2016-11

少尉たちの無謀な挑戦 2〈解決編〉 - 2016.11.28 Mon

午前の課業が始まり、それぞれの分隊で訓練や補充その他に忙しいーー

 

そんな中、指揮官クラスを中心とした少尉嬢たちはまだ平穏に仕事をこなしている。兵隊嬢、下士官嬢たちも少尉たちの隠された思惑を知る由もなくそれぞれ忙しく働く。

そして訓練も佳境に入り始めた午前十時ごろ、機銃の北沢少尉は尿意を感じた。(あ。いけない!どうしよう…厠に行きたくなってきた。しかし港の約束を破ってはいけない!ここは我慢我慢)北沢少尉は腹をくくって我慢しようと決めた。

(もとはと言えばわたしの下士官兵への無理解がこの事態を招いたのだ。一週間がんばるぞ)

そして北沢少尉は半袴のバンドをしっかり締めなおした。そして声を励まして

「さあ、実戦同様に行くぞ!右三十度敵機!」

と叫んで指揮棒を振り上げたーー

 

そんな状態も昼食が終わるころから変化をきたしてきた。少尉嬢たちに妙に落ち着きがなくなり、下士官嬢たちは

「なんか変と違うか?三澤少尉も見崎少尉も皆そわそわしとってなあね。なんぞあるんかいな?」

とこそこそ言い始める。眼に見えるほど少尉嬢たちは落ち着きを無くしていた。

そして少尉同士顔を合わせると

「…まだ平気か?」

「ああ、何とか。でもさっき危なかったよ」

「私もだ、うっかりくしゃみをしちまって、漏れるかと思ったわ」

などと話しては「じゃ、今日もあとちっとだから頑張ろうね」と肩をたたきあって別れる。そんな光景があちこちで展開されている。

 

その日は暑かったので午睡の時間があった。

下士官兵嬢たちは当直を除いて午睡に入り、士官たちもそれぞれ午睡を取るものや当直の監視に当たるものなどに分かれる。

「寝ればちょっとは尿意を忘れられるかもしれない」

と通信科の少尉の一人は言って眠りに入ったが、午睡時間の終わりごろにひどい尿意が付き上げてきて目を覚まし

「おおう!!もういかんもういかん、厠に行きたい行きたい~~!」

と叫ぶなり、その場で激しき足踏みをし始めた。と、同室の少尉も目を覚ますなり

「やめろー!せっかく忘れてたのに~、ああ思い出しちゃったじゃないさ~!ああ私も厠に行きたいおしっこしたい~」

とベッドから降りてその場足踏みを始める。

二人の少尉嬢は、しばらくのあいだ気がふれたように「厠厠!おしっこおしっこしたいよう」と叫んで部屋中走り回っていたがスピーカーから

「午睡終わり五分前」

の副長の声が流れるころには尿意もどこへやら、二人何事もなかったような顔で部屋を出て行ったのだった。

他でもこうした風景は展開されていたがその時点では幸か不幸か下士官兵嬢たちの目に留まりはしなかったようだ。

 

 

夕食を前にした時間、「夕飯が終われば厠に行ける!」と少尉嬢たちはもう真っ青な顔で午後の課業を済ませた。

航海科の樽美酒少尉も例外ではなく、桜本兵曹は小泉兵曹をそっと呼び寄せるとその耳に

「なあ、小泉兵曹。今日は樽美酒少尉なんやちいとおかしい思わんか?」

とささやいた。

すると小泉兵曹も、桜本兵曹の肩をそっと叩くと

「ほうほう!うちも変じゃ思うとったわい。なんや…こう、もじもじしとってげんきがない。ほうかと思えば急に元気になりんさる。それの繰り返しじゃと思わんか」

というのへ桜本兵曹は大きくうなずいて

「ほうじゃ。なんか、言うてみれば行動に波がある。それはまるで」

とそこで言葉を切って小泉の顔を見た。小泉もうなずいて

「小便を我慢しとってるようじゃ」

と言って桜本兵曹は「まさにそれじゃわ。小便を我慢しんさってよ、あの顔は」と言ってから

「ほいでもなんでそんとなもの、我慢なさってかねえ?『厠に行ってくるよ』、言えばええと思うことじゃがねえ?」

と腕組みして言った。小泉兵曹も「ほうじゃねえ、それにほれ、よう見たら兵学校出の少尉さんばっかし妙な格好してもじもじしとってなねえ。どうもうちには兵学校出のえらいさんの考えることはようわからんわい」と言って、妙に内股の通信科の少尉をちらっと見て、二人は笑いあった。

 

しかし<不幸>というものは突然やってくる…

 

山口通信長は、夕食前のひと時を日野原軍医長と一緒に過ごすのが倣いで今日も医務科に軍医長を尋ねていた。

通信長は「軍医長、ちょっとええですかのう?」と言って日野原軍医長を部屋の隅へ手招いた。どうしました山口さん、という軍医長に

「今日…士官連中、特に少尉の連中の様子がおかしいと思いませんか?何やら妙に落ち着きがのうてドタバタしよります。なんぞあったんですかねえ」

とささやいた。それなら私も、と軍医長は

「感じていましたよ。それも波がある。落ち着きがないと思えばしばらくしたら落ち着きを取り戻す。かと思ったらまた…の繰り返し。これはなんだか、思い当たる状態があったような」

と言った時、外から大騒ぎの声が聞こえてきた。

一人の看護兵曹が真っ青な顔で

「軍医長、日野原軍医長来てください!大変です!!

と部屋に飛び込んできた。何事だ、と軍医長は叫んで通信長とともに部屋を飛び出した。兵曹嬢が真っ青な顔のまま

「最上甲板に願います!」

と言って走ってゆく、そのあとを軍医長と通信長は走る。

その途中、黒多砲術長や浜口機関長、林田運用長なども加わって走ってゆく、道々林田運用長が「いったい何が起きたというんだろう?」とつぶやいたが応えるものはいなかった。

 

すでに最上甲板には多くの将兵嬢、そして佐藤副長がいて、てんでに〈下を〉指さしてわめいている。「どうしました!」と軍医長たちが駆け寄ると佐藤副長は、先ほどの看護兵曹より真っ青な顔で

「少尉たち数名が、海に飛び込んで自殺しました!」

と言って軍医長はそれこそ死ぬほどびっくりした。「じ、自殺ですかまた何で?」と叫んで下を見ると、何人かの頭が鮫よけの網の内側に浮かんでいるのが見えた。

「早く、助けてやれ!」

副長が焦って叫んだその時、カッターが漕ぎ出され浮かんでいる<頭たち>を救い上げた。見守っていた軍医長以下は

「助かったようだね。しかしまたどうしたことだ」

と安どと不安に満ちた顔つきである。

 

全身から海水を滴らせた少尉嬢が八名、梨賀艦長・佐藤副長の前に引き出されてきた。副長はまず八人の無事を確認した後

「なぜ自殺を試みたのか、不満や悩みがあったのか」

と問いただした。少尉嬢たちは慌てて「自殺じゃありません、自殺なんか致しません!」と叫んだが、彼女たちが語った真実に副長もそして艦長もあっけにとられてしまった。短い髪からぽたぽたと海水を落としながら一人の少尉嬢はバツ悪げに

「小便がもう、我慢なりませんでした。ほとんど一日厠に行かずもう漏れそうでした。私たちちょうど甲板上にいましたので漏らして恥をかくくらいなら、と海に飛び込みました。そして海の中で放尿しました」

と告白した。

「しょ、小便をほとんど一日我慢だと?また何でそんなことを」

佐藤副長は信じられないと言った顔で叫ぶように言った。そこで別のびしょぬれ少尉の一人が「実は、」と例の話を始めた。

話を聞き終えた艦長と副長は大きくため息をついてから

「その心持は素晴らしい。だがね、体を壊してしまうかもしれないとは考えなかったかな?それにそんなにそわそわした状態で訓練をしても実が入らなかったのではないか?そんなことを一週間続けたら皆海軍病院行になって居たぞ」

とこもごも言った。

梨賀艦長は

「そうだ副長、まだ艦内にこの騒ぎを知らずに厠を我慢しているものがいてはいけない。艦内放送で『厠の我慢大会は終了』と言ってやってはくれないかな」

と言って佐藤副長はうなずいて「わかりました、では」というと一番近くのマイクをつかむと

「厠を我慢している士官はすぐに厠に行くこと!我慢大会は終わった。すぐに厠に行け!」

と放送、とたんに艦内のそこここから慌てて厠に走りこむ無数の大きな足音が響き、やがて静かになって行った。

そしてこの騒ぎに加わったすべての少尉連中が前甲板に集められ、梨賀艦長から

「人に無理を強いるならまず自分たちが体験すべしという心持は素晴らしいが、体を壊しては何もならない。この経験を良い方に生かして今後も皆でしっかりやってほしい。無謀なことはしないでほしい」

と訓示を受け「わかりました」と皆しっかり敬礼で応えたのだった。

 

こうして〈少尉嬢たちの無謀な挑戦〉はあっけなく終わりを告げたのであった。

 

「はあ、そんとなことがあったんね」

食卓当番の桜本兵曹は小泉兵曹から「少尉嬢の自殺騒ぎ」の顛末を聞いてため息をついた。そして

「まあ、訓練中は我慢できんこともあろうが実戦になればそんとなことも言うとれん。何とかなるじゃろ。しかし少尉さん方も思い切ったことをしんさるねえ」

とまたも二人で笑いあったのだった。

 

今夜もトレーラーの星空の下、女だらけの『大和』ほかの艦艇は眠りにつこうとしているーー

 

             ・・・・・・・・・・・・・

遂に海に飛び込んで…。

我慢の限界ってどのくらいなのでしょうか、でも絶対真似をしないでくださいませね。本当に体によくありませんからね!

 

昨日は映画「この世界の片隅に」を観てきました!原作を読んで予備知識を持っている方がわかりやすい部分もありましたが全体に良い映画でした。

何度か涙腺が崩壊してしまいました。

戦争を扱ったものと言えば単に「悲惨」というキーワードでくくられがちですがこの映画は戦争と同居のような日常の中でも笑いや、日々の暮らしに頭を悩ます〈当たり前〉の日常が描かれていて戦争というものを別の観点から見つめることができます。

しかしやはり戦争の残酷で無情な面は牙をむき…、この後は是非映画をご覧になっていただきたいと思うものであります。

  この世界の片隅に
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少尉たちの無謀な挑戦 1 - 2016.11.23 Wed

「指揮官だからってえばるんじゃねえよなあ。まったく嫌になる」…そんなささやきが平野少尉の耳に聞こえてきたーー

 

その日、午後の課業を終えた機銃の平野少尉は海兵同期で副砲分隊の大久保少尉とシールド無しの高角砲内に入り込んで羊羹を食べていた。真夏の日差しの照り付ける中、二人は目深にかぶった艦内帽の下の目を細めながら羊羹をひたすら食べていた。

「美味いねえ」「うんさすが間宮羊羹だね、コクが違う」

そんなことを言いながら二人は羊羹をぱくつく。

と。

彼女たちの居る場所のすぐ下の機銃座から下士官嬢たちらしい話声が風に乗って吹き上がってきた。

「…こないだうちらの指揮官の北沢少尉に『厠に行ってもええでしょうか』言うたんじゃ。ちょうど訓練も終わりになるときじゃったけえええか思うての。ほしたらあのくそ少尉、『いかん!訓練はまだ終わっていない!小便なら我慢せえ』いうんじゃわ。そんとなこと言うてもうちもあの時は五時間も小便したいんを我慢しとってなけえね…ちっとでも動いたらもう漏れるいうんにあの少尉!」

一人の下士官嬢が憤りながら語るともう一人が

「うちの指揮官もほうじゃわ、『貴様ら精神がたるんどってなけえ小便ばかりしとうなるんじゃ、もっと気ぃ引き締めていかんか。緊張感が足りん』いうて怒るんよ。そのくせな、あのあほ少尉てめえが小便しとうなると訓練中でも『あ、厠厠~』いうて消えるんじゃ。あいつのほうこそ緊張感も何もないで?まったくええ加減な女じゃわい」

と怒り、最初の下士官嬢も

「うちのもじゃわ!ひとには『我慢せえ』いうときながらてめえはさっさと厠に行きよる。ほんとにええ加減じゃわ。じゃけえ兵学校出のエリートいうんは好かんわい」

「ほうよ、人の心がないんじゃわ連中には」

とぶうぶう怒る。

しばらくの間怒っていた下士官嬢たちはやがてそこを去って、平野少尉と大久保少尉は言葉もなく羊羹を握ったままその場に座っていた。

やがて、平野少尉が

「そんな風に私たち、思われてるんだね」

とポツリ言った。大久保少尉も

「ああ…心外だ。私は彼女たちにそんな無理強いをしたことはないんだが…いったい誰だね彼女たちの指揮官は。心当たりあるかね?私は機銃のほうの指揮官がだれかはわからんけど」

と言って苦々しげな顔になった。平野少尉がその平べったい顔を空に向けていたが「ああ。多分石井少尉と稲垣少尉だよ。大体わかる」と言い大久保少尉も「ああ、あの連中ならさもありなん」と言った。

しかし。

「このままじゃ困るなあ。士官と下士官のあいだに軋轢があっては事があったとき支障をきたす…何かいい方法がないかなあ」

平野少尉は考え込んだ。大久保少尉は

「まあ慌てて考えても事を仕損じる。ここはじっくり考えようや。なんならほかの指揮官連中にもあたってみようじゃないか。何かいい方法を思いつくやつがいるかもよ」

と言ってその日は二人別れた。

 

数日後、巡検後。

星空の下の最上甲板に各分隊から来た二十名からの少尉嬢たちが集まった。その中心は機銃の平野少尉と副砲の大久保少尉で、多くの少尉嬢たちは平野少尉の

「下士官嬢に厠に行くななどと無理な要求をして我々兵学校出身者の評判を落とすものがいる。どうしたものか、意見を聞きたい」

という呼びかけに応じて集まったものである。少尉嬢たちはその場に車座になるとあれこれ知恵を出し合った。

が、なかなかいい意見が出ない。一人の少尉嬢―宮本―がはーっと息を吐いて

「なんだかなあ。どうして我々と下士官嬢たちは分かり合えないんだろう。特務士官の少尉たちならその辺の機微がわかるんじゃないだろうか?――そういやここには特務士官がいないではないか、これだから兵学校出身は…っていわれるんじゃなくて?」

とやや厳しい瞳を皆に向けた。皆は「それもそうだが…」と黙ってしまった。宮本少尉は

「だからと言って特務士官を巻き込むのもどうかと思うが…ここは我々で何とかすべきだと思うけどね。―そうだ!我々指揮官クラスの少尉はこれから一週間、始業から夕食が済むまで厠に行かないように努力するんだ!そしたら下士官兵たちも納得してはくれないだろうか?そして我々の側も人の苦しみがわかろうというものだ、そうしたらもう無理なことを言わないだろう言えないだろう?どうだろうか」

と提案をした。

うーむ、と防暑服の腕を組んで考え込んでいた少尉嬢たちだったが平野少尉が決然顔を上げると

「宮本少尉、その案私はいいと思う。下士官に『厠に行くな』と言っておきながら自分はしれっとして厠に行くなんぞ士官の道にもとる。厠に行けなかった下士官嬢の苦しみを味わうのだ!そうだそうだ、われわれも一週間厠に行かなければいいのだーっ」

と叫んでその場の少尉嬢連中はその勢いに気おされてつい拍手してしまった。

「決まりだね」

宮本少尉が静かに言い、平野少尉は

「うん。…そうだただし急性腹症やアレの時はこの限りにあらずだ。しかーし!それを良いことにずるをしたものはさらにきつい罰則を与える。――これでいいよね」

と補足をし大久保少尉は「いいんじゃない?何でもやってみることが大事さね」と笑っている。

その集まりを、通りかかった藤村少尉「なにしておるか?――って何だエンガワ少尉、みんなしてあつまって何してるんだよ」と裸足で歩いてきたが大久保少尉に

「実はかくかくしかじか」

と話を聞き「ふーんそうなの。まあ頑張ってね」とその場を去ろうとしたが平野少尉に「まてーニワトリ少尉!」ととっつかまり

「貴様も少尉の端くれなら参加するんだ!いいな明日の始業時から夕食の終わりまで厠に行かないこと!明日から一週間だ。ただし急性腹症およびアレの際はこの限りではない。だからといって嘘をついて厠に行けば…わかってるな?」

とすごんでみせ、藤村少尉も泣く泣く参加の羽目と相成った。

 

さてその翌朝、目覚めると同時に士官用厠には少尉連中の長い列ができた。中尉や大尉、あるいはそれ以上の士官たちは

「なんだなんだ?一体どうしたというんだね今朝は」

と不審がったが少尉たちは「いや別に何もありませんが?たまたまでしょう」と笑ってやり過ごした。この件は「ほかの士官、中尉大尉や科長たちには内緒だぞ」ということになってもいたので誰も本当のことは話せない。

「話してしまったらやめろと言われるに決まってる」からだ。

 

ともあれ、少尉たちの挑戦はその幕を切って落としたーー

 

 (次回に続きます)

 

                 ・・・・・・・・・・・

下士官嬢の不満をそのままにしておけばきっとどこかで軋轢が生じる。というわけで平野ヒラ女少尉と大久保少尉は考えたようですが、宮本少尉そんな提案していいのでしょうか??

どんなことがさて、起きるでしょうか。次回をお楽しみに!

 

 

TOTOネオレストのCM、ビッグベンとリトルベンのこれが大好きなんです!可愛いリトルベンにご注目を!

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益川中佐、感激する。 - 2016.11.17 Thu

内地に帰ってひと月半が過ぎた山中夫妻は、ある土曜日の夕方、大佐の部下の益川中佐を家に招いたーー

 

内地に帰ってすぐの集まりの際、益川中佐は山中夫妻を車に乗せるため酒を一滴も飲めずにいたのを「お気の毒でしたわ、益川中佐。今度我が家にお招きしてあの時の埋め合わせをいたしましょうよ」と次子中佐が山中新矢大佐に言って、その日が決定したのだった。

新矢は、そうした妻の優しさに(なんて気配りのできる人なんだろう、私は次ちゃんを妻にして本当に良かった)とうれしく思いまた、誇りにも思うのであった。

その日は朝から次子がいそいそと支度をし、新矢は「無理をしないように…。嫂さんに手伝ってもらおうか?」と言ったのだが次子は嬉しそうにほほ笑みながら

「今日は私一人にさせてくださいな。せっかく大事なお客様がいらっしゃるんですから、私の料理でおもてなししたいんです。と言っても私それほど料理が上手でないから心配ではありますけど」

と言った。姉様かぶりの姿が深夜にはまぶしく、思わずそばに寄って抱きしめると

「ありがとう次ちゃん。きっと益川君も喜ぶよ、次ちゃんの料理はとても上手だからね。益川君また『結婚したい』が始まるよ」

と言って二人は額をくっつけあって笑った。

と、次子は「あ…」と言って新矢の顔を見上げた。どうしたの?と心配そうな顔の新矢に次子はウフフと笑い、新矢の片手を自分の、妊娠6か月のお腹にそっと当てた。

「あ!赤ちゃんが」

動いた、動いたよと新矢はやや興奮して言い、次子はうなずいて微笑んだ。このところだいぶ胎動がはっきりわかるようになってきていた。が、新矢が工廠に出かけてから動きを感じることが多く次子は(お父さんのいらっしゃるときにもっと動いてちょうだい)と思っていたのだった。

「元気に生まれておいで、みんな待ってるからね」

新矢はそういってまた優しく次子のお腹を撫でた。その手のひらに子供たちの動きが伝わり新矢は「ああ、なんてうれしいんだ」というと次子をしっかり抱きしめた。

 

その日も日が傾いたころ、坂をハアハア言いながら登ってくる一人の男性、それこそが益川技術中佐である。

彼は憧れの山中次子中佐の招きとあって勤務が半ドンで終わったあと普段よりずっとお洒落をして風呂にも念入りに入って、一種軍装も新しいものを用意しさらに、ブラシまでかけてきたのだった。(失礼があってはいけない、あの人は天女のような人だ…天女に失礼をしたらまさに天罰ものだ)

そんな風に思いながら益川中佐は坂を上り、「山中」の表札のついた門の前に立ちエヘンと咳払いをして門をくぐると玄関の前に立ち、そっとノックしようとした。すると扉が向こうからそっと開いて灯りがまぶしい。中から山中大佐と次子中佐がほほ笑みながら顔を出した。

「ようこそ益川中佐」

「ようこそいらっしゃいました益川中佐、さあどうぞおあがりくださいませ」

二人は口々に言って、次子は緊張で固くなって玄関前に立ち尽くしてしまった益川中佐の片手をやさしくとって「さあ…」と中へといざなった。益川中佐はいよいよ緊張して、まるで操り人形のようにぎこちなく歩きながら家の中へと入る。それを見てコッソリと笑う山中大佐――

 

益川中佐は広間に案内された、「ここが一番落ち着きますので」と次子は言って、上座に案内されそこの座布団の上に落ち着いた。

大佐が下座に座ると益川中佐は座布団から降りて「本日はお招きありがとうございます。お忙しい時、またお休みの日にお邪魔して申し訳ございません」とあいさつした。

大佐の横に座った次子が畳に手をついて頭を下げ、大佐は満足そうにうなずいて

「よく来てくれました…。今夜はゆっくりくつろいでください。実はね、今日のことは次子が考えてね…内地に帰ってきた時みんなで料亭に招待してくれた時益川君、運転があるからと好きな酒も飲めなかっただろう?それを次子は気にしていてね…。今日はだれにも遠慮することない、たくさん飲んで食べてほしい!」

と言って益川中佐は大感激した。中佐は感涙を禁じ得ず、瞳を濡らして「…山中中佐」と言ったのへ次子は

「中佐、はやめてください…次子と呼んでください」

と恥ずかしげに言い、益川中佐は「御名前をそのままお呼びしては失礼になります…では奥様とお呼びいたします」と言った。夫妻は微笑んでうなずき、次子は立って料理を運び始める。次々に座卓に並ぶ料理に益川中佐は驚き

「どうか奥様、お座りになってください。これ以上お構いなく願います」

と言った。次子は微笑みながら「さあどうぞ召し上がってくださいませ。お口に合うかどうか…」と言い大きな皿に盛った煮物を卓に置く。

またまた感激の益川中佐である――

 

三人は語り合い食べつくし、男性二人は酒を酌み交わしあう。次子はそれを嬉しそうに見ながら、益川の杯と夫の新矢の杯に酒を注いでゆく。そのタイミングが絶妙で、益川中佐はつい、過ごした。顔を真っ赤にしながら益川は

「いやあ、これ以上飲むと腰抜けちゃいますよ…帰れなくなると困りますから」

と言ったが新矢が笑って「そんなら泊まってゆけばいい。部屋はたくさんあるからね、まあゆっくり飲みなさい」と言った。そばで次子がほほ笑みながら

「そうですよ。ぜひ今夜はゆっくりなさってくださいませね」

という。益川中佐は天にも昇る気持ちになった。

 

その晩も遅くなった。

益川中佐は、だんだん愚痴っぽくなってきた。しかし大佐も次子も真剣に耳を傾ける。

益川は

「どうせ私なんか、結婚できないで終わるんですよ。そうなんだ絶対…。わたしだって幸せになりたいのに。大佐、奥様。私の母はおととし亡くなりましたがその死に際して『トシの嫁さんが一目見たかった』って言って死んだんだそうです。私は死に目に会えませんでしたが、嫂からそれを聞いてもう情けなくて情けなくて…。嫂も心配して見合いの話を持ってきてはくれるんですがなかなかその気になれなくって。――いや過去に一度見合いをしたんですがこっぴどく振られましたんで、もうする気もないんです…でも、ああ私も結婚したい、奥様のような天女を妻にしたい~~!」

と最後は泣いた。

その彼を気の毒そうに見つめていた大佐は

「泣くな益川君!縁には時期というものがある。待てば海路の日和あり、というだろう?待つんだ益川君、そうすればそのうち次子のような妻を娶れる日も来る!」

そういって彼の背中を叩いて励ました。次子は自分を「天女」と言われて恥ずかしかったがうなずいた。益川中佐の焦りとか悲しみが伝わってきてどうにか、なんとかして力づけたかった。

そこで益川中佐の瞳を見つめ

「益川中佐。夫もこう申しております、きっといいご縁がありましょうからお力落としないように…。私どもでもよい人が居ましたらご紹介いたしますから」

と優しく慰めた。

すると、益川中佐の顔が歪んでまた泣き出した。奥様―、と叫んで次子の両手をつかんで泣いた。

「奥様はなんてお優しいんでしょう、やはり天女です。ああ、私も奥様のような人を娶りたい…いや、絶対娶りますーっ」

そういって泣き、新矢大佐はなんだか可笑しくなってしまって下を向いてそっと笑った。しかし次子は

「大丈夫ですよ、大丈夫」

と言ってしっかり彼を励ますのであった。

 

その晩はついに、益川中佐は腰が抜けてしまい山中家に泊まったのであった。

翌朝バツの悪そうな顔で起きてきた中佐に次子は笑顔で「おはようございます、よく眠れましたか?」と言って茶を差し出した。益川中佐はありがとうございます、と言って茶を受け取ってから

「最近ないほどよく眠りました…奥様にはご迷惑をおかけして申し訳なく思います。身重でいらっしゃるのに、お疲れではないかと心配です…昨晩はたくさんおいしいものをいただいてありがとうございました」

と謝りかつ、礼を言った。次子は微笑みながら

「そんな、このくらいなんてことありませんわ。喜んでいただけて良かったです。また、どうぞいらしてくださいませね」

と言い、そこに大佐がやってきて

「おお、益川君目が覚めたかね?よく寝られたみたいだね、顔色もいいぞ。朝飯の前に風呂に入ってきたらどうかね」

と言った。次子も勧めるので益川は風呂に入り、そのあと朝食をとった。深酒の後なので粥を中心としたあっさりめの献立がうれしかった。(やはり私は奥様のような人を貰いたい)

益川中佐はおいしい粥をいただきながら彼は思った。

 

日曜日、午前中のうちに山中家を益川中佐は辞した。

上天気の空の下、益川中佐は丘の上の山中家を振り仰ぎ(ありがとうございます。こんな私をこれほどまで歓待してくださって。このご恩はいつか必ずお返しします。そしていつか、奥様のような天女を娶ります。それまでこの益川、がんばります!)と誓ったのだった。

呉湾に幾隻かの海軍艦艇が浮かび、まるで彼の決意を応援するかのように見える日のことであったーー

 

               ・・・・・・・・・・・・・・・

久しぶり山中夫妻と益川中佐のお話でした。

山中夫妻のもてなしに益川中佐は大喜び。つい「結婚したい」本音が出て泣いてしまいました。

大丈夫きっと益川中佐もいいご縁をつかむ日が来ますから!!

衣桁にかけた白無垢
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幸せの空の先 - 2016.11.13 Sun

「オトメチャンオトメチャン、えらいこっちゃで」と小泉兵曹が第一艦橋で当直を終えたばかりの桜本兵曹のもとへ駆け寄ってきたのは月もきれいなある晩のことーー

 

「なんね。どうしたんじゃね、そんとに慌てて」と桜本オトメチャンは言って、双眼鏡のレンズを布でそっと拭いてからその場を離れた。交代の酒井水兵長に「異常なし」と言って水兵長は「交代します」と言って双眼鏡についた。主羅針儀のそばに、佐奈田航海長が立っていて水兵長の敬礼を受け軽くうなずいて返礼した。

小泉兵曹は艦橋の隅っこにオトメチャンを引っ張って行った。オトメチャンの一等兵曹の階級章のついた袖を軽くつかんで。

そして「オトメチャン、えらいこっちゃ」とまた言ったがその瞳は笑っている。どうしたんじゃね、と桜本兵曹は言った。すると小泉兵曹はオトメチャンの耳にそっとくちを寄せると

「小泉商店の工場がトレーラーにあるんは知っとるよねえ。ほいで今そこの工場長をうちの弟の進次郎が務めとるんも知っとるよね」

と言った。オトメチャンが、ああ知っとってよというと小泉は

「その進次郎に昨日の上陸の時たまたま出会うて聞いたんじゃが、オトメチャンのええ人、紅林さん言うんか?が、来週にもここに来んさるんじゃと!」

とささやいてからオトメチャンの背中を軽く叩いた。

「ええっ!本当に来なさるん?」

オトメチャンの頬がぱっと桜色に染まり、声が軽く上ずった。オトメチャンは慌てて口を両手でふさぐと小さな声で

「ホントに…紅林さんが…ここに?」

と小泉を見つめた。小泉兵曹はしっかりうなずいて

「ほうよ。進次郎がな、ぜひこのことを桜本さんに知らせてあげてつかあさいいうけえ、うちは急いでフネに帰ってきたんじゃが、こげえに遅うなってしもうてすまんのう。―じゃがこの話は本当のホントじゃ。ほら、高田兵曹のええ人の<南洋新興>と小泉商店がここに合弁会社作った言うてじゃろ、その関係で紅林さんと何人かがここに来るんじゃと。視察いう奴じゃないか思うんじゃが…紅林さん言う人結構やり手らしいじゃないね、えかったねえオトメチャン。小泉商店の社員の中でも有望株なそうじゃけえ、玉の輿いうヤツかもしれんで」

と言って嬉しそうにオトメチャンの背中をも一度優しく叩いた。

よろこびに全身を浸らすオトメチャンに

「詳しい日取りがわかったら進次郎から連絡が来るはずなけえ、待っとり。楽しみなねえ」

と言って小泉兵曹は「ほんならうち、そろそろ防空指揮所に行くけえ」と言って艦橋を出て行こうとした。その後姿にオトメチャンは

「小泉兵曹、ありがとう!」

と言って、振り向いた小泉は照れくさそうに片手を振って笑った。オトメチャンはフフッと一人小さく笑ったが、佐奈田航海長に気が付くと慌てて笑いを引っ込めてまっすぐに立った。

佐奈田航海長は微笑みながらオトメチャンの前にたつと

「いいお話でよかったですね。幸せになりなさいね」

と言って、オトメチャンは感激した。「ありがとうございます航海長」と言って敬礼し、その場を辞した。佐奈田航海長は小泉兵曹と桜本兵曹の仲がきちんと修復されているのに安心し、(小泉兵曹にもいいお話があるといいですね…きっとそのうちあることでしょう)と思って一人ほほ笑むのだった。

 

その一週間前、内地。

紅林次郎の両親は、東京の自宅で訪ねてきた親戚と談笑していた。紅林次郎の父親、喜重郎の兄の仙太郎はもてなしの料理に舌鼓を打ちながら弟夫婦と久々の再会を楽しむ。

「で、広島の次郎はどうした?元気なのかな」

仙太郎はそういって弟と弟の嫁であり次郎の母である敏を見た。喜重郎が

「元気ですよ、〈小泉商店〉の社員として頑張っとります」

といい敏もほほ笑む。仙太郎は「なんだ次郎のやつ俺の商売敵のところに勤めてるのか」と言って笑った。仙太郎は〈南洋新興〉勤務である。

「そうだ次郎もそろそろ嫁を貰っていい歳だろう?誰かいい人はいないのかね」

と尋ねると喜重郎は「じつは、」と言って桜本トメの話をした。次郎から聞いたトメの人柄から彼女の生い立ちまで話した。

「そのあとトメさんの故郷を訪ねてきたんだよ、にいさん。それで彼女の養家にもお訪ねして行った…でも心配いらないよ、何の心配もいらない。きちんとした家だよ。だから私は結婚を許したんだ。そのうちトメさんが内地に帰ってきたら逢おうと思っている」

喜重郎はそう語り、敏も「いろいろ辛いことがあったような人でね、気の毒な話でしたが本人さんはとてもいいお人と聞いていますから、逢う日が楽しみですわ」と喜んだ。

しかし仙太郎は眉根を不機嫌に寄せて

「そんな娘を、お前たちは嫁に迎えるつもりか?不義の子供じゃないか、そんなものをわが紅林家の家系に入れるわけにいくか!」

と言い放った。そして

「お前たちは次郎に甘いぞ?長男はいい家から嫁を貰っているというのに、釣り合いがとれん。誰でもいいわけじゃないんだぞ、わかっとろうがそんなことくらい!二人が良ければいいというわけではないんだぞ?結婚をなんだと思ってるんだお前たちは!」

と怒鳴り始めた。すると喜重郎が

「そういいますがねえ、にいさん」

と口をはさんだ。喜重郎は居住まいを正すと

「太一郎(次郎の兄)の嫁は確かに良い家柄の出ですがね…気位ばかり高くてどうにも仕方がないんですよ。そのくせ何もできないと来ている、そんな娘を貰うんじゃなかったと思いましたよ。にいさんの口利きでしたがあれは正直失敗だったと思いました。だから私は同じ轍を踏みたくないんです。次郎が見初めたトメさん本人やその家族に問題がなければいいじゃないですか、しかも彼女のお姉さんという人たちは海軍の中枢にいる人たちですよ?立派な家柄じゃないですか、何も文句の付け所なんかない」

と言ってこちらも不機嫌そうにそっぽを向いた。仙太郎が今度は態度を変えて

「お前も知ってるだろう、私の部下の香椎。あれの娘の英恵が以前に次郎に会って、以来恋い焦がれてると聞いてる」

と柔和に言ったが喜重郎は黙ったまま。敏がハラハラしながら二人を見守っている。

ややして喜重郎が「だから、なんです?」とぶっきらぼうに言うのへ仙太郎は

「英恵を貰え」

と言った。喜重郎は「とんでもない。お断りだ。次郎にはもう決まった人が居る」ときっぱり断った。香椎英恵には確かに前に会ったことがあった、が、これも長男太一郎の嫁同様気位ばかり高くて喜重郎は好かないタイプであった。次郎も英恵には全く興味を示していなかった。

仙太郎は

「英恵は我が社に勤務していてね。女ではあるが実に有望な社員なんだ。初めての女性幹部になれるかもしれない逸材だ。貰って損はないと思うがね。よく考えておいてくれよ、大事な息子のためだからな」

というと、弟夫婦の表情には全く構わず何事もなかったかのように杯に残った酒を飲みほしたーー

 

そんなことが起きているとは夢にも思わない紅林次郎は、広島市内の〈小泉商店〉で社長の小泉孝太郎から

「紅林君。すまないが来週からしばらくのあいだトレーラーの工場に視察に行ってきてほしい。ほかに数名いるから大丈夫だよ。〈南洋新興〉との合弁が近い、向こうさんも何人か来ているらしいから顔を覚えるつもりで行ってほしいんだ」

と言われ胸が高鳴った。(桜本さんに、逢えるかもしれない)

小泉社長はその辺をも含め、彼にトレーラー行を命じたのだった。小泉社長の微笑みがそれを物語っていて、紅林次郎は心から感謝した。

「社長。しっかり見てまいります!」

紅林次郎は力強くそう宣言した。

そして小泉社長は、トレーラー工場の工場長を務める息子・進次郎に手紙を書いた。これこれこういう身上の社員が行くからその辺をよろしく願いたい、と。手紙を書きかけた彼は、デスクの引き出しから一通の封筒を取り出した。娘の純子からのもので、例の事件の詳細が書かれていて

〉バカなことをしでかし小泉家に泥を塗りました。これからは桜本兵曹をしっかり支えて、彼女の恋を成就させたいと思っています

と書かれているのをもう何度見たか、それを今一度見つめた後社長は、息子への手紙に、純子へ桜本兵曹に紅林の件を伝えるように、と書き添えた。

(純子、大事な友達を支えてあげんさい)

そう願う小泉社長である。

 

そういった父親の思いも込められた報せを、小泉純子兵曹は弟の進次郎から受け取って桜本兵曹に知らせたのである。

小泉兵曹は「えかったのうオトメチャン。うちはやっぱしオトメチャンが大事じゃ。オトメチャンが幸せにならんとうちも幸せになれん、じゃけえ紅林さん言う人としっかり幸せになりんさい」と指揮所できらめく星空を見上げつつ祈った。

 

ーそしてこの後、オトメチャンと紅林の仲を大きく揺るがすことが起きるとは小泉もオトメチャンも誰も、予想だにしてはいなかったのだ。そう、紅林次郎の両親でさえもーー

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・

オトメチャンに朗報!紅林さんがトレーラーに来ることになりました。感動の再会も間近です。

しかし二人の行く手に暗雲が広がっているような気配もあり予断を許しません。どうかいい方向に向かいますように祈ってやってくださいませ!

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明日を見て生きる - 2016.11.10 Thu

三年前まで『武蔵』医務科勤務だった三浦桃恵は二人目を身ごもって八カ月目の体も重そうに横須賀の街を歩いているーー

 

桃恵は長女の継代の手を引き、兄の家を訪うため自宅を出た。朝、横須賀海軍工廠に出かける夫の智一大尉に「今日の午前中、兄の家に行ってまいります。夕方までには必ずもどります」と言い、智一大尉は「お兄さんとお姉さんにくれぐれもよろしく。今度ぜひうちでみんなで飲みましょうと伝えてくださいね」と言ってほほ笑んで、桃恵を抱きしめると「気を付けていきなさい…」と言ってそっとくちづけたのだった。

そんなことを思い出し、桃恵はほんのりその頬を赤らめた。嫂のあやこ手作りのモンペを着た継代が、

「おかあしゃま、トンビしゃん!」

と言って空を指さした。桃恵は継代の指さす方を見上げる、初秋の青い空にトンビが二羽、優雅に弧を描いている。継代が

「おかあしゃまのオフネ、見える~?とんびしゃん」

と声を上げてトンビに話しかけ、その愛らしい様子に通りががる海軍兵嬢が「見て、可愛らしい」「ホント、可愛いお子さんね」「ああ、早く子供が欲しいなあ」とささやきながら継代を見てゆく。そして桃恵に軽く会釈して行く。桃恵も会釈を返す。

継代が「かいぐんのお客しゃま…あきかわしゃんたちまた来てくれるかなあ」とつぶやいたのへ桃恵は

「また来てくださいますよ、継代がいい子にしてるから、きっとね」

と言ってその小さな手を握ってほほ笑んだ。継代も「はい。もっといいこにしましゅ」と言ってほほ笑み返した。

そして二人はさらに歩く…

 

ふと、桃恵の足が止まった。

(ここは…)桃恵のとうに忘れ去ったはずの記憶がよみがえってきた。この通りの先に、かつての恋人と暮らした下宿があるのだった。

(でも、あの人とは…)

桃恵はしばしその場に立ち尽くしたまま古い記憶を手繰ったー

 

今から何年前になろうか。

当時、空母『赤城』乗り組みの春山桃恵海軍一等衛生水兵は、小学校時代の同級生の男性-石田―と横須賀の街で再会し上陸の際には石田と逢うことが多くなった。と言っても『武蔵』自体はあまり内地にいることが少なかったため逢えるときは数えるほどだった。何度目かの逢瀬の時、石田は「春山さん、上陸した時は私の下宿に来てくれないかな」と言って春山一水に頼んだ。春山水兵長は(そんな、結婚もしていないのに一つ屋根の下になんて)と戸惑ったが石田は「いずれ結婚したいんだ。昔からあなたが好きだった」と言った。春山一水は

「結婚ですか…でも私まだ、兵隊の身です。下士官に任官したら、というのでどうでしょう」

と言って石田も了解した。それから彼女は『赤城』から『武蔵』へ転勤となり、しばらく内地に帰れない時が続き、また内地に帰っても必ずしも上陸できるとは限らず、石田も彼女も失意を覚えるときが多かった。やがて春山は下士官に任官し前より上陸できる時も多くなった。そして石田は「今度から一緒に下宿に住もう、上陸したらここに来てほしい」と言って、春山兵曹は上陸した際は下宿に顔を出したりあるいは一晩を泊まるときもあった。

そんなある時、春山兵曹が『武蔵』に乗っているのを知った石田は「今度はとても大きなフネに乗ったんだね、すごいやおめでとう」と言い…その晩兵曹は処女を石田に与えることになった。

初めての痛みに耐える兵曹に石田は「結婚しようね、もう君は私のものだ。絶対離さない」と言ったのだ。だがそのあと、大きな戦闘やそれに伴う航海で横須賀に帰ってくることができなかったり帰港してもすぐまた出航ということが多くあり、石田とは逢えないと気が長く続いた。

そして彼から、別れをほのめかす手紙が来て春山兵曹は石田との部屋に行くとそこで石田は下宿の女主人に「春山とは別れる、生きるか死ぬかわからないものを待つほど気が長くはない。それに私を待つ人がほかにいる」と言って「この部屋は引き払います、あいつのものは処分するか持ってかせてください」というなり去って言ったのだ。それを物陰から見ていた春山兵曹は泣きながら少ない私物をもって部屋を出て行った…

 

(そして、旦那様に出会った)

桃恵の顔に笑みが浮かんだ。あの出来事がなければ―私の風呂敷の中から牧水の詩集が落ちなければー私は智一さんには出会わなかっただろう。天の配剤天の助け、ああ!

智一さんは私の過去を聞いてつらそうな表情になり、私の両手をつかむと「忘れましょう。新しい人生を歩みましょう」と言ってくれた、そしてそれから時々会うようになった。そして突然の求婚…。

 

桃恵はフフッと笑って継代の手を握りなおすと「さあ、行きましょう。おじちゃまもおばちゃまもお待ちですからね」と言ったその時、彼女たちの前から歩いてきたのはあの下宿の女主人であった。女主人―滝田―はびっくりしたような顔で立ち尽くした後、「は、春山さん?」と言った。桃恵は大きなおなかを抱えるようにして頭を下げて

「お久しぶりです…、その節は大変お世話になりました。あれからすぐ、結婚して三浦となりました。何もお知らせしないでごめんなさい」

とあいさつと詫びをした。継代が「こんにちは」と言って頭を下げたのへ滝田は微笑みかけ

「幸せなのね、よかった」

と心底ほっとしたように言った。あの後滝田は春山兵曹のことが心配でたまらなかったのだと言った。そしてどうにかして消息を知りたいと思ったが「なかなかわからなくって…でもよかった、お子さんお二人目なのね」と言って桃恵を見つめるその瞳が潤んだ。

桃恵はご心配いただいてありがとうございます、と言った。滝田はちょっと声を潜めるようにして

「あのあとね、〈あの人〉外地に行ったのよ。なんでもお相手に振られたとか言って。あの部屋でしばらくぼんやりして過ごしてたけど突然外地に行くって出て行ったわ。外地って言ってもどこに行ったかはわからないけどあの人のことだからうまくやってるんじゃない?」

と言った。

桃恵は無機質な気持ちで「そうでしたか」とだけ言った。滝田はもう一度「あなたが幸せで本当に良かった」と言って継代を見てほほ笑む。

そして二人と一人はそれぞれ別れて、桃恵は継代の手を引いて兄の家目指す。その顔はまっすぐに正面に向けられ自信に満ちている。

(過去は過去、旦那様も言ってらしたようにもう振り返らない、振り返る必要もない。私は明日を見て生きる。済んだことなどもうどうも思わない)

 

やがて二人は桃恵の兄の家に着き、継代の「来まちたよ~、おじちゃまおばちゃま」の声に、竹男とあやことは争うように玄関に出てきて継代を抱き上げ、四人はにぎやかに家の中にーー

 

            ・・・・・・・・・・・・・・

二人目出産も遠くない三浦桃恵のお話でした。過去をふっと思い出すことは人である以上ありますがそれに取り込まれない、過去は過去と割り切る桃恵さん。さすがですね。やはり智一大尉との愛がうまくいっている証拠なのでしょう。おお…愛こそすべて!
三笠艦上日章旗

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ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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