「女だらけの戦艦大和」・『武蔵』あれこれ2
かつて『武蔵』で医務科に勤務していた旧姓・春山兵曹、現三浦桃恵はその晩の23時頃、軽い腹部の違和感を感じた――
(あれ?なんだろう、なんだかおなかがキューっとしてるんだけど)一旦寝付いた桃恵ではあったがその違和感で目を覚ました。隣の布団では夫の智一が軽い寝息を立てている。
昨日も智一は仕事で疲れていたようだ、こんなことで起こしてはいけない・・・そう思って桃恵は(このくらいなら平気。明日になったら婦人科にへ行こう)と、もう一度眠ろうと目を閉じた。
そして朝、東の空が白々と明けてくるころ桃恵は腹部の張りに目を覚ました。昨晩よりきつい。おなかを触ると張っているのがよくわかる。
「なんだろう、これ」と厠にそっと立った桃恵は<しるし>が降りてきているのを見た。早晩お産が始まる、と直感した。智一が起きる6時前には張りが規則的になっていた。目覚めた智一はさすがに妻の様子がおかしいのに気がついた。
「どうした?桃恵、・・・まさかもしかして!」
三浦中尉は(ついに来た!)と思った瞬間もう慌てふためいていた。どうしよう、桃恵しっかりしろよ、海軍病院に行くかそれとも産婆さんか!?しっかりしろ気を強く持て!
取り乱す夫に桃恵は笑って、
「大丈夫ですよ、智一さん。・・・まだまだですよ」
という、その落ち着き払った様子に中尉は「まだまだって・・・だって陣痛始ってるんだろう?そしたらすぐ生まれちゃうじゃないか」と真っ青になる。桃恵は笑って夫の手をそっと取ると、「智一さん、初めてのお産は時間がかかるんですって。だから大丈夫です。あわてないでくださいね」
と言った。智一は少しほっとしたが、
「でも今日明日だろう。すぐ海軍病院に行こう」
と言ってまず海軍病院に電話、そのあと部下に電話をし自動車で海軍病院に行くことにした。桃恵は「こんな早くから申し訳ないです」と恐縮したが部下の技術少尉は
「そんなことないですよご心配なく。それより奥さま、少し揺れるかもしれませんが何かあったら遠慮なくおっしゃってくださいね」
と快く引き受けてくれた。自動車は海軍病院を目指す。
海軍病院ではすでに連絡を受けていたから入院の準備を整えてくれている。
前に『武蔵』に乗っていた下士官の出産とあって、産婦人科では少し緊張気味で桃恵を迎えた。桃恵を診察した軍医は、
「この調子ならそうですね・・・今夜までには生まれるでしょう。おなかの張りは昨晩からでしたね」
と聞く。桃恵はうなずいて「はい、昨晩の23時ころからです」とその時から今までの様子を細かく伝える。
その様子に軍医は(さすが『武蔵』の医務科の出身だ。的確な答えだ)と感心した。そして軍医は「では三浦さんはこちらへ」と桃恵を一室にいざなった。そのあとを中尉がついてゆく。その中尉に軍医は
「三浦中尉はどうぞお仕事へいらしてください」
という。その軍医に中尉は心外な!という顔で「そんなあなた!子供が生まれちゃうではないですか」と軽く抗議。すると軍医――杉山大尉――は笑いながら、
「三浦中尉。赤ちゃんはまだまだすぐには生まれません。奥さまは初産ですからね。早く見ても陣痛発来から12時間。遅い場合はもっとかかります。ですからどうぞご安心なさってお仕事にいらしてください」
と言った。三浦中尉は「そんな・・・まだまだ桃恵はこれから苦しむんですか」と呆然としている。そんな中尉に桃恵は
「あなた、ご心配には及びません。私は女です、お産は女の戦場です。どんなことが起ころうとも覚悟はできています。ですからどうぞ安心なさってください」
とほほ笑み、やっと中尉は落ち着くことができた。
「そうか・・・でももう生まれる!とか何かあったら絶対連絡をするんだよ。杉山大尉、どうかよろしくお願いいたします」
そういうと、軍医大尉に敬礼し桃恵の手をグッと握って「頑張れよ」というと名残惜しげに妻の瞳を見つめた後、踵を返し職場に向かったのだった。
桃恵はそれから徐々にきつくなってくる陣痛と戦うことになった。ベッドの上で段々間隔が狭まる陣痛に耐える。
(私は『武蔵』で戦ってきたんだからこれくらい平気。だってこれは赤ちゃんを抱くための戦いだもの)
桃恵は時を追うごとに激しくなる陣痛に、耐えた。
そして、桃恵は自分と夫・智一の出会いからこちらを思い出していた。
・・・あの時、三浦中尉と出会っていなかったらきっと私はあのままどうしようもない投げやりなままで『武蔵』で勤務していただろう。あの日、私が落とした牧水の詩集を拾ってくれた三浦中尉は私が泣いていたのに気がつくとさりげなくあの優しいマスターのいる喫茶店に誘ってくれたのだ。マスターは私の様子を見るなり気を利かしてくれて店の奥の他からはちょっと見えないようなつくりの席に案内してくれたのだ。その席に座って、最初何も言わないで黙って私を見つめていた中尉。私の気が落ち着くと中尉は運ばれてきたコーヒーの一つをそっと私に差し出して「つらいことがあるならこれを飲んで忘れましょう。もし何かお話したいことがあるなら私が聞きましょう。安心してください、私は口が堅いですから聴いたことは誰にも言いませんからね」と言ってくれた。
初対面なのに私は三浦中尉には今までのこと包み隠さず話せたのだ。彼には安心できる何かがあったから。
学校の同級生と付き合っていたこと、彼の下宿に「住んでいた」事やあの衝撃的な破局のこと・・・それを聞いた中尉の顔が痛ましげに歪んだのを私は見た。そしたら中尉は言ってくれたのだ、「もうすべて過ぎたことですよ。忘れましょう、そしてあなたは新しい一歩を歩きださないといけませんね。・・・誰か、いい人を探しましょうよ」と。その時なんだか中尉がそわそわした感じだったのを不思議に思った私だけどあれは・・・。
そのあとまた横須賀で出会って、一緒に話をしているうちにもう離れがたくなってしまった私たち。
そしてあのプロポーズ・・・私は本当に自分の過去が気になっていたけど、中尉は「済んだことは済んだこと。済んだ過去にはこだわりませんからあなたももう忘れてくださいね」と言ってくれて私は本当にうれしかった。そしてあの暖かかった祝言。そしてその晩のこと。翌日私が『武蔵』に乗り込む前に交わした口づけ、妊娠して横須賀に帰ってきた晩にそっと抱きしめてくれた夫の胸の温かさ…一生忘れない。
そこまで思い出した時、新しい陣痛の波が桃恵を襲った。
「!!」
声をたてないように歯を食いしばる桃恵の脳裏に、波濤を蹴立てて進む『武蔵』の姿が浮かんだ。そして医務科の皆や猪田艦長、加東副長の顔が浮かんだ。
「みんな・・・」
桃恵は手にしていた『武蔵』の皆の集合写真を思わず胸に抱いた――
(次回に続きます)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いよいよ出産のとき!つらい陣痛もこらえろ桃恵!これが女の正念場だ。
というわけで、次回いよいよ・・・!
ところで・・・本当の海軍病院には産婦人科と小児科はありませんでしたことを追記しておきます!
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