こうしてやるっ! 5

永谷園(ながたに その)一等衛生兵曹は中年女性に変装して、本郷大尉の婚家そして実家周辺を歩いた――

 

そしてその日も遅くに永谷兵曹は土埃のにおいもかぐわしいなりで横須賀海軍病院に戻ってきた。まだ扉に施錠されていない病院玄関でバタバタと服の埃を手で払って扉を開けた入ると奥から施錠のために出てきた衛生水長があわてて

「今日の診察はとうに終わっています、また明日来てください。それともどなたかのお見舞いですか?」

と走り寄ってきた。永谷兵曹はその水兵長嬢の胸ぐらをつかむと

「私だわたし!永谷園衛生一等兵曹だ!よく見んか」

と声は勇ましいがその瞳は笑っている。水兵長は「あれっ!?あれ??――本当だ永谷兵曹…これはいったいどうしたことで?」と驚きの声を上げた。その水兵長の肩をポンと優しく叩いて兵曹は

「秘密秘密。いいかこのことは決して院外の人間に口外してはいけないよ。人の命にかかわることだからね、いいね」

と念を押し、水兵長嬢は顔を緊張で引き締め「わかりました」と言って玄関を閉じた。

 

永谷園兵曹は変装を解く時間を惜しんで馬堀部長・辺見次長そして花森軍医大尉と君塚大尉に今日見てきた聴いてきた話を全て伝えた。

その衝撃的な内容に皆一様に大変なショックを受けしばらく黙り込んでいた。どのくらい経ったか、花森大尉が

「そんなに高額な保険金が…。しかも本郷大尉が婚家を出奔してからも籍を抜かなかったというのはやはりその辺が目的でとしか考えられませんね」

と言った。君塚大尉はそっと瞼をハンカチで拭い「そんなひどいこと、人間ができることと違う」とうめいた。

辺見次長は馬堀部長を見て

「部長。これは大変危険ですね、本郷大尉の病室の周辺に警備を置きましょう。そういう輩ですからここに来るのも時間の問題と思います。相手はもう、本郷大尉の実家から何か連絡を受けておることでしょうからね…。いっときも誰も目を離さないようにしないと私は彼女の命が危ないと思います」

と言った。緊張でその手がかすかにふるえているのを君塚大尉は見た。

馬堀部長が重々しくうなずいて

「考えたくないことだが、その大金を得るために八介なる男性が本郷大尉を殺害に来てもおかしくないということだね。緊急事態だ、今夜ただいまから警備を厳重にしよう。それでこのことは今しばらく本郷大尉には伏せておこう。まだ本調子ではないからどんな無理をしないとも限らない。あと二週間は黙っておこう、いいね」

と決断を下した。

辺見次長・花森大尉・君塚大尉は「はい!」と言って互いの瞳を不安げに見つめあっていた。

 

永谷園兵曹は風呂を使い埃を落とした後馬堀部長から「ご苦労様でした、大変なことをさせてしまって申し訳なかった。でもこうした隠密行動にたけているのはあなただけしかいないから」とねぎらわれ、烹炊所に用意させていた食事を

「ここで食べなさい」

と部長室で食べさせた。普段めったに入ることのない部長室での食事に、永谷兵曹は感激しながら遅い夕食を取った。

食べ終えると部長が手ずから紅茶を淹れてくれた。恐縮する兵曹に馬堀部長は「大役を引き受けてくれたのだから」とほほ笑んだ。そして「この件、院長も大変ご心配されている」と言った。

その苦衷に満ちた表情に永谷園兵曹は(何としても本郷大尉をお守りせねば)と決意を固めるのであった。

 

その晩、副院長の剣持大佐は馬堀部長たちからの報告を聞いて院長の大工原少将に報告、大工原院長はすべての職員を一堂に集めたうえで本郷大尉を巡る件を通達し、

「どんなことがあっても本郷大尉を守れ。私も命を懸けて彼女を守る。そして何か不審なものや人間を見かけたら互いに報告あるいは拘束して良し」

として病院内には緊張がみなぎった。そして交代で見張に立つものが決められる。

そんな動きを入院患者に気取られてはいけないと皆平静を装う。しかしその視線は厳しく、中には(何か起きたのだろうか)と思う勘のいい患者もいたことはいた。が、看護兵嬢たちの「何をおっしゃるやら、何もありませんからご安心を。それよりご養生なさらねば、艦に置いて行かれますよ」と言われて慌ててベッドにもぐりこむ。

 

辺見次長は、生まれて間もない子供と産後の妻が心配だったが妻に電話すると

「私は大丈夫です、ご心配なく。それより本郷大尉に何事もありませんよう祈っております」

と力強い返事が来て次長はほっとした。電話の向こうで赤ん坊の泣く声が聞こえ、次長は「――おむつかな、それともお乳の時間か…。では後を頼む、すべて済んだらすぐ帰るからね。戸締りと火の元には気を付けて」と心を残しつつ電話をそっと切った。

辺見次長は電話室を出て自室に帰った。窓の外には眠りについた街が月明かりに照らされ、その中の一つが彼の住まい。愛する妻と子供がいるあたりの窓ガラスに次長はそっと指をあてて撫でた。

(私はこんなに幸せな結婚生活を送っているというのに、どうして本郷大尉はあんなに不幸な結婚を強いられ、今に至るまで苦しまねばならぬのか。人というものは等しく幸せになれないものなのだろうか)

辺見次長は本郷大尉のこの先の人生を思った――

 

そんなことは知らぬまま本郷ミツ大尉は連日の機能回復訓練に励む。

今日は朝から雨なので術創がうずくのか、昨日に比すると動きがよくない。君塚大尉がやってきて

「無理しないでいいよ波田野さん。ムリしていいことないからね、今日はそのぐらいにしてあとは明日だ。今日はそうだねえ…波田野さんの今までの武勇伝でも聞かせてもらおうかな」

と言ってその場の皆は笑った。本郷大尉も笑った。

 

永谷園兵曹は病院内のすべてのものに「本郷八介」の人相やしぐさの特徴などを詳しく述べて「こういう人間が居たら即座に連絡、本郷大尉をお守りせよ」と通達していて、似顔絵を描いていた。それを小さく印刷したものを職員たちはポケットの手帳に居れていてさりげなく手帳を見るふりをしては周囲の人々を見ている。

しかし八介はなかなか姿を現さない。中には「その人来ないんじゃないですかねえ?いくら何でも病院で事を起こそうなんてそんな大それたこと、考えるでしょうか」という看護兵もいたが永谷兵曹は

「簡単に考えてはいけない。相手は金の亡者だ、どんな卑劣な手でも金のためならできる男と私は見た。気を引き締めて警護しろ!」

とげきを飛ばす。

改めて緊張感を増す院内である。

本郷大尉はかけ足はまだぎこちないが歩くことはほとんど普通にできるまでになっていた。

「すごい、すごいよ波田野さん!さすがだねえ、さすが零戦の搭乗員だ、私はこんな素晴らしい友人を持って幸せよ」

君塚大尉は泣いて喜んだ。花森大尉も嬉しそうにしていたが急に表情を引き締めると

「本郷大尉、ちょっと話がある」

と言って君塚大尉も伴って病室へと戻る。その途中本郷大尉は「そういえば花森大尉、」と話しかけた、「何、本郷さん」という花森大尉に本郷大尉は

「なんだか最近みょうにあちこちに見張みたいにして人がいますねえ…何でですか?」

と尋ねる。君塚大尉が花森大尉の顔をちらと見、花森大尉は軽くうなずいて「部屋で話します…」とだけ言って病室の前に立っている兵曹嬢と敬礼を交わし、兵曹嬢がドアを開けた。

「異常ありません」と言った兵曹嬢の声音に、(なんだ、何かが起きている)と直感した本郷大尉は、軍医大尉たちの話に言葉をなくすのである―ー。

 

「だから、」

と花森大尉が言った・「だから本郷大尉、くれぐれも気をつけないとならないんです。気づまりではありましょうがそれはあなたを守るためですからどうか御辛抱を」。

「そうだったのですか…いやまさかとは思いましたが、あの人はそんな人だったのですね」

と本郷大尉は嘆息した。そして

「まあ私も黙って飛び出してきましたからあれこれ言えないのはわかっています。結婚はもうダメになったとその時思っていたのに用事が合って内地から取り寄せる戸籍は本郷のもので…どうしてだろうと思っていましたがそうですか、金が目当てで…。確かに士官で飛行機乗りとくればこれは高額の死亡保険金が入りますものね。でも掛け金も相当だったでしょうにね」

と言ってかすかに笑うと窓外に視線を放った。

「波多野さん―ー」

君塚大尉はそう言ったまま絶句し、若き日からの友の横顔を見つめるだけであった。

 

そんなころ。

一件の民家であの八介が桂と呼ぶ女性と戯れていた。桂は「いいの?帰んなくって。おかあさん一人でいるんでしょ」と甘えた声で八介にしなだれかかった。

八介は桂に重なると「いいんだよ、俺はね、お前と一緒に居るほうがずっと幸せなんだよ」と甘い言葉をささやき

「もうすぐでかい金が入ってくる。そしたらあの店畳んでお前とここで遊んで暮らせるぞ!」

というなり桂の中に自分を突き入れ激しく動き始める。ああん、ハッサンと桂は喘ぎながらも男の動きに合わせてゆく。

そして八介の恐るべき計画が、桂との寝物語で披瀝された――

  (次回に続きます)

 

           ・・・・・・・・・・・・・

いよいよ次回、大きく物語が動き始めます。

さあどうする本郷大尉たち、そして気になる八介の計画とはいったい??

次回をお楽しみに!!


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こうしてやるっ! 4

つらい辛い治療であったが、本郷大尉は一所懸命に頑張っている――

 

最後の手術を終え、本郷大尉は花森軍医大尉に「術創がふさがり次第、早く動けるよう機能回復に努めます」と意欲をみせた。花森軍医大尉は微笑んで頷き

「一緒に頑張りましょう。でも無理はいけませんからね、無理されるとかえって治りが遅くなるときもありますから」

と注意するのを忘れなかった。本郷大尉は深くうなずき「わかりました」と答えた。

本郷大尉は、そして術創がきれいになるといよいよリハビリを開始、何としても歩けるようにならないとと、歩行訓練を中心に訓練に余念がない。そして両手。

日ごとに彼女の運動機能は軍医たちが目を見張るほどにめきめきと回復していった。馬堀外科部長は

「この調子なら予定しているより早く退院できるかもしれない。むろん操縦も出来るようになるね」

と太鼓判を押した。

それでも外科部長、次長それに主治医の花森大尉たちのカンファレンスでは「本郷大尉の身上を鑑みて、機能訓練はゆっくり、そして退院も時機を見て」ということになった。

 

入院から二月ののち、本郷大尉はもうほとんど以前と変わらない歩行や生活ができるほどになってきていた。そんなある日、花森大尉が君塚大尉と一緒に病室にやってきて

「これがね、前に来ていたんだよ。でもまだあの時は本郷大尉はいい状態ではなかったから」

と言って波田野家から来た手紙を手渡した。

「読んでおいてほしいと馬堀大佐がおっしゃってるんでね」

そういって君塚大尉は言って、本郷大尉は封筒を見つめた。もう十年ほど見ていない母親の文字である。が、今の彼女には懐かしさなど湧くはずもなく、無機質な心持でそれを見つめた。

便箋には、娘の入院を知らせてくれたことへの礼と今後世話になることへの謝罪が書かれていた。そして婚家である本郷家へ知らせるということ、いつか病院に見舞いに行きたいがいつがよろしいだろうかということが書かれていた。

花森大尉が

「馬堀大佐がいいようにしてくださったから安心していいよ。『当分面会はかなわず』として返信してくださった。だからあなたは安心して治療に励んで、もっと良くなったときご実家やご主人たちに会うといいよ」

と言って本郷大尉の肩をやさしく叩いて「また後でね」と言って退室した。

その場に残った君塚大尉は、

「ミツちゃん、それであなたはどうするんだね?ご主人と縁を切るなら切るで、きちんと話し合いをしないとね」

と言ったが本郷大尉は一つため息をつくと

「あの人たちを相手に話し合いなんかできないよ、人の話を聞くって姿勢が全くない。私が何か言うとすぐ『そんなことばかり言って』とか『後から来た奴が、十年早い』とかいうし。全く話し合いにならないよ」

と言って肩を落とした。そうかそれは困ったな、と君塚大尉は言ってその場の椅子に座り込んだ。そしてふと顔を上げると

「こういっちゃあいけないかもしれないが、本郷家とあなたの実家をそれとなく、その…偵察と言ったら言葉は悪いが…した方がいいんじゃないかと私は思うのよ。何かこう、心に引っかかるものがあるの」

と至極真面目な顔で本郷大尉を見つめた。

本郷大尉も「そう。私もなの。――私もなんだか胸騒ぎじゃないけどするのよね。誰か、あの家の近くに行って様子を見てきてくれるかしら?」という。

君塚大尉は、慎重に人選をした後で「彼女なら大丈夫、口は堅いし隠密行動にたけている」と推薦したのが衛生兵曹の永谷園(ながたに その)である。永谷衛生兵曹は本郷大尉にきちっと敬礼すると

「初めまして、永谷園一等衛生兵曹であります…このたびは重大な任務を仰せつかり光栄です」

と言った。緊張でその頬が紅潮する。本郷大尉はまだ包帯を巻いている手を差し伸べて

「妙なことに巻き込んで申し訳なく思っています、どうかよろしく願います」

と永谷兵曹に頼んだ。兵曹は「任せてください。では―ー」と肝心の本郷大尉の実家と婚家周辺について話を聞く。

永谷兵曹は誰かに不審がられたら「この辺に嫁を探している人がいる」と言って「すり抜けますからご心配なく。それでも変に思われたら即座に撤退します」と言った。本郷大尉は「ありがとう、どうかご無事で。それにしてもあなたはなぜ隠密行動にたけていると言われるのですか?」と尋ねると永谷園兵曹は笑って

「以前に南方の島で、敵の基地の偵察のために地元民に化けていたんです」

と何事も無いように言って本郷大尉は驚いた。地元民に?よくばれなかったね、という本郷大尉に永谷園兵曹は

「私はなぜか、その地の言葉をすぐ覚えちゃうんです。そのうえ私ってちょと色黒でしょう?だから現地民の衣装を着るだけでだれもが『貴様どこから見てもここの人みたいだよ』って言われて。それでアメちゃんの基地に忍び込んでいました。連中現地民に警戒しないんですよね」

と言ってさらに笑う。君塚大尉も笑い、「だからね、大丈夫だよ。あまり深入りしないでやれば何らかの情報を得られるから、それまで波田野さん養生してよ」とあえて旧姓を用いて元気つけた。

ありがとう、と本郷大尉はもう一度言って感謝をあらわした。

 

永谷園兵曹はその日から三日後、市井の中年の女性に化けて病院を後にした。病院を出る前に本郷大尉の病室に来た永谷園兵曹の姿を見て大尉は

「おお!年齢がずっと上に見えますね、すごいすごい」

と感心した。永谷園兵曹は顔色を少し暗い色にしたり髪を白墨でところどころ白くして実際の年齢よりもずっと年齢の行った女性になっている。

この日は馬堀部長まで来て「永谷さん、どうかよろしく。くれぐれも気を付けて」と送り出した。

永谷園兵曹はそのみんなを腰を少しかがめて振り返り、お辞儀をしてから歩いて行った。

「うまくいきますように」

馬堀部長がそうつぶやくのが聞こえた―ー。

 

永谷園兵曹は省線に揺られ、とある小さな駅に着くと本郷大尉の婚家目指していかにも中年の女性らしい所作で歩いた。どんな時でも自分が化けている人間の年齢を忘れない。

やがて、行く手に商店の集まった通りが見えてきた。(あの通りのどこかだな)と兵曹はへそのあたりに力を入れると(では、そろそろと参ろうか)と中年女性らしい所作で歩く。時折立ち止まっては何かを探すようなしぐさをしたり、店の商品を見たりして本郷家を探す。

本郷の店は、そこから百メートルほど歩いたところにあった。

一見して(まったく流行っていないな。誰も客がいないではないか)と永谷兵曹は思った。ほかの商店に比べどこか埃臭いというのか華がない。店の仲も薄暗く、店番さえいない。

(どういう店かねえ)

と永谷兵曹が呆れてしまったとき、本郷の店の奥から男の声がして兵曹はさりげなくその場を離れた。本郷の店の隣の店が、茶を飲ませる店だったので兵曹は店の前の赤い毛氈の敷かれた長椅子に座ると茶と菓子を注文した。

本郷の店の奥から出てきたのこそ、ミツ大尉の〈夫〉の八介である。彼は母親らしい老女に

「桂のところに行ってくるから後は任せた。帰り?そんなの遅くなるに決まってんだろう?まあまってろって、そのうち大金が入るんだから」

と怒鳴るように言いながら出てきた。

(カツラ…かつらとは誰だろう)

兵曹がそう思っていると茶店の主人が兵曹の注文したものを盆にのせてやってきて

「ハイどうぞ、お待たせしました。――ハッサン、また彼女のところかい。まじめに商売したらどうだよ?店をおっかさんに任せっきりであんたどういうつもりだい?」

と八介に文句を言った。

(彼女!カツラとは彼女のことか)

兵曹はさりげなく湯呑を手に取り茶をすすったが胸が動悸を打った。しかし無関係を装って周囲をながめつつ今度は菓子をつまむ。

そんな茶店の主人に八介は肩を怒らせて

「余計な世話だよ。いいじゃないか女房がいねえ時くらい遊んだって。それにねえ、俺には大金が入るあてがあるんだよ」

と威張って見せた。

(大金?)

永谷兵曹はいよいよ無関心の風で「おじさん、お茶ももう一杯くださいな?」と湯呑を差し出す。その湯呑をお盆で受け取りながら主人は

「何が大金だよ、あんたは海軍の奥さんに保険金掛けてるんだってな!――もしかして海軍さんに何かあったのか?」

と不審げに言うと八介は慌てて

「関係ねえよあんたには。そんなことでかい声で言うんじゃねえよ、バカ野郎」

と言い捨てるなり、走り去ってしまった。茶店の主人は何やら口の中で文句を言いながら湯呑を奥へ持ってゆく、そしてまた湯呑にいっぱい茶を入れて戻ってきた。

「ありがとう、すみませんねえ。お話の腰を折ってしまいましたか?」

と兵曹は中年女性らしい物腰で尋ねた。

すると主人はいやいやとんでもありませんよ、と手を振ってから八介が走り去ったほうを見てから

「奥さんはこの辺の人じゃなさそうだから言いますがね、あの人は仕事はろくすっぽしないくせに文句だけは一人前、いやそれ以上なんだ。あのおっかさんって人もこういっちゃなんだけど嫌な人でね。もう何年も前に海軍さんを嫁さんにもらったというんだが、一晩で逃げてしまったというんだ。ずいぶんあしざまに言ってたがこの辺じゃそんなこと真に受ける奴はいないよ。たぶんきたその時からいびりぬいて、それで逃げ出しちゃったんだろうってみんな言ってる。だいたいさ、あの男に結婚なんて無理無理!人を人とも思わないような性格だもの。それにさ、もう二十年も昔あいつには良い仲の女が居たんだがそれだって婚約中になんだか言って逃げられちゃったってんだからさ…。要するにバカなんだよね、あいつ!」

と一気に話した。

どうやら本郷親子はこのあたりでは嫌われ者らしい、というのが永谷園兵曹にはよくわかった。

「そうなんですか…まあいろんな人が世の中にはいらっしゃること」

と兵曹は言って茶をすすった。ああ、おいしいお茶と言って主人はその時は表情を和らげた。主人は退屈していたのかこの話をだれかにしたかったのか、兵曹の横に腰を下ろすと本郷の店のほうに視線を投げつつ

「そうですがね、ああいう連中も珍しいですよ。人の気持ちなんかこれぽっちも斟酌しないんですから。それに海軍さんが逃げてしまってから大きな金額の生命保険に入ったというんだから参っちゃうね。死亡保険金が五万円とか何とかいうんだからねえ…それを奥さんも聞いただろ、『大金が入るあてがある』なんて…。海軍さん、死んじゃったのかなあ。帝国海軍は連戦連勝で戦死者はいないって聞いてるんだが、殉職でもなさったのかなあ、気になるなあ。――もしそうだったら気の毒な方だ…」

と最後のほうは独り言のように言って、そっと涙をぬぐったのだった。

「そんなことが…」

中年女性に変装した永谷園兵曹は、怒りと悲しみに胸が裂かれるような思いで店の主人の話を聞いていた。

 

永谷園兵曹は「ごちそうさまでした」と代金を置くと、その場をゆっくり離れた。後ろから茶店の主人の声が「またいらしてくださいねえ、奥さん」と追いかけてきたのへ、半身を振り返って頷いた。

(波多野さんの実家へあの男は行くまい。しかし一応見て来よう。もしもということがある。それにしても腐った男…)

怒りに身を震わしながら埃っぽい道を歩く兵曹であった。

彼女の足元に、どこから来たのか一匹の犬がどこまでもまとわりついてゆく――

   (次回に続きます)

           ・・・・・・・・・・・・・・

本郷大尉めきめきと回復中です。この調子で頑張れ。

そしてまた力強い助っ人が現れました、〈永谷園兵曹〉。どこかで見たこと聞いたことあるような名前ですがずいぶん助けになりそうです。

さあ緊迫の次回へ!ご期待ください。


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こうしてやるっ! 3

本郷大尉は、横須賀海軍病院の外科病棟に入院した――

 

外科の馬堀部長、辺見次長が出迎えて本郷大尉は個室に入れられた。まだ時折出血多量の後遺症からか頭がぼうっとすることもあったが、巡洋艦の軍医長たちの手厚い看護によってだいぶ良くなっては来ている。

馬堀外科部長(軍医大佐)は彼女のカルテを見て

「これは…まさに奇跡が起きたね。こんな大事故、普通では命がない。よほど強運の持ち主だね、これは何としても元の通りに治さねば!」

と驚き、カルテを辺見次長(軍医大佐)に手渡した。

辺見次長も驚いて、ベッドの上の本郷大尉を見つめ「私の妻と同じ…零戦の搭乗員」とつぶやいた。馬堀部長が

「あ、辺見君の奥さんも零戦の搭乗員をしていたんだね…この大尉とどこかで会ったりしてはいないかな?--本郷大尉は南方基地の所属か、じゃあ会ってはいないか。にしても同じ零戦乗りだ、しっかり治療して元の基地に戻してあげよう」

と言って辺見次長は頷いた。

 

本郷大尉は入院後二週間ほどはすっきりしない状態が続いたがそのあとからだんだんと治療の甲斐あって頭もすっきりし始めた。骨折した部位を何回かに分け手術する必要があったが、適応も「しっかりあります、体力もついてきていますからそろそろ始めてもいいでしょう」と、本郷大尉の担当医の花森カヨ軍医大尉は言った。

辺見大佐は花森軍医大尉の肩をそっと叩いて

「頼みます。彼女は日本にとって大事な搭乗員ですから」

と言って軍医大尉は「ハイ、必ず」と力強く答えた。

 

ある日、本郷大尉が三度目の手術を受けた後ベッドで麻酔から覚めてぼうっとしているそこに、失礼します、と声がして一人の軍医大尉が入ってきた。担当の花森大尉ではなく別の大尉。

その大尉はぼんやりと視線を天井に向けている本郷大尉の顔を見ると

「やっぱり貴様か、おい、波田野!貴様波田野だろ?覚えてない私のこと?女学校で一緒だった君塚だよ?大丈夫なのかこんな大けがして!」

と言ってその瞳を覗き込んで微笑む。

本郷大尉は「君塚…きみづか…」とつぶやいていたが「ああ!あの秀才の、医者の娘の君塚さん、きみちゃん!でもどうして私をわかったの?」とやや大きな声を上げて包帯に包まれた右手を挙げた。途端に軍医大尉の口調が変わり

「そう!覚えてくれてたんだ、うれしいなあ…。そう、わたしきみちゃん。君塚美子だよ、波田野さんえらいケガして…って、波田野さんは本郷さんに名前が変わったのね!――いやあ、私もとはここで診療してたんだけど二年ほど北辺艦隊の軍医長で行ってたの、で数日前に帰ってきて今日出勤したら急患が来てるっていうから見に来たらあなたによく似てたからまさか、って思って来たら、まあほんとに波田野さん!」

君塚軍医大尉はそういって本郷大尉が挙げた包帯の右手をそっとその両手で包み込んだ。

君塚大尉は本郷大尉の両手を掴んだままで、足で器用に椅子を引き寄せて座った。その様子をみた本郷大尉は「きみちゃん変わらないねえ」と笑った。この君塚美子という女性は昔から気取らない性格で周囲を笑わせたり和ませるのである。

本郷大尉は「きみちゃん、結婚は?」と尋ねる。同級生の二人、もう互いにいい年である。きみちゃん大尉は笑顔のままで「婿さんに来てもらったの、もう九年目。私の父がねえ、どうしても婿に来てくれなきゃダメだって聞かなくってね。相手はいいことに三男坊だったから君塚の苗字を名乗ってもらって、今君塚医院を父とやってくれてるの。――ミツちゃんのご主人はどんな方?」と聞いてきた。

途端に本郷大尉の表情が曇りきみちゃん大尉はその顔を覗き込むようにした。そして

「うまいことないのかしら?良かったら私に聞かせて、誰にも口外しない、医師には守秘義務があるから」

と言った。

本郷大尉はしばらくためらっていたがやがて思い切って旧知の仲のきみちゃん大尉に自分のこれまでを話し出していた――

 

「そう、そんなことが」

君塚大尉は、本郷大尉の告白を聞いて深いため息をついて頭を抱えるようにした。まさか、仲の良かった女学校時代にクラスメートがそんなひどい結婚をさせられ、実家とも婚家とも十年も連絡を取っていないとは。

「で。ミツちゃんはどうするつもり?」

と君塚大尉は言った。ずっとこの先も連絡を取らないでいれば、本郷ミツ大尉に人生の選択の余地はなくいつまでも意に染まない「結婚生活」を続けることとなる。それに、

「好きになった人がいるのなら、なおさらきちんとしようよ?」

そういって君塚大尉は、本郷ミツ大尉を励ました。

うん、と何か弱弱しい返事しかしない本郷大尉に、君塚大尉は「ミツちゃんはほんとにその家や旦那と縁を切る気があるの。あるんならちゃんとしなよ!自分の親に何言われたっていいじゃない、あなたの人生でしょ、自分で切り開かなきゃ?」と発破をかけられた。

ミツ大尉は自分の実家の両親が怖かった、自分から本郷家に離縁を言い渡すことなど「はしたない!人の道に外れている」と言って激怒するに決まっている。

「ミツちゃんももう、いい歳の大人じゃないの。いつまでも親に束縛されてちゃだめよ」

君塚大尉のその言葉で、本郷大尉の心は決まった。

「きみちゃんありがとう。私は勇気をもって離縁をしよと思う。そのためにも一所懸命がんばって体を直すから、きみちゃんどうかよろしくね」

本郷大尉はそういってベッドの上から微笑んだ。きみちゃん大尉も

「そうこなくちゃいけないわ、ミツちゃん。それでこそ負けず嫌いのミツちゃんですよ」

と言ってほほ笑む。

 

本郷大尉はその日のうちに花森軍医大尉に、自分の身の上をすっかり話した。そして

「これは君塚大尉にも話しました。彼女は私の女学校時代の友人なのですべて話しました。それで…どうか私がここに居ること、私がもっと良くなるまで実家にも婚家にも知らさないでほしいのです。どちらも私が南方の基地にいると思っていることでしょう、それでいいのです。もうしばらく、私がせめて歩けるようになるまで、両手がしっかり使えるようになるまで知らせないでいただきたいのです」

と必死て訴えた。

そしてそこのちょうど来合わせた君塚大尉も「花森大尉、願います」と頼み込むので花森大尉は「そういうことならそういたします。では馬堀部長や辺見次長にもお話いたしておきます」と了解してくれた。

その晩になって馬堀部長と辺見次長が本郷大尉の病室を訪れ、花森大尉からの話を「聞きましたが、本当にそれでいいのですね」と念を押しに来た。

本郷大尉は

「願います。そしてもしも万が一にも私の実家の波多野や、婚家の本郷からここに連絡があったとしても〈面会謝絶〉と言って、ここに来るのを断ってください。面会できるようになったら連絡させるとか何とかいっていただきたいのです!」

と必死で言った。辺見次長は

「わかったが…あなたはそれほど婚家も実家も嫌いなのか?」

というので本郷大尉は花森大尉に行ったのと同じ話をもう一度した。必要とあれば何度でもするつもりである。

話を聞いた馬堀部長も辺見次長もさすがに言葉を失ってしまった。辺見次長は「そんな、そんなひどい結婚があっていいものか。本郷大尉、よく今まで耐えてきましたね。早いところそんな結婚は清算しても構わないと私は思うよ。ねえ馬堀部長、部長はどうお思いです?」と憤慨しながら言った。

馬堀部長も驚いて

「十年も連絡をしないとは、相当のことだ。辺見君の言う通り清算すべきだね。あなたの人生台無しになってしまう…。わかった、本郷大尉の実家・並びに婚家からの問い合わせには面会謝絶として対応しよう。そしてそのあとは大尉の意思に任せる」

と言ってくれた。

本郷大尉はとても喜んで二人の軍医に礼を言い、その翌日から懸命に治療やリハビリに励んだ。手術はあと二回を残していた。つらい手術ではあったが本郷大尉は主治医の花森大尉や友人の君塚大尉の励ましを受けて乗り越えた。

手術が成功裡に終わると今度は本格的にリハビリに入り、担当の看護兵曹が「もう今日はそこまでです、ご無理はいけません!」と悲鳴を上げるほどに熱を入れた。

 

本郷大尉が懸命にリハビリに励んでいるころ、どこから聞きつけたのか本郷大尉の実家から横須賀海軍病院あてに手紙が舞い込んできた。

外科部長の馬堀大佐が開封して読んでみるとどうやら、ゲナハ基地の本郷大尉の上司が気を利かせたつもりで彼女の実家へ手紙を書き、そして波多野家の両親が驚いて病院に連絡をしてきたというものらしい。本郷大尉は自分の身の上の話を上司にはしなかったのが一因である、が誰もそれを責められまい。馬堀部長はペンを執ると本郷大尉は重傷のため現在面会できない状態である、今後面会可能な状態になったら改めてお知らせしますので「お待ちいただきたい」、と書いて出した。

 

その手紙を受け取った波田野家では仰天して本郷家へ連絡をし、両家は「面会がかなうようになったら病院に行ってミツと話をしましょう」と打ち合わせ、ミツの母親は八介に

「八介さん本当にごめんなさい…あの娘もう二度と勝手なことができないようにしてやりますから」

と謝り八介は

「いやあおかあさん。私が行きますから、私が行けばミツさんはちゃんと帰ってきてくれますから」

と言った。

八介の心の中に、どす黒い思惑が渦巻いているのをミツの母親も、ミツ本人も知る由もない。

 

ミツ大尉は今日も治療に専念している――

  (次回に続きます)

 

            ・・・・・・・・・・・・・・

本郷大尉、旧友と思わぬところで会いました。本郷大尉の境遇にびっくりした君塚大尉、彼女もきっと本郷大尉の新しい人生の道を切り開く手伝いをしてくれることでしょう。

それにしても八介、何をたくらむ??


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こうしてやるっ! 2

本郷ミツ大尉はそろそろこの約十年を清算したいものだと思っていた――

 

婚家とも実家とも行き来が無くなって宙ぶらりんな自分をどうにかしたかった。そうでないと次の一歩が踏み出せない。事実ここまでくる間、懸想されたこともあった。想いをそっとかけた人もいた、がしかし、自分の立場を考えたときそのすべてをあきらめざるを得なかった。そして――現在彼女には本当に愛しい人が出来ていたのだった。

(だからこそ)

もういい加減見えない鎖に縛られた自分を解き放ち自由になり、愛しい人と一緒に居たかった。

 

そんなことを思いつつ、今日も本郷大尉は訓練に出ようとしていた。今日は若い搭乗員――それもまだ予科練出たてと言って差し支えないような――に見せるための飛行である。

本郷大尉は若手搭乗員嬢たちの「素敵ねえ、本郷大尉」「本当に!ちょっと陰のある感じが素敵」などと甘いため息に包まれながら愛機の零戦に乗り込む。

今日も暑い、整備兵嬢が翼の下で額の汗をぬぐっている。その整備兵嬢に「ありがとう」と声をかけて大尉はエンジンをかける。

快調にエンジンは動き、プロペラもいい音で回転を始める。

(素晴らしい。わが愛機、素晴らしい整備に感謝だ)

本郷大尉は愛機を滑走路に進ませそしていよいよ離陸…!

本郷機は航空隊司令たちの見守る中軽々と地面から脚を離し、舞い上がった。大尉は皆の上空で宙返りだとか急上昇・急降下などして見せる。

口を開けたままそれを見つめる若い搭乗員嬢たちに多幡大尉は

「よく見ておきなさい。そして自分の頭の中にあれを映画のように叩き込んでおきなさい」

と本郷機を見上げたままで言う。搭乗員嬢たちも見上げたままで「はい!」と返事。

 

本郷大尉はスロットルレバーを操りながら右に左に、上に下に愛機を操る。彼女の操縦は基地司令や隊長から「舞を舞うような操縦だ」と絶賛されるほどのすばらしさで、それには多幡大尉も北原中尉も「アレはまねできない。あれは本郷大尉の天性の操縦だ」と唸るほど。

本郷大尉本人は「そんなことないです。誰だって訓練次第でできるようになるよ」と恥ずかしげに言っていた。

 

本郷大尉は機を上昇させた。この後急降下して着陸する予定である。

すると、大尉の目の前を何かが不快な唸りを上げて行っては過ぎる。(なんだ、いったい?)と大尉がちらと見るとそれは親指ほどの〈蜂〉である。刺されたらかなり痛そうである。

「蜂か」

と本郷大尉は声に出したその時、蜂・ハチ・八・八介…と一番思い出したくない連想が浮かんでしまった。本郷大尉は

「このハチ野郎!どこまで私に…!」

と怒鳴るとそいつを掴み、つぶそうと風防の中で片手を上げて飛び回る蜂を捕まえようとした。知らず、操縦桿を持つ手も不必要な動きをはじめ、下で見ている皆は「なんだ?どうしたんだ、いったい何があったんだ」と騒ぎだす。

 

本郷大尉はやっと、その蜂を飛行手袋の手で握りつぶした。やったぜ、ざまあみろと言って気が付けば。

目の前に滑走路の端の林が至近に迫っていた――

 

「本郷大尉――!」

皆が絶叫したその時、本郷機は滑走路端のヤシなどの林に突っ込んでいた。

ギャー、と大声でわめきながら皆はそちらへと走り出す。副官は「衛生兵ーッ、軍医長、軍医長来てください―ッ」とわめきながら宿舎へと走る。

多幡大尉は一番に林へと駆けつけた。林の中ほどのヤシの木数本に本郷大尉の零戦はあおむけからやや、機首を下に向けて引っかかっていた。

幸い火は出ていない。

「本郷、本郷大尉―!」

と多幡大尉はわめきながら機体の下へ入り逆さになった風防を見上げた。

風防は開いて、一部はへしゃげている。そして肝心の本郷大尉は機内にもその周りにもいない。

「本郷大尉―ッ!」

もう一度叫んだとき北原中尉や若手搭乗員嬢もかけてきてその状態に息をのんだ。零戦隊隊長の粟野大尉が周囲を見てから

「投げ出されたんじゃないか、探せ探せ‼」

と怒鳴るように言って皆は林の中を駆け回る。数名の搭乗員嬢たちはもしや、との思いから林の外に駆け出していく。

この林の外には外周二十五メートル・深さ二メートルほどの池がある。搭乗員嬢たちが水練をしたり水浴びに使う池で、その池まで駆けて行った搭乗員嬢が見たものは…池の中ほどにうつぶせになって浮いている、本郷ミツ大尉の姿であった。

「本郷大尉―ッ!」

今までのどの声より凄まじい声が周囲を圧倒した―

 

本郷大尉は皆の手で池から引き揚げられ、担架に乗せられて心臓マッサージを施されながら兵舎の医務室へと運ばれる。多幡大尉、北原中尉が半泣きになりながら「本郷、死ぬな。死んではいかん!」と叫び続ける。

本郷大尉は外へ投げ出された時飛行帽が脱げ、その際どこかにぶつけたのか前頭部から後頭部にかけて裂傷があり激しく出血している。そしてかなり骨折もあるようだ。

手術室の前で軍医長・軍医大尉・軍医中尉と看護兵嬢たちが待ち構えていて、本郷大尉はすぐに手術室へと入って行った。

手術室のドアが閉まった。

 

「本郷大尉、助かりますよね?ねえ、多幡大尉、助かりますよね本郷大尉は」

若い搭乗員嬢――鈴木二飛曹と佐竹一飛――が多幡大尉に縋り付いて泣きながら言う。ほかの搭乗員嬢たちも流れる涙をぬぐいもしないで手術室のドアを見つめたままである。

北原中尉が鈴木二飛曹の肩に手をかけて

「本郷大尉の運次第だ…あれだけの大けがだと…あるいは」

と言って言葉を切ってしまった。多幡大尉は二人の搭乗員嬢に掴まれてゆすぶられるままになって呆然としている。

そこに海野副官がやってきて多幡大尉のそばにそっと立つと

「これが…本郷大尉の手に握られていたんだが」

と差し出したものがあった。多幡大尉が副官の顔を見てからそれを受けとってみると本郷大尉の右手の飛行用手袋、その中には〈蜂〉が握りつぶされていた。

「?蜂…、これのために本郷は…」

それだけ言うと多幡大尉はその場にしゃがみ込んで嗚咽した。

 

本郷大尉の手術は実に四時間を有した。

やっと、手術室のドアが開いて軍医長が出てくると待ち構えていた多幡大尉たち大勢の搭乗員たちは真っ青な顔で軍医長を見つめた。

軍医長は静かに皆を見まわすと

「危ないところだった、あと数分発見が遅かったら彼女死んでたね。頭の裂傷と足の骨折。全身打撲。全治四か月というところだろう。零戦が林に突っ込んだのが幸いしたね。樹がクッションになって地面に叩きつけられず済んだのが何よりの幸い。それに彼女自身が池に落ちたのも。池に走って行ったのは誰かな?お手柄だったよ、あのままなら出血多量でダメだったよ」

と言って皆はふーっと息を吐いた。

多幡大尉は両足が急にがくがくしてくるとその場にへたり込み「よかった…本郷大尉…よかった」と言ってまた泣いた。

 

本郷大尉の意識は、しかしなかなか戻らなかった。軍医長によれば出血が多かったこと、全身を打撲していることなどで意識回復までは二三日かかるのではということだったが

「血圧などはだいぶ落ち着きました。しかし予断は許しませんから夜通しそばに居ります」

と看護兵嬢は言った。

北原中尉は「どうかよろしく願います」と言って看護兵嬢の手を取って頼み込んだ。その手を握り返して看護兵嬢は頷いて

「北原中尉も多幡大尉も、我々に任せてください。軍医長もそういっております」

と言った。

病室に運ばれる、包帯だらけの本郷大尉に多幡大尉は声をかけたかったが海野副官にそっと両肩をおさえられ、多幡大尉は病室へと入ってゆくその姿にしらず、片手を伸ばしていた。

 

本郷大尉の意識が戻ったのはそれから三日ののち、そして軍医長の判断により大尉は内地の海軍病院に入院のためゲナハ基地に寄港した巡洋艦に乗せられて内地、横須賀へと向かって行ったのだった。

まだあまり話の出来ない大尉ではあったが、多幡・北原の両名の「早く元気に元通りになって帰って来い、待ってるから」という励ましと、基地司令他の激励を受けて涙を流しながら巡洋艦に乗せられていった。

 

その日から一週間ほどかかって、巡洋艦は横須賀に入り本郷大尉は横須賀海軍病院に入院の運びとなったのであった――

   (次回に続きます)

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・

大事故!

命を取り留めた本郷大尉ではありますがどうなることでしょう…。何よりも本郷大尉の一番の気がかりの問題はどうなってしまうのでしょう。次回をご期待ください。


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こうしてやるっ!! 1

女だらけの帝国海軍航空隊、ゲナハ諸島ゲナハ基地は今日も暑い日差しが照り付けている――

 

ヤシの木の木陰で座り込んで、滑走路に並んだ零戦を見ながら話しこむ中尉・大尉と言ったベテラン搭乗員嬢たち三人。本郷ミツ大尉、多幡(たばた)綾子大尉そして北原カナ中尉は、飛行帽を取って髪を風に吹かせながら昨日行った若手搭乗員対象の模擬空中戦の反省会の最中である。

本郷大尉が

「今回の訓練はなかなか良かったよ、皆以前にもまして真剣そのものだったからね」

と言い多幡大尉は

「しかしもう少し練度を挙げないといけない、いざ敵との空中戦となったときあれでは心もとない。敵の飛行機の後ろにもっと速やかに回り込めないものか」

と腕を組み北原中尉は

「口で言うのは難しいですが、そうだ、イメージトレーニングをしたらどうでしょう」

と提案。「イメージトレーニング?」と不思議そうな顔の大尉二人に北原中尉ははい、とうなずいて見せて

「まあ普段からしていることの延長ではありますが、」と前置いて「その状況を頭の中で、あるいは模型を使って再現するんです。そしてその時自分はどう対処するかを考えるんです。これは意外と大事だと思うんですがどうでしょうか?」と説いた。

本郷大尉は

「ふむ…、いいかもしれないね。多幡、貴様若手に人気があるからその役目、貴様がしろよ」

と言って多幡大尉は頷いた、うなずきながらも多幡大尉は

「そういう貴様だって若手の嬢ちゃんたちにキャーキャー言われてるじゃないの、『本郷大尉ってニヒルで素敵ぃ~』って。まあ一度に大勢は教えられんから貴様に半分その役目やるわ」

と言って笑った。北原中尉も笑った。

本郷・多幡の両大尉が若手に人気があるのは、二人の年齢がやや高いということと妻帯者ならぬ夫帯者(?)で結婚生活にそれなりに年季が入って、人間関係の機微に敏感であるからである。

多幡大尉の結婚生活はそろそろ八年、本郷大尉も同じくらいであるが実は本郷大尉の結婚生活は、長いというだけであまり幸せなものではない。

本郷ミツ大尉――旧姓を波田野――は女学校四年で兵学校を受験し、合格の知らせが来るか来ないかの時親の勝手で「婚約」させられた。相手は全くミツの知らない人でそれを聞かされたミツは駄々っ子のように畳の上に転がって

「嫌だ、いやだっ!なんでお父さんもお母さんも私に何も言わないで勝手に話を進めるんだあー!私はこれから兵学校に行くっていうのに、結婚なんか絶対しない!しないったらしないのだっ!」

とわめき散らした。

そもそもミツの両親は兵学校に行かせる気持ちなど毛頭なかったがミツはこっそり受験しそして合格してしまった。だが結婚の話自体はミツが女学校三年の時にすでに持ち上がっていた話であった。相手は隣町の小さな商店の若旦那で、彼がこの町に用事で来たときミツを見初めたのだという。

間に人を立てて若旦那はミツの家にやってきて話をし、ミツの両親はすぐ乗り気になり「ミツが女学校を終えたらすぐに」結婚という約束を取り付けてしまった。

しかし当初母親は「ミツは内緒にしておきましょう」と言い、のちになってそれを聞いたミツはその話から逃げるように兵学校に行ってしまった。

だが相手もさるもので、ミツ不在のまま結納を波田野家と交わしてしまった。それには相手の親の意向もあった。要するにミツがどこに行こうと逃げようと、最終的には「うちにお嫁に来るようになってるんですから」というわけである。

波田野ミツは、兵学校を終え少尉候補生として海軍軍人の道を歩み始めたある日実家からの手紙で本郷家に籍が入れられてしまったのを知ってしまう。手紙をぐしゃぐしゃに握って、配属になった軍艦「陸奥」の甲板で「嫌だあ、いやだあ!!絶対嫌だあ」と転げまわって泣きわめき、所属の分隊長に

「何やってんだ波田野候補生!貴様たるんでるぞ、そこになおれ!」

と怒鳴られ思いっきりアゴを取られた。

が、それでも泣きわめくミツに気味が悪くなった分隊長は「いったいどうしたんだ…ちょっと来い」と軍医長のもとへ引っ張られ、そこでミツは軍医長にすべてを打ち明けた。泣きながら、そして粘着力も素晴らしい鼻水を垂らしながら。

詳しい話を聞いた陸奥の軍医長と、分隊長は互いに顔を見合わせてため息をついた。こういう話は結構よく聞く話ではあるがここまで親と相手の親が結託している話も「めっずらしいねえ!波田野候補生、いやもう本郷少尉候補生。あきらめなさい」と言ってその肩をたたいた。

しかしあきらめられないのは当人で、何とか『逃げ切ってやる』と決心。のちに航空の道へと入るのだった、「飛行機乗りなら内地にいない方が多そうだから」という理由で。

そしてなんとか飛行機乗りの道も軌道に乗り、外地の基地へ配属になるときミツは休暇をもらって実家に帰った。

が、母親に『あんたの帰る家はここではありません、本郷さんの家です!』とぴしゃりと玄関の戸を閉じられた。憤慨しながら本郷の家に向かったミツ、初めて訪れる「婚家」である。道に散々迷いながらやっと着いた婚家は雑貨を扱う商店であった。なんかかあまりはやっていなさそうな店で、正直ミツはげっそりした。それでも家の玄関を探して回ったが――ない。

(店から入れというのか)

ミツはさらにげっそりしながら店の古い暖簾を持ち上げると小さく咳払いをしてから

「ごめんください…波田野、もとい、本郷ミツであります」

と、奥へと声をかけた。

普通ならここで奥から「お帰りなさい」とか「よく来たなあ早く入りなさい」などと言いながら家族が出てくるはずである。

が。

待てど暮らせど誰も出てこない。

(どういうことだ?)

ミツは不審げな表情になった。店は開いている時間なのに店には誰もいない、(これでは店と言えないじゃないか)。

いっそこのまま隊に帰ろうか、とさえ思ったその時「ハーイいらっしゃい」と女の声。果たして出てきたのは姑である。姑の本郷クマはミツをみた。ミツは緊張して敬礼して「は、初めまして…ほ、本郷ミツ少尉であります。休暇をもらい帰ってまいりました!」と申告した。

すると姑のクマは彼女を一瞥した後「店の前、掃除しときなさい。あんたの係!」とだけ言うと奥へと引っ込んでしまった。唖然とするミツ、さらに奥から夫である本郷八介(ほんごうはちすけ)が出てくるとこれも何の挨拶もないうちに

「おかあさんの言うことをちゃんと聞け。ほらそこに箒があるから」

と店の隅を指さし、そのままこれも奥へ引っ込む。はあ?とさらに唖然とするミツ少尉。段々怒りが湧いてきた。今までこれほど無礼な扱いを受けたことはなかった。

これが結婚か、これが嫁というものかと思うと情けないやら腹立たしいやらで握ったこぶしが震えた。それでも何とか言われたことをすませ、家の奥へ入って「掃除…済ませました」というとクマも八介も何も言わずラジオを聞きながら笑っている。

(なんて奴ら)

ミツ少尉はげっそりの度合いをさらに深めた。その場に悄然として立っているミツにやっと気が付いた八介は「おお、部屋はこっちだよ」とやっとこさ、部屋に案内してくれた。新婚用にとあてがわれた部屋はしかし、戸が付いていない。廊下から丸見えである。

そこでミツはげんなりしながらも服を着替え姑に何をしたらいいかの指示を仰いだ。姑のクマはあれこれ言いつけ、ミツ少尉は懸命に働いた。

やっと夜の帳が降り、ほとんど客の来ない店を仕舞った。

夕食になったがさらにミツ少尉はげんなりげっそりする羽目に合う、なぜなら夫と姑の食べ方があまりに汚かったからである。

くちゃくちゃと音を立てるは、箸で歯をせせるは…要するにマナーのなっていない連中なのである。波田野の家は食事のマナーにうるさかったし兵学校でもマナー教育は厳しかった。それを至極当たり前としてきたミツ少尉にはこの家のなってなさには不信感・不潔感さえ抱くのに十分すぎるほどである。

ぐったりしたまま片づけを終え、風呂に入り戸の無い部屋に帰った。もうすでに布団が延べられていて電燈も消され八介が待っていた。

ミツ少尉が布団の端っこに座ると待ちかねたように八介がミツを抱きしめ、布団の上に押し倒した。

ギャッ、と声が出そうになったが慌てて歯を食いしばりこらえた。廊下から声が漏れだしては困ると思ったからだ。

八介の手がミツの浴衣のひもを解いたとき、八介の向こうで何かの気配がした。ミツが八介の肩越しに懸命に向こうを見るとなんと。

姑のクマがこちらの様子を覗き込んでいた。

いやだ!

とミツ少尉はびっくり仰天して八介の下から逃れた。浴衣の前を掻き合わせ、「嫌です…ここの部屋には戸がありません。丸見えではないですか」と訴えた。

すると八介の態度が一変、「何をぬかすかこの野郎」と怒鳴りミツの浴衣の胸ぐらをぐっとつかむと

「これがうちのやり方だ、文句言うな、あとからきたくせしやがって!だいたいお前はここで働かせるためにもらったんだからここに来た以上俺たちに従うんだ、四の五の抜かすんじゃない!」

と怒鳴ると布団の上に突き倒した。そして彼女に覆いかぶさった――

 

ミツ少尉の初体験は悲惨な結果に終わった。初めてだというのに八介はミツを乱暴に扱い、とても恥ずかしいことを要求してきた、初めて故の羞恥からそれを拒否すると悪口雑言罵詈雑言をたたきつけミツの尊厳も何もあったものではなかった。そのうえその様子を姑のクマが入口の影からじっと、一部始終を見つめていたのだ。

夜も更け、自分の隣に大いびきをかいて眠る八介をミツは恨めしそうな瞳で見つめた。

(結婚した人はみんなこんな目に合うのだろうか)

しかし、自分の隊にいる既婚者たちはもっと幸せそうに結婚生活の話をしている。さすれば。

(この結婚は変なのだ。そもそもからしておかしいのだから、変以外の何物でもない。大体私はこの結婚に賛同したわけじゃない。それに私はこの家に働くために来たんじゃない、私は――私は海軍士官だ!)

ミツ少尉は心を決めた。

その夜が明けるころ、軍装に袖を通した。八介に乱暴にされた部分が鈍く痛んだ。初めてをこんな形で奪われたことへの怒りが改めて湧いた。

ミツ少尉は短剣を下げるとカバンを持ち、部屋を出た。姑の部屋からは軽いいびきが聞こえてきて熟睡中なのが分かった。

ミツ少尉は(もう絶対ここには来ない)と決心して本郷の家を出た。そしてそのまま帰隊したのだった。

 

以来十年ほど、本郷大尉は婚家に帰っていない。ばかりか実家にも帰っていない。

本郷ミツ大尉にとってどちらも<敵>であるからだ。本郷の名を名乗るのも嫌なことではあるが離婚の手続きもままならぬため、仕方がない。

 

本郷ミツ大尉の一見ニヒルな表情の本音はそこにあるのだった――

  (次回に続きます)

 

           ・・・・・・・・・・・・・

かっこいい航空隊のベテラン搭乗員の悩みでした。本郷大尉、きつい結婚を強いられていたとは。それにしても最近の「女だらけの帝国海軍」将兵嬢たちの悩みのナンバーワンは結婚に関することのようですね。まあそれだけお年頃が多いのでしょう…次回をお楽しみに!


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プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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