあったこともない桜本兵曹に対して挑むような瞳の色で

「幸せになんかなってはいけないかただと思いますけど。そんなことを言ってはいけないとは思いますけどでも」

と言った。紅林は英恵の豊かな胸に手を当てるとそこをやさしくもみながら

「そうだね。ああいう娘にはそれなりの人生しかないってことだ。私も困ったよ、いくら社長の紹介とはいってもあんな娘ではね」

と言ってやや困ったような顔で笑った。英恵も笑った。

 

――紅林は忘れ去っていた。

自分が桜本兵曹にひとめぼれして交際の仲介を社長の小泉孝太郎に頼んだことを。

桜本兵曹の生い立ちに本気で涙して、この人を守るのは自分しかいないと思ったことを。

桜本兵曹の可憐な美しさに惚れこんだことを。

彼女の下宿の部屋で彼女を抱きしめ、接吻を交わしたことを。

呉へ戻る兵曹の汽車を、ホームの端まで追いかけたことを。

広島湾の沖を行く『大和』に、兵曹の無事を祈ったことを。

兵曹に逢いたくて愛しくて、手紙をたくさん書き送ったことを。

トレーラーに来て、兵曹が特別任務で機動部隊に編入されたと知って愕然としたことを。

               ・

               ・

               ・

彼はそのすべてを、桜本兵曹に関するすべてを忘れ去った。

 

小泉兵曹はそれから数日後、指揮所で双眼鏡の具合を見ていたオトメチャンの背中に「なあオトメチャンよ」と話しかけた。点検に一所懸命で振り向けない兵曹は「え、なんね?」と言ってそのオトメチャンに小泉は

「もう、紅林さんから連絡は来たかいのう?」

と尋ねてみた。すると桜本兵曹は少し表情を曇らせて小泉兵曹に向き直ると

「それが…来んのよ。『飛龍』が入港してからすぐに手紙を書いて出したんじゃが、ちいとも来んのよ…そげえに忙しいんじゃろうか、紅林さん」

と言った。その眉間に不安が見える。小泉兵曹は

「ほうね…。いやあうちも紅林さんに会うた時あん人はオトメチャンのことをえらい心配しんさってほいで早う逢いたい、言うとってなけえすぐに連絡をくれるもんじゃとばっかし思うとったが。いったいどうしんさったんじゃろう?一度進次郎に聞いてみようかいの?」

と腕を組んで考え込んだ。オトメチャンは

「いや、進次郎さんは忙しいけえそんとなことで煩わしたら申し訳ない。もうちいと待ってみるけえ。きっとうちになんぞかまっておられんほど忙しいんじゃわ。じゃけえうちは待っとるよ。小泉兵曹、ありがとうね。うちはええ友達を持って幸せじゃわ」

と言ってほほ笑む。その微笑みを見ているうち小泉兵曹は矢も楯もたまらず走り出していた。小泉兵曹はどうしたんじゃねと叫ぶオトメチャンを置き去りにして小泉兵曹は前檣楼のラッタルを駆け下りた。そして副砲目指して走った。

そこに、彼女が目指す人が居る。

「高田兵曹!小泉兵曹であります」

と叫ぶと、副砲のアーマーのうちから高田兵曹が出てきて

「ああー?誰じゃ?…ありゃ小泉兵曹じゃないね、どうしたん?」

と言って小泉のもとへやってきた。小泉兵曹は必死な顔つきで高田兵曹を物陰に引き込むと「話を聞いてほしいんです」と言い、高田兵曹は

「いったい何ね、そんとにまじめな面しよってからに」

と笑っていたが小泉兵曹の話を聞くにつれ、その表情は真剣そのものになって行った。

「小泉兵曹、そりゃちいとまずいで。いくらなんでも許婚の仲でそんとに疎遠になるなん、考えられんで。ほりゃあ一度探りを入れたほうがええかもなあ」

高田兵曹のこの一言で小泉兵曹の気持ちは決まったーー

 

               ・・・・・・・・・

とうとう一線を越えてしまった紅林と英恵。もう戻れないところまで行ってしまったのでしょうか。オトメチャンはどうなるのでしょう。そして小泉兵曹は行動に出るのでしょうか…。ご期待ください。

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見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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