男の価値 2 解決編

益川中佐は床にうち伏して大泣きしてしまったーー

 

翌日益川中佐は何もなかったかのような顔で出勤したが、山中大佐に「どうした益川君」と声をかけられた。益川中佐ははっとしたが

「いやなんでもありません、なにもありませんよ山中大佐。私に何かあるように見えましたか?」

と言ってその場は平然とやり過ごした。山中大佐はその後姿をしばらく見つめていたがやがて江崎少将の呼ぶ声に席を立った。

 

その日も暮れたが益川中佐と山中大佐は残業しなければならない状態にあった。二人は帰宅する同僚、それに江崎少将を見送ったあと「では急いで片付けよう」と二人は集中して仕事に当たった。

それから二時間半ほどして山中大佐は大きく伸びをして席を立った、そして益川中佐を見て

「どうだね今日はもう終わろうじゃないか。どうだねどこかで飯でも食ってゆこうか」

と言った、彼はどうも今朝の益川中佐の様子が気になって仕方がなかったのだ。出来たら聞き出したいという気持ちがあった。

益川中佐は

「しかし、奥様がおひとりではご心配ではないですか?私は一人で食いますから大佐はご自宅へ…」

と言った。本当は切ない胸の内を聞いてほしいという思いもあったが<天女のような>次子中佐が心配であった。(あの人に何かあったら、私は困る)

すると山中大佐は「そうか」というと

「ならうちに来ればいい。…益川君なにか悩みがあるんだろう?話を聞かせてほしい」

と唐突に言い、益川中佐は慌てた。

「そんな、突然おうかがいなんかしたら奥様にご迷惑でしょう。奥様今は大事なおからだですから私なんぞがお邪魔したら…」

そういって断った中佐に山中大佐は

「大丈夫だよ、次子に負担はかけない。だからぜひ来てほしい」

と言って引きずるようにして益川中佐を丘の上の家に連れて行ったのだった。玄関の戸を叩くとすぐになかから「はい!」と返事があり戸が開いた。

「おかえりなさい」

と次子の微笑みが迎えてくれた。そして次子は夫の後ろにいる益川を見ると

「まあ、いらっしゃいませ!さあさあ、どうぞ」

と言って中に招じ入れてくれた。山中大佐は益川中佐の背中を軽く押すと「さ、入って」と言って皆は家の奥へ。

 

益川中佐は「突然お邪魔して申し訳ありません、本当に申し訳ありません…。すぐに帰りますので」と小さくなって謝る、その益川に次子は大きなおなかを撫でながらほほ笑んで

「いいんですのよ。ごゆっくりなさってくださいませね。今日は残業だったのでしょう、お腹がすいたでしょう、今すぐ食事をお持ちしますからね」

と言って台所に立った。

益川中佐は「どうか奥様、お構いなく!」と叫ぶように言って、山中大佐は「次子がいいというんだからいいんです。あの調子では体調は平気のようだよ」というと益川中佐はほっとしたような表情になった。

 

山中大佐が次子の代わりに茶を淹れ、二人はしばらく黙って茶を喫した。やがて次子が料理を運んでくると大佐は「私がしよう、次ちゃんは座りなさい」と代わりに皿や料理を持った皿を運ぶ。それをみて

(いいなあ。私も嫁さんを貰ったらこうして手伝ってやりたい。ああうらやましい)

と益川中佐はいよいよ羨望の度を強める。次子は

「ごめんなさいあなた、…さあ益川さんどうぞ召し上がってください、何もなくて申し訳ないんですが」

とほほ笑みながら箸に飯茶碗と汁椀を彼の前に並べる。

「そんなとんでもないことです。奥様には申し訳ないです」

益川中佐はもう一度言ったが次子は微笑みながら「さ、どうぞ」と勧める。山中大佐も箸をとり「さあ、冷めないうちに」というので益川中佐は「ではいただきます」と箸をとる。益川中佐の好きな焼き魚もあり彼はうれしかった。

 

食後に、大佐が「軽くどうだね」というので益川中佐は酒をいただいた。

次子もほほ笑みながら二人を見守るように漬物を出して「こんなものしかありませんが」と言った。その次子に「ありがとうございます」と言って益川中佐は酒をいただいた。

そのうち彼は、酔ったわけではないが次子に話を聞いてもらいたいという気持ちが湧いてきて

「実は、」

と話し始めた。

 

……つい先ごろのことなんです。

私は風呂からあがって洗面台の鏡を見ました、いつものように。すると、なんとあろうことか、私の頭の毛、そう髪の毛が薄くなっているではないですか!こう、なんというのか生え際が前より後退してしかも、しかもですよ、頭のてっぺんまで薄いんですよこれが!そんなこんなひどいことがあっていいんでしょうか、まだ嫁さんももらっていないうちに禿げてしまったら、もう絶対嫁さんの来手なんかないですよ。もう絶対…絶対ダメだ。私なんて何の価値もない男なんだ…

 

そういうと彼は顔を覆って泣き始めた。

山中大佐はなんだか気の毒そうな顔で益川中佐を見つめていたがはっとした。それは(生え際の後退だと?それなら私はもうずっと前からだ。そしたら私の男としての価値はもうないってことか?そんな…だとしたらそんな男と結婚した次ちゃんはこの上ない不幸な女ということになるじゃないか…ああなんてこった!)というわが身に十分覚えのある事である。

次ちゃん…、と我が妻の顔をそっと見やると次ちゃんはたいへん難しい顔で益川中佐を見つめている。次ちゃんはしばらくのあいだ泣いている益川を見つめていたが、なかなか泣き止まない彼についに

「益川中佐」

と声をかけた。益川中佐は憧れの天女に慰めてもらえるものだと思って顔を上げた。すると、

「なにを泣いておられますか、大の男の海軍士官が!」

と大喝が飛んだ。益川中佐はもちろんのこと、夫である山中大佐もその場から三〇センチほど飛び上がった(ような気がした)。びっくりした二人が次子の顔を見ると、彼女はまっすぐに益川中佐を見つめ

「益川中佐…なんてことをあなたはおっしゃるんです?本気であなたはご自分には男としての価値がない、とお思いなんですか?しかもその原因が髪の毛だとは。確かに髪の毛がそうなってしまうこと、悲しくもあり寂しくもあると私は私の父親から聞いたことがあります。でも私の父親はそんなことは人生のうちにおいては大したことではない。人がどう思おうと自分に自信があればそんなものはどうでもよくなる、と言っていました。そして私もそう思います。私は男性のーー言葉がよくないですがご勘弁ーーいわゆる<禿げるということ>は貫禄だと思いますよ。だから益川中佐もどうか自信を持ってほしいのです。中佐のお嫁さんにはそういうことを気にしない、ありのままのあなたを好きになってくれる人を選べばいいのですよ。きっといますそういう人は。そして人が思うほどあなたの御髪を気にしている人はいないと私は思いますよ。ご自分でそう思い込むなんて、悲しいですよ。私は益川中佐の仕事をきっちりなさる所やお優しいところが好きです。

ーーこの先絶対、私が思うように中佐のまじめなところ優しいところを好きになる人ができますとも。だからどうか、自信をもって毅然となさってくださいませ。

私もう一度だけ申し上げます…男の価値は、髪の毛ではないと」

と一気に語った。その瞳はかすかに濡れているようにも見える。

益川中佐は

「奥様…」

と言って感激に身を浸した。そのそばで山中大佐もうなずいている。益川中佐は涙を手の甲でグイッとぬぐうと

「奥様よくわかりました。私は間違っていました…そんなことでくよくよ悩んでしまってお恥ずかしい。そして私をそれほどまでに評価してくださった事、益川大感激です!これからはもうそんなことに悩まないで職務に邁進いたします!」

と大きな声で宣言し、次子は嬉しそうにほほ笑んでうなずいた。山中大佐もほほ笑んでいたが、益川中佐の

「そうですよ!大佐だってそんなに生え際が後退していてもこんなに素晴らしい奥様を娶れたんですから私にだって絶対!」

というとんでもない発言にがっくりこうべを垂れてしまった。ありゃ~、と次ちゃんは思わず額に手を当ててしまったが突然大佐が笑いだしたので顔を上げると山中大佐は愉快そうに笑いながら

「そうそう、そうだね!ほんとにそうだ。実は私も君の話を聞きながらひょとして自分には男の価値がないんじゃないかと心配だったんだよ。そしたら次子はなんて不幸な女性なんだろうと思ってしまったが、次子の気持ちを聞いてほっとしたよ。ありがとう次子。やはり君は物事や人の本質を見る才能にたけているね。これからもどうか、よろしく…」

というと突然のように彼女を抱きしめて益川中佐は頬を赤らめてしまった。

 

その晩、またも山中家に泊まった益川中佐であった。気持ちの良い布団の中で

(山中大佐の家はなんて心地よいんだろう。これはきっとお二人のご人徳のなせるわざなんだろうな、素晴らしいことだ。私もいつか妻を娶ったら大佐のような家庭を作るんだ!)

と一人決意を固めるのであった。

 

夫婦の部屋では山中大佐が「今日はありがとう次ちゃん。これで益川君はもう大丈夫、いつもの彼に戻れるよ」と言って次ちゃんをそっと抱きしめていた。

次ちゃんはうれしげにそして恥ずかし気に抱かれていたが、突然「あ…っ」と小さく叫ぶと大きなおなかに手を当てて眉間に軽くしわを寄せ新矢のほうに体を寄せるようにした。

「次ちゃんどうした!」

新矢は叫び、次ちゃんの体をしっかり支えたーー

 

               ・・・・・・・・・・・・・・・

どうしたのかと思えば益川さん、髪の毛が心配だったのですね。男の人にとっては重大なことかもしれませんね。でも人は見かけではありません。大事なのはその中身。それは女性でもおんなじです。

次ちゃんの激しくも優しい言葉に心癒されて、益川さん明日からまた張り切って仕事ができそうですね。

しかし…次ちゃんどうしたんでしょうか。

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男の価値 1

呉海軍工廠に勤務の益川敏也技術中佐は今日も元気に勤務に励んでいるーー

 

江崎少将を中心とする<松岡式防御装置>開発チーム「呉」は先だって極秘のうちに行われた機動部隊による対イギリス軍残敵掃討戦で『飛龍』があの防御装置を使用し、被弾を回避し大成功であった旨を知らされて喜びに浸っていた。そして

「さらにこれを多くの海軍艦艇に装備しなければなりません。各艦艇の特徴に合わせた防御装置を開発しないといけません。そして飛行機に対しても。がんばりどころです」

と山中大佐は言って皆も大きくうなずいたのだった。

そんな中、益川中佐も仕事に励んでいたが仕事がひけて一人、呉の本通りの食堂で夕飯を取るとき思うのは

「ああ。私も早く嫁さんがほしい。一人で食堂で飯食うのも今年で終わりにしたいもんだなあ」

ということでもう何回思っていることか。

食事を済ませ通りを歩けば海軍軍人を妻にした工廠の関係者や、一般民間人の夫婦が仲良く歩き益川中佐の嘆息は深くなる一方である。

私もああして大好きな人と歩きたい。山中大佐の奥様のような天女を妻にしてこの道を歩きたい。

益川中佐は、軍帽を目深に下してそれらの風景が目に入らないようにして自宅へ向かう。自宅の玄関を入るころにはすっかりしなだれている益川中佐である。

が、

(山中大佐の奥様もおっしゃっておられた、必ずいい縁があると。天女のおっしゃることだ絶対だ。その日を待って今は耐えるしかない)

と思い返し、部屋の机の上に鞄を投げ出すと風呂を焚きつけに湯殿へ向かうのが日課である。

 

そんな、ある晩のこと。

いつものように益川中佐は自宅へ戻り、持ち帰った書類に目を通していた。そろそろ風呂も沸くころだろうと湯加減を見るとちょうど良いようだ。早速疲れた体を湯に浸す。

そして風呂から上がった彼は手ぬぐいでごしごしと頭を拭き、洗面台の鏡の自分を見た。

「?」

益川中佐は妙な違和感を感じて鏡の中の自分を凝視した。なにか、どこかが変だ。益川中佐はさらに自分を凝視した。

と!

「まっ、まさかああ!」

益川中佐の口から時ならぬ叫び声が噴出した。この家に他に誰かいたならきっと「どうしました!なにがあったんです?」とおっとり刀ですっ飛んでくるレベルである。

益川中佐は、鏡の中の自分をふるえる指で指しながら

「まさか、まさか。そんなことあるはずがない…絶対だ絶対」

と熱に浮かされたようにつぶやいているーー

 

翌日は益川中佐の非番の日であった。このところ休みなく働いていたので今日明日の非番がうれしかった。

が、昨晩のことが気になってどこかすっきりしない彼ではある。

(思い違いということもある、うす暗い中で見たから見間違いだろう。気にしない気にしない。それより早いうちに残りの仕事を片付けて今日はのんびりしたい)

考えを一転させて、彼は朝飯の支度を始めた。(こんな時嫁さんがいたらなあ)と彼は支度をしながら妄想を始める。

……山中大佐の奥様みたいな人が嫁さんだったらいいなあ、きれいで聡明でかわいくって。その人が私に言うんだ、『あなた、ご飯ができました』って。温かいみそ汁にご飯、そして漬物。朝はこれくらいでいい、私は箸をとってそれらを食べて、嫁さんに『うん、君の作るめしはいつも美味いなあ』って言って嫁さん恥ずかしそうにうつむいて。うひゃー、たまらんなあ…。それで私は工廠に出かける、その私を嫁さんは玄関先まで見送ってくれるんだ、『あなた行ってらっしゃい』って言って。う~~ん、本当にたまらん。それでやっと仕事が引けて帰ってくると家には電灯がともって、夕餉のにおいがしてる。今日は何だろう、魚の焼いた匂いだ、焼いた魚は私の好物だ。嫁さんはきれいにほほ笑みながら『あなたお帰りなさい、お疲れさまでした』って言って差し出したかばんを受け取ってくれる。

『御風呂湧いていますわ、どうなさいます?』という嫁さんに私は『飯が先がいいな、腹が減ったよ』って笑いかけて私はめしを食う。そしてそのあと風呂に入る。嫁さんも風呂を使ったあとやっと布団に入るんだ…恥ずかしげな嫁さんを私は抱きしめてその寝間着をーー…

そんなことを一人考えながらふうっと笑いを浮かべる益川中佐は傍目には気味が悪い。が、本人はいたって真面目である。

が、そこまで思った彼はふーっと長いため息を吐くと

「そんな日が来るのかねえ。私に」

と言って悲しそうな顔になってしまった。そして昨晩からの気がかりがまた、頭をもたげてくるのを感じ、慌てて味噌汁に入れる菜っ葉を刻んだ。

 

非番の二日間が終わり益川中佐は工廠の研究室に戻った。山中大佐がほほ笑みながら

「おはよう益川中佐、少しは休めたかな?」

と言ったのへ中佐は

「おはようございます、はいありがとうございます。おかげさまでのんびりできました、持ち帰った仕事も初日のうちに片づけましたから」

と言って笑って見せた。そして

「奥様はお元気ですか?もう何か月目になりますか?」

と尋ねた。山中大佐の妻で元『大和』副長の山中次子中佐は今、妊娠八カ月半ばである。双子を懐妊中で、

「八カ月に入ってるよ。最近ちょっと早産の傾向が出て心配してるんだ」

と大佐は心配そうな声音になった。益川中佐は

「なんと。ではご入院をしないといけないのではないですか?」

とこれも心配げに言った。彼にとってあこがれの女性であるからすべてにおいて気になる存在である。山中大佐もそれを解っているから

「ありがとう。そうなんだ、海軍病院の産科からは次の検診でまだその傾向があるなら入院しないといけないと言われていてね…でも次子は『あなたを置いて入院できない』っていうんだよ。私のことより自分と子供たちを心配しないといけないんだが、あれが彼女の性分なんだろうね」

と言って窓の外を見た。

その表情が益川中佐にはうらやましかった。

益川中佐は

「奥様はまず、大佐のことを一番にお考えです。それは私にもよくわかります。それだけ奥様は大佐に惚れていらっしゃるという何よりの証拠です」

と至極真面目に言ったが大佐は「なに言ってるんだか」と笑い飛ばした。その表情の裏に「照れ」が隠れているのを益川中佐は見逃さない。

 

その日も仕事が引け、山中大佐はそそくさと愛妻の待つ自宅へ帰り益川中佐はいつもの通り街中で飯を食い、自宅へ帰った。今日も昨日のようにまるで判を押した如くに風呂を沸かし服を脱ぎ、持ち帰った書類に目を通す。風呂に入って洗面所の鏡をふっと見た彼は

「やっぱり――ッ!」

と大声を放ち、そして今夜はその場にうち伏して大泣きし始めたのだった。

「まさかまさか、まさかー!なんでこんなことに、そんなひどいよう」

益川中佐はまるで幼子のようにその場で大泣きしているーー

  (次回に続きます)

 

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・

久々、益川中佐や山中大佐のお話です。次ちゃんも妊娠八カ月に入って大変なようです。が何だか益川さん異変が起きたようです。いったい何が!!!

次回をお楽しみに。

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逢いたいあなた 8 解決編

機動部隊の空母四隻それに随伴の巡洋艦駆逐艦他はトレーラー水島に帰投したーー

 

『飛龍』艦内では入港に際しての点検などが行われ、安田兵曹は

「上陸は明後日以降だな。桜本さんも『大和』に帰るのはそのあとになるけど、『大和』にはちゃんと連絡行くから安心してね。それよりみんなで上陸して遊ぶのが楽しみだなあ~」

と言ってうきうきしている。

桜本兵曹もうれしそうにそれをみていたが急に(これでみんなともお別れなんじゃなあ。なんだか寂しいていけんわい)と思って視野が涙でかすんだ。でも、とオトメチャンは思い返した、(これで水島に帰ったら、紅林さんに会うことができる。紅林さん、うちはあなたに逢いたい。早う逢いたい)と。しかし『飛龍』で優しくしてくれた皆との別れは、つらい。

安田兵曹はそんなオトメチャンを見て

「いいねえ、許嫁の居る人は。喜んだ顔も憂いを含んだ顔もきれいだねえ…ああ私も早くそうなりたいなあ」

と小さな声で言った。そして安田兵曹もまたオトメチャンと別れなければならない寂しさに耐えているのであった。

 

そんなころ、トレーラー水島の目抜き通りはたくさんの海軍将兵嬢や現地の人々、在トレーラーの日本の会社の社員などでにぎわっていた。

そろそろ夕暮れ時、店店の軒下にはランタンが灯され、あるいは電灯が光り華やいだ雰囲気になりつつある。その雑踏の中を歩く一組の男女はひときわ目立っていた。海軍将兵嬢たちは

「ええねえあのお二人、お似合いじゃわあ」

「あの女性なかなかきれいね、男性も素敵。いいねえ似合いの二人」

「私もあんな素敵な人と歩いてみたい」

と目をそばだててささやき交わして通り過ぎる。それほど目立つ二人こそーー紅林次郎と香椎英恵である。二人は、すっかり意気投合して仕事が終わると待ち合わせてこうして歩いているのだ。もう四日、いや五日めになろうか。英恵は幸せそうに紅林の横について歩く。紅林も優しく英恵を見つめて歩く。

紅林は

「あなたがこんな素敵な女性になって居たなんて思わなかった。なんだ、もっと前からあなたとお付き合いしてたらよかったなあ」

と半ば冗談ぽくいってほほ笑んだ。英恵は周囲の男女がしているように、紅林の片方の腕に自分の腕を絡めると

「あら、今からだって遅くはありませんわよ。私独りですから」

と言ってこれもほほ笑んだ。すると紅林はかすかに悲しそうな表情になり、香椎英恵はいぶかし気に紅林の顔を見上げた。

「どうなさったの紅林さん…楽しくないの?」

英恵の声音さえ悲し気になって紅林は慌てた。紅林は急いで彼女を路地に引き込んだ。路地を入ると表通りの喧騒が少し遠くなった。

そこで彼は路地を先に進んだ。数分歩くともう、海辺に出た。夕日は水平線に沈み、残照だけがはるかな水平線を名残惜し気に浮き立たせている。二人は砂浜に立って残照の消えるのを見ていた。すっかり日が落ち空に星が瞬きだしたころ、紅林はやっと口を開いた。彼は英恵の両肩に手を置くとその瞳をまっすぐに見つめ

「私には、実は将来を約束した人が居るんです。その人は、海軍の下士官で…ここに停泊の大きな艦に勤務しています。でもその人は大きな作戦に出て行ったとかで、まだ帰ってきていないんです。無事かどうかさえ今の私にはわかりかねる。そんな状態なんです」

と告白した。

英恵の瞳が潤んだ。そして

「あなたにそんな人が居たなんて。許嫁がいらしたんですね。そしてその人があなたはご心配なのね」

というと切なそうに泣き始めた。すると紅林は

「でも、正式に許婚になったわけじゃないんです。まだきちんと私の親に紹介しているわけでもないんです。だから、…」

とそこまで言うと言葉を切った。英恵は彼の瞳をじっと見つめて「…だから?」と先を促した。紅林は一息大きく息を吸うと

「白紙に戻しても、かまわない」

と言った。その一言で、彼の心は一気に英恵に傾いた。英恵は彼の胸に体を寄せ、紅林はその細い体をしっかり抱きしめた。

 

『大和』では、オトメチャンの分隊もほかの分隊も

「機動部隊、投錨じゃ。いよいよオトメチャンが帰って来んさるで!話をはように聞きたいもんじゃ」

と喜び合っている。

そんな中で小泉兵曹と石川兵曹はどことなく浮かない顔つきである。石川兵曹は

「まだ桜本兵曹の許嫁いうおひとからなあも連絡がないんですか…いったいどうしてしもうたんでしょうねえ」

と言って小泉兵曹を見た。小泉兵曹も困ったような顔つきで

「もうオトメチャンが帰ってくるいうんになあ。帰ってきたらいの一番に会わせてやりたいんじゃが、本当にどうしたんじゃろうねえ?」

と言って腕を組む。石川兵曹は

「まあほいでもお相手さんも忙しいお人らしいですけえ、気にはなっとりんさるじゃろうが連絡もままならん、いうことかもしらんですよ。桜本兵曹がお戻りになるまで待ってみましょうよ」

と務めて明るく言った。そうでもないと不安に押しつぶされそうだった。その兵曹の心を解って小泉も

「ほうじゃな。忙しすぎて連絡できんいうこともあるな。まあちいと待ってみようか」

と言って笑って見せたのだった。

 

紅林はあっという間に英恵におぼれた。

英恵のすべてに。

桜本トメにはなかった大人の色香、可愛らしさ育ちの良さ。それに話術の巧みさ…それらは英恵の年齢と社会経験の年数からきているものであるが、トメにはないものばかりであった。「小泉商店」にも女性社員はいることはいたが会社経営に深く参画しているものではなく単に事務を執るだけの社員であり、英恵とは全く違う。てきぱきと部下に指令を出して現場で働く英恵は輝くばかりに美しかった。

会社こそ違っているがこんどは合弁会社で一緒に働けると思うと紅林の心は今までにないほど弾んだ。そして彼は桜本トメとの、あのささやかであったが幸せな時間を忘れ去っていた。

英恵は星明りの下、彼に抱きしめられていた。軽く身じろぎをすると彼は、英恵の頤にそっと指先を当て上向かせた。そして紅林は英恵の唇に自分のそれをそっと重ねていた。

二人のシルエットは離れることがなかったーー

 

それから三日ののち。

オトメチャンは『飛龍』に別れを告げるときが来た。見張長・河原田少尉は泣きそうになりながら

「ありがとうね。あなたのおかげで機動部隊は助かりましたし大いに面目を施しました。本当にありがとう。いつか、『飛龍』に勤務になってほしいです…またどこかで会いましょうね」

と言ってオトメチャンを抱きしめてくれた。航海長の桐橋少佐も名残惜しそうにオトメチャンを見つめ

「ね、『大和』に帰るのやめない?ここに残れるようにしてあげようか?」

と冗談とも本気とも取れるような言い方をして周囲の皆は泣き笑いになった。安田兵曹が「今夜は航海科のみんなでオトメチャンの送別会をします。歓迎会をできなくって申し訳なかったですが。航海長に上陸の許可をいただいておりますので、みんな!オトメチャンが今夜は主役だよ」と言って航海科の皆はわっと歓声を上げ「オトメチャン万歳、帝国海軍万歳!軍艦大和万歳、空母飛龍バンザーイ」と大声をあげ万歳三唱した。

 

夕刻。

オトメチャンは飛龍の皆と水島の繁華街を歩いていた。小柄なオトメチャンは皆の輪の真ん中になって歩いている。皆の背が高いので輪の外が見えないが次々に話しかけられ周囲の様子を見る余裕もない。しかし楽しいオトメチャンである。今まで知らなかった人たちとのうれしい出会い、オトメチャンは心の中で今度の<お手伝い>に感謝した。

「そこそこ、そこの見世に入ろう。オトメチャンはここ、知ってる?ここは私たちがトレーラーに来るとよく使う見世だよ」

安田兵曹の声に皆が「さあオトメチャン行くよ!ここはめしが美味いんだよ」と背中を押してオトメチャンは「ほうですか!ほんならうちたくさんいただこうかいねえ」と喜んで一行はぞろぞろ店の中に入って行った。

 

その直後。

紅林と英恵が見世の前を通って行ったのをオトメチャンは知る由もなかったーー

 

             ・・・・・・・・・・・・・・・

オトメチャンやっと水島に帰ってきたというのに。

紅林さん心変わりですか?あんまりですね。そして香椎英恵さんは本当に彼をオトメチャンから奪うつもりなのでしょうか。

この三角関係のお話はまたそのうち…。

松田聖子 ブルーエンジェル


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逢いたいあなた 7

香椎英恵は紅林次郎の前にたつと「お久しぶりです」とあいさつしたーー

 

紅林次郎は「ああ、香椎さん!本当に久しぶりですね」とほほ笑んだ。昔、紅林の伯父と一緒にいた時逢ったことのある英恵。あの時よりずいぶんと大人の女性になった、と彼は思った。そして

「あなたのお父様はお元気ですか?伯父はまだ〈南洋新興〉に勤めてるようですが」

というと英恵ははい、とうなずいてから紅林をじっと見つめて

「あなたの伯父さまは昨年参与になられました。定年をお迎えになられましたので…、それで私の父は社長になりました。あなたの伯父様には昔からとてもよくしていただいています。私も学校を終えた後〈南洋新興〉に入りました。ひとからは『親の伝手だろう』などと陰口を言われましたが、私は自分の力で入りました。今はやっと認めていただけるようになって今回は〈小泉商店〉との合弁の推進室室長としてここに来ました…紅林さんがこちらにいらっしゃると風のうわさに伺って、お会いできるのを楽しみに参りましたの。どうぞよろしくお願いします、紅林さん」

と言って頭を下げた。

その所作に、紅林は思わず胸がときめくのを感じていた。かつて会ったときには何とも思わなかった英恵、そしてその後自分には「桜本トメ」という許婚もできている。がしかし、今夜ここで香椎英恵に会ってその『大人の女性』、しかもしとやかな女性に触れた紅林の心のうちにある変化が生じ始めているのを本人は感じ始めている。

確かに桜本トメは英恵より美しいかもしれない。美しさだけなら彼女の右に出るものは他にはいないかもしれないというほどの美しさである。

がしかし。

美しさだけでは満たされない何かが、彼にはあった。それが何なのか、よくはわからないが満たされていないのは確かだった。もしかしたらそれは、なかなか会えずにいることなのかもしれない。あるいは、トメに大人の女を感じにくいからかもしれない。

ともあれ、紅林はまた明日英恵と会う約束を取り付けその晩は小泉商店の宿舎へと帰って行った。

 

そのころオトメチャンは見張の当直を終え居住区に帰ろうとしていた。

ふと(格納庫、いうんを見てみたい)と思い立ち零戦や艦攻などの格納されている場所に行ってみた。今まで彼女が見たことがないたくさんの飛行機が並んでいて、オトメチャンは「ほう、すごいもんじゃのう」と声を上げていた。と、「誰かな、そこにいるのは」と声がして一機の九七艦攻の陰から二人の搭乗員嬢が出てきた。飛行服姿の中尉嬢。

その袖章はどちらも中尉で、オトメチャンは慌てて敬礼した。すると搭乗員嬢たちは笑いながら

「そんな堅苦しいことしなくていいよ、もう消灯時間を過ぎている。誰が見てるわけじゃないから気楽にいこうよ…あなたは手伝いに来たという下士官かな?」

と言ってオトメチャンを九七艦攻の前に手招いた。ええんでしょうか、というオトメチャンに艦攻搭乗員の二人は微笑んで

「いいに決まってるでしょ。〈艦攻のねえさん〉がいいというんだ、さ、おいでなさい」

と言ってくれてオトメチャンは喜んで二人のほうへ走り寄って行った。艦攻の搭乗員の中尉嬢はそれぞれ「中井」に「寺尾」だと名乗った、オトメチャンも自己紹介すると二人は驚いたような顔になり

「あなたが、あなたがあの『大和』で有名な見張の達人なんですね!いやあ、なんて光栄なんだろう」

と言って顔を見かわしてうれしそうに笑っている。オトメチャンは恥ずかしくてたまらない。その様子を見て二人の中尉嬢は

「いいねえ、初々しい。鼻にかけないところがこれまた素晴らしい」

と言ってオトメチャンを挟むように座るとあれこれ菓子などだして話に花を咲かせた。オトメチャンはすっかり二人のとりこになり

「艦攻のねえさま。これからもどこかでお会いしたらお話してええでしょうか」

と言って中尉嬢たちは「もちろん!その日を楽しみにしていますよ」と喜んでその晩はそれぞれに分かれて行った。

 

オトメチャンが居住区に帰ると、仲間たちが「おおー!どこ行ってた桜本兵曹―」と怒鳴るように言ってまとわりついてきた。隠し持っていた酒を少し飲んだようだ。安田兵曹がオトメチャンの肩に手を回し

「もうちょっとでトレーラーだ。なあ、水島に戻ったら私たちと最後に遊ばない?だって帰ったらあなたは『大和』に戻ってしまうでしょう、私…悲しい寂しい」

というと泣き始めた。泣き上戸のようだ。

そばにいた下士官嬢たちが笑って

「やっさんはすぐ泣くなあ。…で、どうかなあ桜本さん。『大和』に帰る前にちょっと水島で遊ぼうよ」

と誘う。オトメチャンは誘われてうれしかった、だから

「うちなんかでええんですか?うれしい、ほんなら一緒に遊びましょうや」

と答えて皆は「うおー!『大和』のぴかイチ見張嬢と遊べるぞー」と大騒ぎ。挙句にオトメチャンを担ぎ上げて部屋中を「わっしょいわっしょい」と練り歩く始末である。

担ぎ上げられながらオトメチャンは(こんなにうちを思うてくれるなんて…うちは果報者じゃな)と思うのであった。

 

それにしてもあの激しい戦いを終えた彼女たちは心がささくれていたのは確かである。オトメチャンをダシにして、というとよくない言い方ではあるが手伝いに来てくれて大きな成果を上げてくれたオトメチャンを中心に据え騒ぎたいというのも『飛龍』の航海科の皆の本音である。

安田兵曹はまだ涙を流しながら

「トレーラーに帰ったら、いい男に抱かれたい。うん、抱かれたいぞ。この服のボタンをこう、やさ~しく外してくれてさ…『お疲れさまでした、さあどうぞ』かなんか言ってくれたらもう、最高だよねえ」

と言って周囲の航海科員は大笑いをしている。航海科の一人、相原兵曹が

「いいねえ、私もそうしたい。ねえ、桜本兵曹はどんな男が好き?今までどんな男と遊んだ?」

と聞いてきてオトメチャンはちょっと慌てた。そしてほほを紅く染めながら

「うち、その、あの…。まだうちは男の人を知らんのです」

と告白した。ええーっ、うそおーっ、と悲鳴のような叫びが上がり皆は一斉にオトメチャンのもとに殺到し

「なんでなんで?どうしてどうして?」

と姦しい。オトメチャンはびっくりしながらも「うちなんだか男の人が恐ろしゅうて。ほいでもこんなうちでも許婚がおるん」というに及んで皆の叫びは一層大きくなりついにほかの居住区から「なになに、いったい何事!」と駆けつける始末。

話を詳しく聞いた皆ははあ~っと桃色のと息を吐きながら

「いいなあ~…許婚がいらっしゃるなんて。うらやましい。私もほしい許婚―」

と言ってオトメチャンをうらやましげに見つめる。安田兵曹が

「やっぱり桜本さんみたいにきれいで勇ましくて楚々とした人でないとだめなのかも…。そしたら私たちみんなだめじゃんね」

と言ってその場の皆は大笑いになったのだった。

 

さてトレーラー水島停泊中の『大和』防空指揮所ではその日も小泉兵曹たちが見張業務に励んでいる。小泉兵曹の横に、ハッシー・デ・ラ・マツコにトメキチ、そしてニャマトが立って

「トメさんまだ帰ってこない、どうしたんだろう」

と話し合っている。小泉兵曹が双眼鏡をのぞいたままで

「ほうじゃのう。もう二週間になるがなあも言うてこんなあ機動部隊。オトメチャンを借りたまま内地に帰ってしもうたんじゃろうか?」

とつぶやいてマツコたちは軽い恐慌に陥った。小泉兵曹は足元の軽い騒ぎに

「まあそんとなこともないじゃろうが…心配じゃなあ」

と言ってマツコは「そうよ、あの人はここにいるべき人なんだからさっさと返してほしいわよね」と言いトメキチは「トメさんがいない『大和』なんて」と悲しげにつぶやきニャマトさえ「ギャマド!」と言って怒っているようだ。

そして小泉兵曹はそのままの姿勢で

「ほいでな、うちにはもう一つ気がかりがあってじゃ」

と言いマツコたちは小泉兵曹に飛びついて「なになに?気がかりって何よ教えて」とせっつく。小泉兵曹は双眼鏡を二度、右に寄せてから

「それがなあ。オトメチャンの許嫁の紅林さん、あの日から全くなあも言うて来ん。どうしたんじゃろうか…忙しいんじゃろうか」

とまたつぶやいた。

マツコたちはその小さなつぶやきを聞き取りかねたが「まあトメさんなら何でも上手くやるわよ。案ずるより産むがやすし」と言って、マツコはトメキチとニャマトを背中に乗せてトップに舞い上がって行った。

小泉兵曹はまだ、

「ほいでもなあ…、あれほどオトメチャンに逢いたがっとってなけえ、もうちいと頻繁に連絡があってもええとうちは思うがの」

とぶつぶつ言っている。

 

その日の日暮れごろ、石川兵曹が「小泉兵曹小泉兵曹!」と叫んで走ってきた。おお、どうしたんねとその体を抱きとめた小泉兵曹に石川兵曹は喜びをあらわにして

「通信科から聞いてきました!機動部隊が明後日にもトレーラーに帰ってくるらしいです。どの艦も飛行隊も皆無事。じゃけえ桜本兵曹も無事ですよ!なんでも戦勝を敵に悟られんように無線封鎖をしとってなけえ今までなあもわからんかったんだそうです」

と大声で言って笑った。「本当かそれ!ああ…えかったわあ、うち心配したんじゃけえ」と小泉兵曹は言うなり石川兵曹を抱きしめて泣き始めた。そして

「これで、これでオトメチャンは紅林さんと逢える。ああ、えかった、ほんとうにえかった」

と言ってさらに泣いた。

 

しかしそんなころ肝心の彼は、香椎英恵と一緒にトレーラー水島の繁華街を歩いていたのだった――

 (次回に続きます)

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・

紅林さんどうしたんですか!!と言いたくなる展開です。香椎英恵とどうにかなっちゃうんでしょうか。そしてオトメチャン『飛龍』航海科の皆に囲まれて楽しそうです。青春の一ページと言った感じでしょうか。

 

ちょっと気になる「海軍グッズ」ご紹介です。

ギガントさん謹製「帝国海軍トートバッグ」です。艦体をイメージした紺と赤のツートンカラーの本体に、ボタン止めのついた開口部。そして中のポケットには「敵艦隊見ユ」のモールス信号がプリントされています。手提げ・肩掛け両方のひも付きです!
ギガントトートバッグ1 ギガントトートバッグ2 ギガントトートバッグ3 ギガントトートバッグ4

(画像ギガント様よりお借りしました。ギガントさまのHPはこちら)

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逢いたいあなた 6

「小泉商店」の船の後ろに停泊したのは「南洋新興」の船であったーー

その船が停泊して一時間半ほどののち、紅林次郎は悄然とした姿で船着き場に戻ってきた。が、彼は船の周りにいる社員の姿を遠望した瞬間、シャンと背を伸ばし、何もなかった風を装った。これは小泉純子兵曹から言われていたことで
「どうか紅林さんには〈なあも聴かんかった〉という風にしておいてつかあさい。この件はまだだれにも言うちゃいけんことでこれがもしも、ほかの人から内地に伝わるようなことになったらえらいことになります。どうかご自身の胸に仕舞うておいてつかあさい」
と小泉兵曹は何度も頭を下げて紅林に頼んだのだった。(お嬢様との約束だ…絶対に誰にも言わんし、言えたことではない。それに気取られてもいけん)と紅林は肝に銘じた。
それにしても、と紅林は思った(そんとに苦戦を強いられておるんじゃろうか、帝国海軍は)。今まで内地の報道では連戦連勝だと聞いていたがあれは嘘だったのか。
「いやそんなことがあるはずなかろう?たまたま今回は苦戦をしているいうだけじゃろう。ほいですぐみんな戻って来んさるじゃろう」
紅林はそれだけを小さく声に出して言った。そして船のほうへと歩いてゆく。まだ船内に荷物をいくつか残している、それを取りに行こうと思った。
(なんだどこのフネじゃ)
紅林次郎が見上げた船は『南洋新興』の船で、(ああ、あちらさんもついにやって来んさったか。合弁の事業も本格化じゃな)と紅林は改めて感じた。どうしてもこの事業は成功させ、「小泉商店」のみではむつかしい南方での対海軍事業を盛り上げてゆかねばならない。
そのための、私は先鋒だ。
紅林次郎は、本当は泣きたい心を必死に隠してそう決意した。
『南洋新興』の船の前を通って、紅林が自分の会社の船の舷梯を上がってその姿が船内に消えたとき、『南洋新興』の船から数名の社員が下りてきた。その中の一人は、船の舷梯から降りトレーラーの土に足をつけるとほうっと息をついて
「やっときましたわね。ここがトレーラー諸島、水島ですか。暑いところだこと。でもご覧になって、あの海と空の色!なんて美しいんでしょう」
と言ってから「小泉商店」の船を見やって微笑みを浮かべた。一緒に降りてきた社員たちはその妖艶ささえ感じる微笑みに見入ってしまう。
その社員こそ…紅林次郎の伯父が彼の嫁にと勧める香椎英恵である――


「敵機直上、急降下あ!!」
オトメチャンが叫んだあと、敵機四機は逆落としに『飛龍』に突っ込んできた。そして爆弾を投下した。『飛龍』はもちろん他の空母も回避行動をとったが
「避けきれない!!」
オトメチャンは双眼鏡を握ったまま〈それ〉を見上げて声にならない悲鳴を上げた。爆弾はやけにゆっくり落ちてくる、それをオトメチャンはまるで夢を見ているような気分で見つめていた。今まで…こんな気持ちで爆弾が投下されるのを見ていたことがあっただろうか。しかし彼女はその時そんな心持で上空を見上げていた。そのままの気持ちで彼女は思った、
(ああ、遂にうちの運もここで尽きるんか、絶対戦死者のおらん帝国海軍の、うちらは初めての戦死者、英霊になるんか。それは名誉なことに決まっとる、護国の英霊になるんじゃけえ大変な名誉じゃ。ほいでも、ほいでもうちは…)
そこでオトメチャンの夢を見ているような気分がぱっと晴れオトメチャンはがっと双眼鏡を握った。
紅林さんに、一目でいい。死ぬんなら、逢ってから死にたい。
――「あなたに、あなたに逢いたい!!」
オトメチャンの心が絶叫したその時。
ブザーが鳴り響き、見張長他の指揮官たちが「皆、伏せー!!」と大声でどなった。何事かわからず突っ立ったままのオトメチャンの戦闘服の胸元を引っ張って安田兵曹が「伏せろ、頭抱えて伏せ」と鋭く叫んだ。言われるままにその場に頭を抱えて伏せるオトメチャン、すると間髪を入れず飛行甲板の真ん中が開き、そこから何かが上空めがけて飛び出していった。オトメチャンが首をねじって見上げるとそれは飛龍の上空でぱっと開いた。大きな、それは大きなまるで布のようなものが広がった。
その開いた何かの上に、敵機の放った爆弾が落ちるとその爆弾は勢いよく〈敵機のほうへと〉飛び上がっていきそこでさく裂した。敵機は自分の爆弾を受けて落ちてゆく…
そして、それから数分ほどして先ほど『飛龍』から放たれたものが静かに『飛龍』の上に降りてきた。
「あれは一体…」
顔を上げて言いかけたオトメチャンの頭をしっかり押さえて安田兵曹は
「もうちょっと待ってな。あれが完全に落ちるまでな」
と言い、それが完全に甲板上に降りてきたのを見計らって皆は立ち上がった。見張長の河原田少尉は
「桜本兵曹、これを見るのは初めてじゃないかな?みてごらん」
と言って艦橋の一部にかかったそれを手に取って少し引っ張って見せてくれた。それを手に取って見つめた桜本兵曹は
「これ…、松岡中尉の」
と言って見張長の顔を見た。河原田見張長はうふっと笑うと
「そう、あなたの艦『大和』の松岡中尉のラケットからヒントを得た例の防御装置だよ。呉の海軍工廠がこれを開発してくれたおかげで助かったよ。いや実戦に使うのは実は初めてなんだけど、大したもんだね!これがすべての艦艇に付けばもう怖いものなしだよ」
と言ってなんだか得意げな表情になった。オトメチャンは
(山中副長のご主人の研究の賜物じゃわ…それにうちらの分隊長のラケット。飛龍が先に、なんてちいとずるいわい)
とちょっとすねたような顔になったが
「ほいでもおかげで助かりました。…この装置はほかの空母にも?」
と尋ねた。河原田見張長はうんとうなずいて「そう、わが『飛龍』に『蒼龍』、『瑞鶴』『翔鶴』。それに今回は参加していないが『加賀』『赤城』。ほかの空母にも順次装着らしいよ」と教えてくれた。
さて先ほどの敵機は、イギリス軍が残留していた島の北端に掩体壕を掘って隠していたものであると偵察機からの報告があり、『金剛』『榛名』により二日間夜間砲撃され、島は壊滅。イギリス海軍嬢たちは日本海軍の前にはもはや敵ではなく、捕虜となってトレーラー諸島の中のとある島にまとめて移送されることになる。

戦いは『女だらけの帝国海軍』の勝利で終わった。
トレーラーに帰る機動部隊、途中参加の艦艇たちも艦体の修理などのためにトレーラー水島を目指す。尤もそれらの艦艇の艦長たちは司令部に戦況報告をせねばならないという仕事がある。
意気揚々と帰路に就く『飛龍』たち機動部隊は暗夜を発光信号を放ちながら航海する。そんな中で、ささやかな戦勝祝いが開かれている。
航海科では「御手伝い」に来た桜本兵曹がまるで主役のようになり、車座の中心に据えられ皆から酒を注がれたり菓子を手渡されたり。
安田兵曹が
「『大和』からの桜本兵曹のおかげで我々は助かりました。ありがとう。で、あなたは『気配がする』と言われましたがどんな気配を感じたんで?」
と尋ねるとその場の皆は膝を乗り出して「どんな?ねえどんな?」とせっつく。桜本兵曹は酒の継がれたコップを両手にくるむように持つと
「なんていうたらええのか…なんかこの辺にもやもやした気持ちのようないものを感じます。うちは『大和』でも敵が近くに来よるようなときはこの辺がもやもやします。そして、頭の上に押されるような感じを受けます」
と言ってそっと片手で胸の真ん中あたりを叩いた後、頭を叩いた。
「ほう!すごいもんだ。私たちの中にそんな気配を感じるものはいるかね?」
安田兵曹はそういって皆を見回したが、皆首を横に振った。桜本兵曹は、コップを見つめながらかみしめるように
「ほいでもうちもまさか、敵機が四機も逆落としに突っ込んでくるなん、予想もせんかったですけえもう最期かと覚悟しました」
と言った。皆桜本兵曹を見つめうなずく。河原田見張長が
「桜本兵曹はあの防御装置があるのを知らなかったのですね。あれは最高の兵器です。『大和』にはまだ?」
というと桜本兵曹ははいと笑って、
「『大和』にはあの装置の元祖の松岡中尉がいますけえね。あん人は敵の機銃弾をラケットで跳ね返します。ひょっとしたら爆弾でも跳ね返すかもしらんですよ」
と言って皆は「まさかー!」と言って笑った。
そこに主計長が数名の主計科嬢を伴って「戦勝祝いの汁粉です!皆さんさあどうぞ」とやってきて甘いもの好きのオトメチャンは大感激。おいしい汁粉に舌鼓を打ったのだった。その時、ふっと思い出したように河原田見張長が
「そ言えば、桜本兵曹。あなた確か装置が作動する直前『あなたに逢いたい』って叫んでいたよね?あなた、ってだーれ?よかったら教えてくれない?」
といい桜本兵曹は驚いた。口に出して言わなかったはずなのに、と思ったが彼女はウフフとほほ笑むと〈あなた〉について語りはじめ周囲の将兵嬢はさらに膝を進め、夜は更けてゆくのであった。


「オトメチャンどうしたんじゃろうか。あれから機動部隊がどうなったかなあも言うてこん。どうなっとるんじゃ。うちは心配でたまらんわい」
小泉兵曹はある晩、当直の艦橋で亀井上水相手に心配事の渦巻く心中を吐露した。亀井上水が
「もう一週間以上たってるじゃないですかねえ…。もしかしてあの作戦失敗して」
とそこまで言った時小泉兵曹は慌てて亀井の口をふさいで
「あほ!妙なこと言うたらいけんで!帝国海軍に失敗なしじゃ、それは貴様もわかっとろう?変なこと言うたらいけんぞ」
と戒めた。ふさがれた口で亀井上水はフガア、と言ってからそっと小泉兵曹の手をどかすと
「わかりました、申し訳ありません。きっと通信に障害が出るような激しい戦いだったのかもしれませんね」
と言って二人は黙った。二人は機動部隊が無線封鎖をして、戦闘があったことやその戦闘に日本側が勝利したことを知られないようにしていたことを、まだ知らない。
そしてオトメチャンを伴った機動部隊がトレーラー目指して帰ってきていることも。

「小泉商店」の船〈泉新丸〉の甲板に立っていた紅林次郎は、舷梯から誰かが上がってきたのを見た。(こんな時間に誰だろう、私ももう宿舎に戻ろうと思っているのに)
するとその人影はこちらに走ってきた。紅林の前にたつとその人は頭を下げてから
「お久しぶりです、紅林さん。わたしを覚えてらっしゃる?香椎英恵です」
と言った。月明かりを受けてほほ笑むその人の顔を見た紅林は「ああ!」というと笑みを浮かべて香椎英恵に向き直ったーー
 (次回に続きます)
 
            ・・・・・・・・・・・・・・・・
大変危険なところでしたがオトメチャンも機動部隊も助かりました。オトメチャンの心の叫びは愛する人に届いたのでしょうか。香椎英恵はついに紅林に会ってしまいました。波乱が起きなきゃいいのですが。
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見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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