翻弄される愛

<小泉商店>トレーラー支社長の小泉進次郎は社員の一人から聞き捨てならないことを聞かされたーー

 

「支社長、」と社員の柴本幸三から声をかけられた小泉支社長はにこやかに振り返って「はい、柴本さん。どうなさいました?」と応えた。その爽やかな微笑みに柴本もほほ笑み返したが、表情を引き締めると

「ちいとええでしょうか。お話したいことがありますけえ」

というとその表情を見た小泉支社長は「ではこちらへ」と宿舎の私室へと彼を招き入れた。進次郎の私室はきれいに片付いていて彼の性格を物語る、その部屋に落ち着くと柴本は声をやや潜めて

「支社長はあの噂をご存知でしたか?」

と言った。あの噂、と小さな声で言った進次郎は柴本の顔を見つめると

「例の、宿舎で聞こえるという<うめき声>の話ですね?もしかしたら南方妖怪ではないかと皆が気味悪がっていたあれですね?」

と言い柴本はうなずいた。そして柴本はごくっと喉を鳴らすと

「支社長、私気が付いてしまったんです。あの<うめき声>は妖怪の仕業ではありません。あれは…あれは、生身の人の声です」

と言い切った。「生身の人の声ですか?」と進次郎の声はかすかに震えた。生身の人間の声なら、もしかしたら妖怪の声より厄介で気味が悪いのではないか。進次郎は緊張を帯びた瞳の色で柴本を見つめる。柴本は年若き支社長をひたと見つめると

「そうです。生身の人間です。実はあの時その話をしたあとすぐに声が聞こえなくなりました、どうもおかしい…と思って丘田に内々に調べさせましたら」

「そしたら?」

「なんと、<小泉()商店()>の紅林と<南洋新興>の合弁推進室長の香椎さんが」

「えっ…」

「男女の仲になっていたらしいんです。彼ら「声」の話をされてびっくりして河岸を替えたらしいんですよ。水島(ここ)の繁華街のはずれの<待合>に入って行ったと<小泉()商店()>の現地人従業員のハミラ君が言っていましたよ。彼はしっかりしてるから間違いないです」

柴本のその話を聞いて進次郎は考え込んでしまった。紅林次郎と言えば、姉の小泉純子と海兵団同期の友人の『大和』に勤務の桜本トメ海軍一等兵曹と許婚の仲ではないのか。しかもその桜本との交際は紅林の方から社長の小泉孝太郎に頼み込んで話をつけてもらったと聞いている。なのに。

「紅林さんは…桜本さんをどうするつもりなのだろう」

進次郎は遠い目をしてぽつりとつぶやいた。柴本も、そんな支社長から目を離さないでうなずいた。数瞬ぼんやりとしていた支社長だったが我に返ると柴本に

「よくわかりました。この件はほかの社員には言っていませんね?ならいいんですが、口外無用に願います。きちんと調査したうえで判断します。ともあれ情報をありがとうございます。また何か気が付いたことがあったら知らせてください」

と言って柴本は「わかりました。私の胸に秘めておきます。…ハミラ君にもほかの人に言わないよういってありますので」と言って支社長の部屋を出た。

ドアが閉まると進次郎は椅子に座り込み「ああ…なんてことだ。困ったことが起きた」と独り言ちしばらくの間頭を抱えていた――

 

元気のない桜本兵曹ではあったが勤務に差し支えるようなことがないのが、小泉兵曹たちには一層不憫に思えて仕方がない。そんなけなげなオトメチャンに紅林に女の影があるという話をするのは気が引けてならない。

小泉兵曹はそんなある晩、第一砲塔前に集まった高田兵曹・岳野水兵長・長妻兵曹に言い放った。

「うちがじかに紅林に談判する!オトメチャンをどうするんか、はっきり聞いてくる。そのうえでオトメチャンに話をしよう思うんじゃ」

おおっ、と皆はどよめいた。石川兵曹が

「ほんまになさるおつもりですか小泉兵曹」

と恐る恐るといった態で訪ねた。その石川兵曹にうんとうなずいた小泉は

「もう直談判しかあるまい?いつまでこうしとっても埒が明かんで。その上オトメチャンは紅林に大きな不信を持っとる、その不信感を払しょくするも確信させるも紅林自身なけえね。はっきりさせて、そのうえでオトメチャンに合わせて決着つけんと、もうありゃいけんで。こういうことは不審ができたらはっきりさせるんが筋じゃけえね」

と言って皆を見回した。長妻兵曹が腕を組みながら

「ほうじゃね。いつまでだらだらしとってもええことない。こうなったら小泉さん、奴にはっきり話を聞いたうえでオトメチャンと合わせて白黒はっきりつけたらええよね、そう思いますじゃろ高田兵曹?」

と高田に水を向ける。高田兵曹も腕を組み、

「ほうじゃわ、そのほうがええ。小泉さんには面倒かも知らんが大事な戦友のためじゃ。どうかよろしゅう願います。ほいでオトメチャンと会わす…オトメチャンには残酷な現実じゃがほいでもいつまで宙ぶらりんではいけんけえの。まあ、オトメチャンにとっては<大人>になるための試練じゃ思うてもらうしかないのう。つらいことじゃがね」

と言って下を向いた。岳野水兵長も

「ほうですねえ。どんとなつらい現実でも受け入れんといけん言うことはあの子自身がようわかっとる思いますし、あの子はそんとなことでどうにかなるような弱い子ではない思いますけえの。どうか小泉さんよろしゅうに願います」

と言って頭を下げる。小泉兵曹は年上でオトメチャンの従姉から頭を下げられ慌てて

「岳野さんそんとなことせんでつかあさい、うちはしっかりやってきますけえね。安心しとってつかあさい。紅林のやつを締めあげてきます…まったくええ加減な奴じゃわ、うちそんとなオトコただじゃおけんわ」

と言って息巻いた。まあまあ、と長妻兵曹が小泉をなだめたあと

「ほいじゃあ、今度の小泉の上陸日をその日に当てるいうことでええんね。ほいでそのあとにオトメチャンと会わせてしっかり話をさせると。そんときにはこの中の誰かが同席するかどこかで見とるほうがええね。まあその辺もしっかり考えとかんといけんの」

と言い皆はうなずいた。

 

小泉兵曹は上陸日の三日前、上陸する友人に頼んで弟・進次郎への手紙を渡してもらった。それには紅林を尋ねるから三日後のこの時間にこの場所に来てほしいと書いてあり、それを受け取り呼んだ進次郎は紅林を呼び、

「姉があなたを尋ねてきます。この日に逢ってください。場所は…」

と話した。果たして紅林は顔色を青くしている。動悸が胸を激しく打っているようだ。その様子を静かに観察しながら進次郎は

(やはり噂は本物ですね、でもはっきりさせないと桜本さんが気の毒ですからね。紅林さんあなた男らしくはっきりなさい)

と心の中で叱咤している。父親の孝太郎から以前に、紅林の人柄を聴かされ「紅林君がなあ、純子の海兵団からの友人を気に入っての、交際したいいうんじゃ。ええ話じゃ思うんじゃ。その友人いう人は苦労人での、ほいでもとても気持ちのええ人じゃ。じゃけえ紅林君となら、と思うんじゃ」と嬉しそうに言っていたのを思い出し、(私の父親まで裏切る気か、そんとなことさせん)と決意している。

 

三日後。

小泉兵曹は紅林を待って繁華街のはずれの小さな茶店にいた。現地の人の経営する店で小泉達とは顔なじみの店である。小泉はヤシの実のジュースを飲みながら彼を待った。やがて「――お嬢様」と声がしてそちらを見やれば紅林が立っていた。

「こっちへ来てつかあさい」

という小泉の声に素直に従った紅林は、彼女の正面の椅子に座った。店主にヤシの実のジュースをもう一つ頼んだ後小泉兵曹はまっすぐに彼を見つめると切り出した。

「紅林さん、はっきり言いますがあんた…桜本兵曹のほかにええ人ができましたね?」

すると紅林の瞳が不自然に揺らぎ、小泉兵曹は思わず

「図星じゃな!あんた、――あんたオトメチャンという人がおってのに他に女ができたんじゃな?ほんまのこと言えや!」

と怒鳴っていた。

海からの風がどうっと吹き付けてきたーー

  (次回に続きます)

 

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・

いよいよ対決の時が。

その前哨戦ともいえる小泉兵曹との話し合いが始まりましたが、すでに波乱含み。さあどうなる??次回以降をお楽しみに。

愛は乾いた砂のごとく

オトメチャンが振り向くとそこには逢いたくてたまらなかった紅林がいたーー

 

「紅林さん…」

と言ったままオトメチャンは立ち尽くしていた。二種軍装のオトメチャンの姿はだれが見ても息をのむほど美しい。がしかし、紅林の心は以前のようにときめくことはない。傍目にはどこか、オトメチャンを冷めた目で見ているような感じさえ受ける。

だが紅林に逢えたよろこびに身を浸すオトメチャンはそんなことには気が付かない。ただ、再会の喜びに身を震わせている。

「紅林さん、お久しぶりです」

やっと我に返ったオトメチャンはそういって敬礼した。常夏のトレーラーの日差しのもと、オトメチャンは敬礼の手を下ろすとやっと、微笑みを浮かべた。紅林さん、と言って一歩彼のほうに歩み寄ったオトメチャンであったが紅林は逆に一歩、あとじさった。

が、紅林は思い直してオトメチャンのほうに二歩ほど近寄った。どうやらオトメチャンはそんな彼の行動に不信を抱いてはいないようだ、紅林は内心ほっとした。(気取られてはならん)と気を引き締めた。

オトメチャンは彼の前にたつと

「あれからどのくらいたったか、うちはもう逢いとうて逢いとうて…。でもこうしてやっと逢えてうちはうれしい。ほいであの、紅林さん」

樋って恥ずかしげにうつむいた。紅林は笑顔を作りながら

「どうしたんじゃね、桜本さん」

というとオトメチャンは顔を上げて「祝言。祝言のことです。その…いつがええか思うてずっと考えとりました」と言ったのに紅林は衝撃を受けた。乾いた声で

「祝言…かね」

と言い、桜本兵曹はうなずいて「はい、今度逢うたら祝言の日取りを決めんといけんねえいうて手紙にも書いてくださったじゃないですか」と言った。

しまったことをしたと紅林は内心舌打ちした。彼の心は慌てまくって

「ああほうじゃね…いやその、つまりだね…うん、あの」

としどろもどろになっている。それをオトメチャンは男性の恥じらいではないかと思い、フフッとほほ笑むと

「そんとにあわてんでもええです。うちらもまだ内地にいつ帰れるかわからんのじゃけえ。それともここで式を挙げますか?」

と言って紅林の心はさらにびっくりして動悸が激しい。

でもその驚きやらなんやらをけっしてオトメチャンに気取られてはならない紅林は、彼女に歩み寄るといきなりのように抱きしめた。

「紅林さん…いけん」

と恥じらうオトメチャンに紅林は

「私もまだここに来たばかりじゃし、合弁の仕事がいよいよ本格的になってきたけえ式はまだ挙げられんのじゃ。桜本さんもいろいろと忙しかろう?じゃけえもうちいと先へ延ばしてもええんじゃないかね。そんとに急がんでもええと私は思うがの」

と言って抱きしめた腕を解いた。オトメチャンは自分から体を離した紅林をしばし見つめた、そして

「なんで?なんでそんとにあっさりしとりんさるんですか?前は『早う一緒になりたい』『早う式を挙げたい』いうておられたのに?なんじゃ、紅林さん変じゃわ」

と不審げな表情を浮かべて言った。紅林はそんとなことがあるわけないわい、と慌てたがオトメチャンは不審のまなざしを紅林に向けたままである。

紅林は慌てまくって

「そんとなことない、なにいうとんじゃ。忙しいいうとるじゃろ?じゃけえ式は当分なしじゃ。ええな、ならワシは忙しいけえ行くで!」

というと一散に走り去ってしまった。紅林さん!と叫んだオトメチャンを振り返ることもしないで、紅林はずっと遠くへと去ってゆく…

 

「なんで?なんでそんとに逃げるように行ってしもうたんね?紅林さん」

オトメチャンは紅林の去った方向を見つめたまま涙を流していた。二種軍装の胸に、涙がいくつもいくつも走っては足元の砂の上に落ちる。

足元の砂の色がだんだん濃い色に変わって、オトメチャンの嗚咽が高まる。どうしてどうして、というつぶやきが、なんでねなんでじゃと叫びに代わって、やがて彼女は砂の上に座り込んで号泣し始めた。

 

そのオトメチャンを発見したのは、仲間と散策していた長妻兵曹である。

長妻兵曹はヤシの樹の陰にうずくまる人影を見つけ、仲間に「あれ、誰じゃろう?海軍の制服を着とってじゃ」と言って走り出した、だんだん近づくにつれ仲間の一人が「ありゃオトメチャンじゃわ、どうしたんじゃろう」というに及び長妻兵曹は全速力で走りだした。そしてうずくまる彼女の背に手をかけ

「どうしたんね」

と抱き起すと果たしてそれはオトメチャン。長妻兵曹は「オトメチャン、どうしたんじゃね!」と大声を出し、仲間も彼女を取り囲み心配そうに見つめた。オトメチャンは軍帽もどこかに転がったまま、顔には白い砂がつき、泣きじゃくっている。

「どうしたんじゃね、オトメチャン!」

長妻兵曹は強い語調で言って両肩をつかむと激しく揺さぶった。仲間の兵曹の一人が転がったままだった桜本兵曹の軍帽を拾いそれをもってそばにしゃがんだ。それを合図のようにオトメチャンは

「く、紅林さんが。紅林さんが…」

と言って泣く。紅林がどうしたんじゃ、と問う長妻兵曹にオトメチャンは振り絞るような声で

「紅林さんはうちとの祝言をとうぶん無しじゃと言ったんじゃ。変じゃわ、今まではように祝言を挙げよういうとったんに、なんで急にそうなるん?なんでうちの顔を見たとたんそんとなことになるん?変じゃわ…」

というとその場に突っ伏し大声で泣き出した。長妻兵曹たちは、掛ける言葉すら失って泣き続けるオトメチャンをただ、見つめるだけであったーー

 

泣きそぼって『大和』に帰艦したオトメチャンを見、その詳しい話を長妻兵曹たちから聞いて烈火のごとく怒ったのは小泉兵曹と高田兵曹それにオトメチャンの従姉の岳野水兵長である。岳野水兵長は

「あれだけオトメチャンにご執心だったくせになんで今更躊躇するんか?おかしい。やはりあの時の女の人となんかあるんじゃろう」

と怒りをぶちまけ、小泉兵曹も

「そんとな男とは思わんかった。なんでここに来手連絡が途絶えたんか思うたら岳野さんの見た通りじゃな、とんでもないやつじゃ、進次郎にうちはご注進するで!黙っとれん」

と怒りまくる。高田兵曹は

「なんと気の毒なんはオトメチャンじゃ。信じて待って、ほいで結婚の日も近い思うたんにこげえなひどい仕打ちがあってええもんかい!おい、小泉兵曹。そん男引きずり出してこいや」

と吠える。

しかしこの話は三人だけの話であって、まだオトメチャンには「女性の影」の話はしていない。あまり次々にショックを与えてはならないとの配慮からである。

「ほいでもなあ」

と高田兵曹が言った、「いつまで隠しとってええもんでもあるまい?」。

岳野水兵長もうなずいたが

「ほうじゃね。しかしどういうて話したらええか、うちははあようわからん」

と頭を抱えてしまった。

小泉兵曹ははあーっと大きな吐息をつくと

「ほんまにほかに女ができたんじゃろうか。自分からオトメチャンに交際を申し込みながら、ほかに簡単に女を作れるものなんじゃろうか」

とまだ頭を抱えている。

皆の大きな吐息が、トレーラーの空に広がってゆく。

 

そんな折、「小泉商店」トレーラー支社長の小泉進次郎は気になる話を小耳に挟んでいた――

  (次回に続きます)

 

                ・・・・・・・・・・・・・

そんなばかな!

せっかく会えた二人なのに、紅林はやはり英恵に心をすっかり移し、オトメチャンを邪険にしました。その上ずたずたに傷つけてしまって…。

仲間たちも心悩ましているこの事態、どうなるのでしょうか。今後をご期待ください。

逢いたいあなた 8 解決編

機動部隊の空母四隻それに随伴の巡洋艦駆逐艦他はトレーラー水島に帰投したーー

 

『飛龍』艦内では入港に際しての点検などが行われ、安田兵曹は

「上陸は明後日以降だな。桜本さんも『大和』に帰るのはそのあとになるけど、『大和』にはちゃんと連絡行くから安心してね。それよりみんなで上陸して遊ぶのが楽しみだなあ~」

と言ってうきうきしている。

桜本兵曹もうれしそうにそれをみていたが急に(これでみんなともお別れなんじゃなあ。なんだか寂しいていけんわい)と思って視野が涙でかすんだ。でも、とオトメチャンは思い返した、(これで水島に帰ったら、紅林さんに会うことができる。紅林さん、うちはあなたに逢いたい。早う逢いたい)と。しかし『飛龍』で優しくしてくれた皆との別れは、つらい。

安田兵曹はそんなオトメチャンを見て

「いいねえ、許嫁の居る人は。喜んだ顔も憂いを含んだ顔もきれいだねえ…ああ私も早くそうなりたいなあ」

と小さな声で言った。そして安田兵曹もまたオトメチャンと別れなければならない寂しさに耐えているのであった。

 

そんなころ、トレーラー水島の目抜き通りはたくさんの海軍将兵嬢や現地の人々、在トレーラーの日本の会社の社員などでにぎわっていた。

そろそろ夕暮れ時、店店の軒下にはランタンが灯され、あるいは電灯が光り華やいだ雰囲気になりつつある。その雑踏の中を歩く一組の男女はひときわ目立っていた。海軍将兵嬢たちは

「ええねえあのお二人、お似合いじゃわあ」

「あの女性なかなかきれいね、男性も素敵。いいねえ似合いの二人」

「私もあんな素敵な人と歩いてみたい」

と目をそばだててささやき交わして通り過ぎる。それほど目立つ二人こそーー紅林次郎と香椎英恵である。二人は、すっかり意気投合して仕事が終わると待ち合わせてこうして歩いているのだ。もう四日、いや五日めになろうか。英恵は幸せそうに紅林の横について歩く。紅林も優しく英恵を見つめて歩く。

紅林は

「あなたがこんな素敵な女性になって居たなんて思わなかった。なんだ、もっと前からあなたとお付き合いしてたらよかったなあ」

と半ば冗談ぽくいってほほ笑んだ。英恵は周囲の男女がしているように、紅林の片方の腕に自分の腕を絡めると

「あら、今からだって遅くはありませんわよ。私独りですから」

と言ってこれもほほ笑んだ。すると紅林はかすかに悲しそうな表情になり、香椎英恵はいぶかし気に紅林の顔を見上げた。

「どうなさったの紅林さん…楽しくないの?」

英恵の声音さえ悲し気になって紅林は慌てた。紅林は急いで彼女を路地に引き込んだ。路地を入ると表通りの喧騒が少し遠くなった。

そこで彼は路地を先に進んだ。数分歩くともう、海辺に出た。夕日は水平線に沈み、残照だけがはるかな水平線を名残惜し気に浮き立たせている。二人は砂浜に立って残照の消えるのを見ていた。すっかり日が落ち空に星が瞬きだしたころ、紅林はやっと口を開いた。彼は英恵の両肩に手を置くとその瞳をまっすぐに見つめ

「私には、実は将来を約束した人が居るんです。その人は、海軍の下士官で…ここに停泊の大きな艦に勤務しています。でもその人は大きな作戦に出て行ったとかで、まだ帰ってきていないんです。無事かどうかさえ今の私にはわかりかねる。そんな状態なんです」

と告白した。

英恵の瞳が潤んだ。そして

「あなたにそんな人が居たなんて。許嫁がいらしたんですね。そしてその人があなたはご心配なのね」

というと切なそうに泣き始めた。すると紅林は

「でも、正式に許婚になったわけじゃないんです。まだきちんと私の親に紹介しているわけでもないんです。だから、…」

とそこまで言うと言葉を切った。英恵は彼の瞳をじっと見つめて「…だから?」と先を促した。紅林は一息大きく息を吸うと

「白紙に戻しても、かまわない」

と言った。その一言で、彼の心は一気に英恵に傾いた。英恵は彼の胸に体を寄せ、紅林はその細い体をしっかり抱きしめた。

 

『大和』では、オトメチャンの分隊もほかの分隊も

「機動部隊、投錨じゃ。いよいよオトメチャンが帰って来んさるで!話をはように聞きたいもんじゃ」

と喜び合っている。

そんな中で小泉兵曹と石川兵曹はどことなく浮かない顔つきである。石川兵曹は

「まだ桜本兵曹の許嫁いうおひとからなあも連絡がないんですか…いったいどうしてしもうたんでしょうねえ」

と言って小泉兵曹を見た。小泉兵曹も困ったような顔つきで

「もうオトメチャンが帰ってくるいうんになあ。帰ってきたらいの一番に会わせてやりたいんじゃが、本当にどうしたんじゃろうねえ?」

と言って腕を組む。石川兵曹は

「まあほいでもお相手さんも忙しいお人らしいですけえ、気にはなっとりんさるじゃろうが連絡もままならん、いうことかもしらんですよ。桜本兵曹がお戻りになるまで待ってみましょうよ」

と務めて明るく言った。そうでもないと不安に押しつぶされそうだった。その兵曹の心を解って小泉も

「ほうじゃな。忙しすぎて連絡できんいうこともあるな。まあちいと待ってみようか」

と言って笑って見せたのだった。

 

紅林はあっという間に英恵におぼれた。

英恵のすべてに。

桜本トメにはなかった大人の色香、可愛らしさ育ちの良さ。それに話術の巧みさ…それらは英恵の年齢と社会経験の年数からきているものであるが、トメにはないものばかりであった。「小泉商店」にも女性社員はいることはいたが会社経営に深く参画しているものではなく単に事務を執るだけの社員であり、英恵とは全く違う。てきぱきと部下に指令を出して現場で働く英恵は輝くばかりに美しかった。

会社こそ違っているがこんどは合弁会社で一緒に働けると思うと紅林の心は今までにないほど弾んだ。そして彼は桜本トメとの、あのささやかであったが幸せな時間を忘れ去っていた。

英恵は星明りの下、彼に抱きしめられていた。軽く身じろぎをすると彼は、英恵の頤にそっと指先を当て上向かせた。そして紅林は英恵の唇に自分のそれをそっと重ねていた。

二人のシルエットは離れることがなかったーー

 

それから三日ののち。

オトメチャンは『飛龍』に別れを告げるときが来た。見張長・河原田少尉は泣きそうになりながら

「ありがとうね。あなたのおかげで機動部隊は助かりましたし大いに面目を施しました。本当にありがとう。いつか、『飛龍』に勤務になってほしいです…またどこかで会いましょうね」

と言ってオトメチャンを抱きしめてくれた。航海長の桐橋少佐も名残惜しそうにオトメチャンを見つめ

「ね、『大和』に帰るのやめない?ここに残れるようにしてあげようか?」

と冗談とも本気とも取れるような言い方をして周囲の皆は泣き笑いになった。安田兵曹が「今夜は航海科のみんなでオトメチャンの送別会をします。歓迎会をできなくって申し訳なかったですが。航海長に上陸の許可をいただいておりますので、みんな!オトメチャンが今夜は主役だよ」と言って航海科の皆はわっと歓声を上げ「オトメチャン万歳、帝国海軍万歳!軍艦大和万歳、空母飛龍バンザーイ」と大声をあげ万歳三唱した。

 

夕刻。

オトメチャンは飛龍の皆と水島の繁華街を歩いていた。小柄なオトメチャンは皆の輪の真ん中になって歩いている。皆の背が高いので輪の外が見えないが次々に話しかけられ周囲の様子を見る余裕もない。しかし楽しいオトメチャンである。今まで知らなかった人たちとのうれしい出会い、オトメチャンは心の中で今度の<お手伝い>に感謝した。

「そこそこ、そこの見世に入ろう。オトメチャンはここ、知ってる?ここは私たちがトレーラーに来るとよく使う見世だよ」

安田兵曹の声に皆が「さあオトメチャン行くよ!ここはめしが美味いんだよ」と背中を押してオトメチャンは「ほうですか!ほんならうちたくさんいただこうかいねえ」と喜んで一行はぞろぞろ店の中に入って行った。

 

その直後。

紅林と英恵が見世の前を通って行ったのをオトメチャンは知る由もなかったーー

 

             ・・・・・・・・・・・・・・・

オトメチャンやっと水島に帰ってきたというのに。

紅林さん心変わりですか?あんまりですね。そして香椎英恵さんは本当に彼をオトメチャンから奪うつもりなのでしょうか。

この三角関係のお話はまたそのうち…。

松田聖子 ブルーエンジェル


逢いたいあなた 7

香椎英恵は紅林次郎の前にたつと「お久しぶりです」とあいさつしたーー

 

紅林次郎は「ああ、香椎さん!本当に久しぶりですね」とほほ笑んだ。昔、紅林の伯父と一緒にいた時逢ったことのある英恵。あの時よりずいぶんと大人の女性になった、と彼は思った。そして

「あなたのお父様はお元気ですか?伯父はまだ〈南洋新興〉に勤めてるようですが」

というと英恵ははい、とうなずいてから紅林をじっと見つめて

「あなたの伯父さまは昨年参与になられました。定年をお迎えになられましたので…、それで私の父は社長になりました。あなたの伯父様には昔からとてもよくしていただいています。私も学校を終えた後〈南洋新興〉に入りました。ひとからは『親の伝手だろう』などと陰口を言われましたが、私は自分の力で入りました。今はやっと認めていただけるようになって今回は〈小泉商店〉との合弁の推進室室長としてここに来ました…紅林さんがこちらにいらっしゃると風のうわさに伺って、お会いできるのを楽しみに参りましたの。どうぞよろしくお願いします、紅林さん」

と言って頭を下げた。

その所作に、紅林は思わず胸がときめくのを感じていた。かつて会ったときには何とも思わなかった英恵、そしてその後自分には「桜本トメ」という許婚もできている。がしかし、今夜ここで香椎英恵に会ってその『大人の女性』、しかもしとやかな女性に触れた紅林の心のうちにある変化が生じ始めているのを本人は感じ始めている。

確かに桜本トメは英恵より美しいかもしれない。美しさだけなら彼女の右に出るものは他にはいないかもしれないというほどの美しさである。

がしかし。

美しさだけでは満たされない何かが、彼にはあった。それが何なのか、よくはわからないが満たされていないのは確かだった。もしかしたらそれは、なかなか会えずにいることなのかもしれない。あるいは、トメに大人の女を感じにくいからかもしれない。

ともあれ、紅林はまた明日英恵と会う約束を取り付けその晩は小泉商店の宿舎へと帰って行った。

 

そのころオトメチャンは見張の当直を終え居住区に帰ろうとしていた。

ふと(格納庫、いうんを見てみたい)と思い立ち零戦や艦攻などの格納されている場所に行ってみた。今まで彼女が見たことがないたくさんの飛行機が並んでいて、オトメチャンは「ほう、すごいもんじゃのう」と声を上げていた。と、「誰かな、そこにいるのは」と声がして一機の九七艦攻の陰から二人の搭乗員嬢が出てきた。飛行服姿の中尉嬢。

その袖章はどちらも中尉で、オトメチャンは慌てて敬礼した。すると搭乗員嬢たちは笑いながら

「そんな堅苦しいことしなくていいよ、もう消灯時間を過ぎている。誰が見てるわけじゃないから気楽にいこうよ…あなたは手伝いに来たという下士官かな?」

と言ってオトメチャンを九七艦攻の前に手招いた。ええんでしょうか、というオトメチャンに艦攻搭乗員の二人は微笑んで

「いいに決まってるでしょ。〈艦攻のねえさん〉がいいというんだ、さ、おいでなさい」

と言ってくれてオトメチャンは喜んで二人のほうへ走り寄って行った。艦攻の搭乗員の中尉嬢はそれぞれ「中井」に「寺尾」だと名乗った、オトメチャンも自己紹介すると二人は驚いたような顔になり

「あなたが、あなたがあの『大和』で有名な見張の達人なんですね!いやあ、なんて光栄なんだろう」

と言って顔を見かわしてうれしそうに笑っている。オトメチャンは恥ずかしくてたまらない。その様子を見て二人の中尉嬢は

「いいねえ、初々しい。鼻にかけないところがこれまた素晴らしい」

と言ってオトメチャンを挟むように座るとあれこれ菓子などだして話に花を咲かせた。オトメチャンはすっかり二人のとりこになり

「艦攻のねえさま。これからもどこかでお会いしたらお話してええでしょうか」

と言って中尉嬢たちは「もちろん!その日を楽しみにしていますよ」と喜んでその晩はそれぞれに分かれて行った。

 

オトメチャンが居住区に帰ると、仲間たちが「おおー!どこ行ってた桜本兵曹―」と怒鳴るように言ってまとわりついてきた。隠し持っていた酒を少し飲んだようだ。安田兵曹がオトメチャンの肩に手を回し

「もうちょっとでトレーラーだ。なあ、水島に戻ったら私たちと最後に遊ばない?だって帰ったらあなたは『大和』に戻ってしまうでしょう、私…悲しい寂しい」

というと泣き始めた。泣き上戸のようだ。

そばにいた下士官嬢たちが笑って

「やっさんはすぐ泣くなあ。…で、どうかなあ桜本さん。『大和』に帰る前にちょっと水島で遊ぼうよ」

と誘う。オトメチャンは誘われてうれしかった、だから

「うちなんかでええんですか?うれしい、ほんなら一緒に遊びましょうや」

と答えて皆は「うおー!『大和』のぴかイチ見張嬢と遊べるぞー」と大騒ぎ。挙句にオトメチャンを担ぎ上げて部屋中を「わっしょいわっしょい」と練り歩く始末である。

担ぎ上げられながらオトメチャンは(こんなにうちを思うてくれるなんて…うちは果報者じゃな)と思うのであった。

 

それにしてもあの激しい戦いを終えた彼女たちは心がささくれていたのは確かである。オトメチャンをダシにして、というとよくない言い方ではあるが手伝いに来てくれて大きな成果を上げてくれたオトメチャンを中心に据え騒ぎたいというのも『飛龍』の航海科の皆の本音である。

安田兵曹はまだ涙を流しながら

「トレーラーに帰ったら、いい男に抱かれたい。うん、抱かれたいぞ。この服のボタンをこう、やさ~しく外してくれてさ…『お疲れさまでした、さあどうぞ』かなんか言ってくれたらもう、最高だよねえ」

と言って周囲の航海科員は大笑いをしている。航海科の一人、相原兵曹が

「いいねえ、私もそうしたい。ねえ、桜本兵曹はどんな男が好き?今までどんな男と遊んだ?」

と聞いてきてオトメチャンはちょっと慌てた。そしてほほを紅く染めながら

「うち、その、あの…。まだうちは男の人を知らんのです」

と告白した。ええーっ、うそおーっ、と悲鳴のような叫びが上がり皆は一斉にオトメチャンのもとに殺到し

「なんでなんで?どうしてどうして?」

と姦しい。オトメチャンはびっくりしながらも「うちなんだか男の人が恐ろしゅうて。ほいでもこんなうちでも許婚がおるん」というに及んで皆の叫びは一層大きくなりついにほかの居住区から「なになに、いったい何事!」と駆けつける始末。

話を詳しく聞いた皆ははあ~っと桃色のと息を吐きながら

「いいなあ~…許婚がいらっしゃるなんて。うらやましい。私もほしい許婚―」

と言ってオトメチャンをうらやましげに見つめる。安田兵曹が

「やっぱり桜本さんみたいにきれいで勇ましくて楚々とした人でないとだめなのかも…。そしたら私たちみんなだめじゃんね」

と言ってその場の皆は大笑いになったのだった。

 

さてトレーラー水島停泊中の『大和』防空指揮所ではその日も小泉兵曹たちが見張業務に励んでいる。小泉兵曹の横に、ハッシー・デ・ラ・マツコにトメキチ、そしてニャマトが立って

「トメさんまだ帰ってこない、どうしたんだろう」

と話し合っている。小泉兵曹が双眼鏡をのぞいたままで

「ほうじゃのう。もう二週間になるがなあも言うてこんなあ機動部隊。オトメチャンを借りたまま内地に帰ってしもうたんじゃろうか?」

とつぶやいてマツコたちは軽い恐慌に陥った。小泉兵曹は足元の軽い騒ぎに

「まあそんとなこともないじゃろうが…心配じゃなあ」

と言ってマツコは「そうよ、あの人はここにいるべき人なんだからさっさと返してほしいわよね」と言いトメキチは「トメさんがいない『大和』なんて」と悲しげにつぶやきニャマトさえ「ギャマド!」と言って怒っているようだ。

そして小泉兵曹はそのままの姿勢で

「ほいでな、うちにはもう一つ気がかりがあってじゃ」

と言いマツコたちは小泉兵曹に飛びついて「なになに?気がかりって何よ教えて」とせっつく。小泉兵曹は双眼鏡を二度、右に寄せてから

「それがなあ。オトメチャンの許嫁の紅林さん、あの日から全くなあも言うて来ん。どうしたんじゃろうか…忙しいんじゃろうか」

とまたつぶやいた。

マツコたちはその小さなつぶやきを聞き取りかねたが「まあトメさんなら何でも上手くやるわよ。案ずるより産むがやすし」と言って、マツコはトメキチとニャマトを背中に乗せてトップに舞い上がって行った。

小泉兵曹はまだ、

「ほいでもなあ…、あれほどオトメチャンに逢いたがっとってなけえ、もうちいと頻繁に連絡があってもええとうちは思うがの」

とぶつぶつ言っている。

 

その日の日暮れごろ、石川兵曹が「小泉兵曹小泉兵曹!」と叫んで走ってきた。おお、どうしたんねとその体を抱きとめた小泉兵曹に石川兵曹は喜びをあらわにして

「通信科から聞いてきました!機動部隊が明後日にもトレーラーに帰ってくるらしいです。どの艦も飛行隊も皆無事。じゃけえ桜本兵曹も無事ですよ!なんでも戦勝を敵に悟られんように無線封鎖をしとってなけえ今までなあもわからんかったんだそうです」

と大声で言って笑った。「本当かそれ!ああ…えかったわあ、うち心配したんじゃけえ」と小泉兵曹は言うなり石川兵曹を抱きしめて泣き始めた。そして

「これで、これでオトメチャンは紅林さんと逢える。ああ、えかった、ほんとうにえかった」

と言ってさらに泣いた。

 

しかしそんなころ肝心の彼は、香椎英恵と一緒にトレーラー水島の繁華街を歩いていたのだった――

 (次回に続きます)

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・

紅林さんどうしたんですか!!と言いたくなる展開です。香椎英恵とどうにかなっちゃうんでしょうか。そしてオトメチャン『飛龍』航海科の皆に囲まれて楽しそうです。青春の一ページと言った感じでしょうか。

 

ちょっと気になる「海軍グッズ」ご紹介です。

ギガントさん謹製「帝国海軍トートバッグ」です。艦体をイメージした紺と赤のツートンカラーの本体に、ボタン止めのついた開口部。そして中のポケットには「敵艦隊見ユ」のモールス信号がプリントされています。手提げ・肩掛け両方のひも付きです!
ギガントトートバッグ1 ギガントトートバッグ2 ギガントトートバッグ3 ギガントトートバッグ4

(画像ギガント様よりお借りしました。ギガントさまのHPはこちら)

逢いたいあなた 6

「小泉商店」の船の後ろに停泊したのは「南洋新興」の船であったーー

その船が停泊して一時間半ほどののち、紅林次郎は悄然とした姿で船着き場に戻ってきた。が、彼は船の周りにいる社員の姿を遠望した瞬間、シャンと背を伸ばし、何もなかった風を装った。これは小泉純子兵曹から言われていたことで
「どうか紅林さんには〈なあも聴かんかった〉という風にしておいてつかあさい。この件はまだだれにも言うちゃいけんことでこれがもしも、ほかの人から内地に伝わるようなことになったらえらいことになります。どうかご自身の胸に仕舞うておいてつかあさい」
と小泉兵曹は何度も頭を下げて紅林に頼んだのだった。(お嬢様との約束だ…絶対に誰にも言わんし、言えたことではない。それに気取られてもいけん)と紅林は肝に銘じた。
それにしても、と紅林は思った(そんとに苦戦を強いられておるんじゃろうか、帝国海軍は)。今まで内地の報道では連戦連勝だと聞いていたがあれは嘘だったのか。
「いやそんなことがあるはずなかろう?たまたま今回は苦戦をしているいうだけじゃろう。ほいですぐみんな戻って来んさるじゃろう」
紅林はそれだけを小さく声に出して言った。そして船のほうへと歩いてゆく。まだ船内に荷物をいくつか残している、それを取りに行こうと思った。
(なんだどこのフネじゃ)
紅林次郎が見上げた船は『南洋新興』の船で、(ああ、あちらさんもついにやって来んさったか。合弁の事業も本格化じゃな)と紅林は改めて感じた。どうしてもこの事業は成功させ、「小泉商店」のみではむつかしい南方での対海軍事業を盛り上げてゆかねばならない。
そのための、私は先鋒だ。
紅林次郎は、本当は泣きたい心を必死に隠してそう決意した。
『南洋新興』の船の前を通って、紅林が自分の会社の船の舷梯を上がってその姿が船内に消えたとき、『南洋新興』の船から数名の社員が下りてきた。その中の一人は、船の舷梯から降りトレーラーの土に足をつけるとほうっと息をついて
「やっときましたわね。ここがトレーラー諸島、水島ですか。暑いところだこと。でもご覧になって、あの海と空の色!なんて美しいんでしょう」
と言ってから「小泉商店」の船を見やって微笑みを浮かべた。一緒に降りてきた社員たちはその妖艶ささえ感じる微笑みに見入ってしまう。
その社員こそ…紅林次郎の伯父が彼の嫁にと勧める香椎英恵である――


「敵機直上、急降下あ!!」
オトメチャンが叫んだあと、敵機四機は逆落としに『飛龍』に突っ込んできた。そして爆弾を投下した。『飛龍』はもちろん他の空母も回避行動をとったが
「避けきれない!!」
オトメチャンは双眼鏡を握ったまま〈それ〉を見上げて声にならない悲鳴を上げた。爆弾はやけにゆっくり落ちてくる、それをオトメチャンはまるで夢を見ているような気分で見つめていた。今まで…こんな気持ちで爆弾が投下されるのを見ていたことがあっただろうか。しかし彼女はその時そんな心持で上空を見上げていた。そのままの気持ちで彼女は思った、
(ああ、遂にうちの運もここで尽きるんか、絶対戦死者のおらん帝国海軍の、うちらは初めての戦死者、英霊になるんか。それは名誉なことに決まっとる、護国の英霊になるんじゃけえ大変な名誉じゃ。ほいでも、ほいでもうちは…)
そこでオトメチャンの夢を見ているような気分がぱっと晴れオトメチャンはがっと双眼鏡を握った。
紅林さんに、一目でいい。死ぬんなら、逢ってから死にたい。
――「あなたに、あなたに逢いたい!!」
オトメチャンの心が絶叫したその時。
ブザーが鳴り響き、見張長他の指揮官たちが「皆、伏せー!!」と大声でどなった。何事かわからず突っ立ったままのオトメチャンの戦闘服の胸元を引っ張って安田兵曹が「伏せろ、頭抱えて伏せ」と鋭く叫んだ。言われるままにその場に頭を抱えて伏せるオトメチャン、すると間髪を入れず飛行甲板の真ん中が開き、そこから何かが上空めがけて飛び出していった。オトメチャンが首をねじって見上げるとそれは飛龍の上空でぱっと開いた。大きな、それは大きなまるで布のようなものが広がった。
その開いた何かの上に、敵機の放った爆弾が落ちるとその爆弾は勢いよく〈敵機のほうへと〉飛び上がっていきそこでさく裂した。敵機は自分の爆弾を受けて落ちてゆく…
そして、それから数分ほどして先ほど『飛龍』から放たれたものが静かに『飛龍』の上に降りてきた。
「あれは一体…」
顔を上げて言いかけたオトメチャンの頭をしっかり押さえて安田兵曹は
「もうちょっと待ってな。あれが完全に落ちるまでな」
と言い、それが完全に甲板上に降りてきたのを見計らって皆は立ち上がった。見張長の河原田少尉は
「桜本兵曹、これを見るのは初めてじゃないかな?みてごらん」
と言って艦橋の一部にかかったそれを手に取って少し引っ張って見せてくれた。それを手に取って見つめた桜本兵曹は
「これ…、松岡中尉の」
と言って見張長の顔を見た。河原田見張長はうふっと笑うと
「そう、あなたの艦『大和』の松岡中尉のラケットからヒントを得た例の防御装置だよ。呉の海軍工廠がこれを開発してくれたおかげで助かったよ。いや実戦に使うのは実は初めてなんだけど、大したもんだね!これがすべての艦艇に付けばもう怖いものなしだよ」
と言ってなんだか得意げな表情になった。オトメチャンは
(山中副長のご主人の研究の賜物じゃわ…それにうちらの分隊長のラケット。飛龍が先に、なんてちいとずるいわい)
とちょっとすねたような顔になったが
「ほいでもおかげで助かりました。…この装置はほかの空母にも?」
と尋ねた。河原田見張長はうんとうなずいて「そう、わが『飛龍』に『蒼龍』、『瑞鶴』『翔鶴』。それに今回は参加していないが『加賀』『赤城』。ほかの空母にも順次装着らしいよ」と教えてくれた。
さて先ほどの敵機は、イギリス軍が残留していた島の北端に掩体壕を掘って隠していたものであると偵察機からの報告があり、『金剛』『榛名』により二日間夜間砲撃され、島は壊滅。イギリス海軍嬢たちは日本海軍の前にはもはや敵ではなく、捕虜となってトレーラー諸島の中のとある島にまとめて移送されることになる。

戦いは『女だらけの帝国海軍』の勝利で終わった。
トレーラーに帰る機動部隊、途中参加の艦艇たちも艦体の修理などのためにトレーラー水島を目指す。尤もそれらの艦艇の艦長たちは司令部に戦況報告をせねばならないという仕事がある。
意気揚々と帰路に就く『飛龍』たち機動部隊は暗夜を発光信号を放ちながら航海する。そんな中で、ささやかな戦勝祝いが開かれている。
航海科では「御手伝い」に来た桜本兵曹がまるで主役のようになり、車座の中心に据えられ皆から酒を注がれたり菓子を手渡されたり。
安田兵曹が
「『大和』からの桜本兵曹のおかげで我々は助かりました。ありがとう。で、あなたは『気配がする』と言われましたがどんな気配を感じたんで?」
と尋ねるとその場の皆は膝を乗り出して「どんな?ねえどんな?」とせっつく。桜本兵曹は酒の継がれたコップを両手にくるむように持つと
「なんていうたらええのか…なんかこの辺にもやもやした気持ちのようないものを感じます。うちは『大和』でも敵が近くに来よるようなときはこの辺がもやもやします。そして、頭の上に押されるような感じを受けます」
と言ってそっと片手で胸の真ん中あたりを叩いた後、頭を叩いた。
「ほう!すごいもんだ。私たちの中にそんな気配を感じるものはいるかね?」
安田兵曹はそういって皆を見回したが、皆首を横に振った。桜本兵曹は、コップを見つめながらかみしめるように
「ほいでもうちもまさか、敵機が四機も逆落としに突っ込んでくるなん、予想もせんかったですけえもう最期かと覚悟しました」
と言った。皆桜本兵曹を見つめうなずく。河原田見張長が
「桜本兵曹はあの防御装置があるのを知らなかったのですね。あれは最高の兵器です。『大和』にはまだ?」
というと桜本兵曹ははいと笑って、
「『大和』にはあの装置の元祖の松岡中尉がいますけえね。あん人は敵の機銃弾をラケットで跳ね返します。ひょっとしたら爆弾でも跳ね返すかもしらんですよ」
と言って皆は「まさかー!」と言って笑った。
そこに主計長が数名の主計科嬢を伴って「戦勝祝いの汁粉です!皆さんさあどうぞ」とやってきて甘いもの好きのオトメチャンは大感激。おいしい汁粉に舌鼓を打ったのだった。その時、ふっと思い出したように河原田見張長が
「そ言えば、桜本兵曹。あなた確か装置が作動する直前『あなたに逢いたい』って叫んでいたよね?あなた、ってだーれ?よかったら教えてくれない?」
といい桜本兵曹は驚いた。口に出して言わなかったはずなのに、と思ったが彼女はウフフとほほ笑むと〈あなた〉について語りはじめ周囲の将兵嬢はさらに膝を進め、夜は更けてゆくのであった。


「オトメチャンどうしたんじゃろうか。あれから機動部隊がどうなったかなあも言うてこん。どうなっとるんじゃ。うちは心配でたまらんわい」
小泉兵曹はある晩、当直の艦橋で亀井上水相手に心配事の渦巻く心中を吐露した。亀井上水が
「もう一週間以上たってるじゃないですかねえ…。もしかしてあの作戦失敗して」
とそこまで言った時小泉兵曹は慌てて亀井の口をふさいで
「あほ!妙なこと言うたらいけんで!帝国海軍に失敗なしじゃ、それは貴様もわかっとろう?変なこと言うたらいけんぞ」
と戒めた。ふさがれた口で亀井上水はフガア、と言ってからそっと小泉兵曹の手をどかすと
「わかりました、申し訳ありません。きっと通信に障害が出るような激しい戦いだったのかもしれませんね」
と言って二人は黙った。二人は機動部隊が無線封鎖をして、戦闘があったことやその戦闘に日本側が勝利したことを知られないようにしていたことを、まだ知らない。
そしてオトメチャンを伴った機動部隊がトレーラー目指して帰ってきていることも。

「小泉商店」の船〈泉新丸〉の甲板に立っていた紅林次郎は、舷梯から誰かが上がってきたのを見た。(こんな時間に誰だろう、私ももう宿舎に戻ろうと思っているのに)
するとその人影はこちらに走ってきた。紅林の前にたつとその人は頭を下げてから
「お久しぶりです、紅林さん。わたしを覚えてらっしゃる?香椎英恵です」
と言った。月明かりを受けてほほ笑むその人の顔を見た紅林は「ああ!」というと笑みを浮かべて香椎英恵に向き直ったーー
 (次回に続きます)
 
            ・・・・・・・・・・・・・・・・
大変危険なところでしたがオトメチャンも機動部隊も助かりました。オトメチャンの心の叫びは愛する人に届いたのでしょうか。香椎英恵はついに紅林に会ってしまいました。波乱が起きなきゃいいのですが。
プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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