2017-10

ひざを伸ばして眠りたい―ー東京大空襲 - 2015.03.08 Sun

――いつまでひざを抱えていればいいのでしょう。

もういい加減くたびれました。私も、この子たちも。そろそろ足を延ばしてお布団で眠りたいのです―

 

 

昭和40年代初頭。ここはとある地下鉄地上駅工事現場。

地面を掘り進んでいた工作機械が突然止まり、操縦者が「誰か、誰か現場監督を呼んでくれ!」と叫んだ。その顔色は真っ青である。何があった!と作業員たちがその場にわっとばかりに走り寄る。

そこに彼らが見たものとは―ー。

 

           ・・・・・・・・・・・・・

 

昭和二十年が明けましたが正月から空襲警報が鳴るような状態でございました。町の中から子供たちの声がずいぶんと消えました。皆、学童疎開や縁故疎開で町から遠くへと言ってしまったからです。残ったのはまだ乳飲み子や学齢前の幼い子供たち。

男の人たちも次々応召され、あるいは志願で陸軍・海軍にゆき、若い男性の姿も見えなくなってきつつありました。

私の夫も陸軍に昨年、応召し今はどこにいるのやら…便りもほとんどありません。が、便りがないのはいい便りとわれとわが身を励まし、二人の子供を立派な日本人に育てようと私はがんばっておりました。

その年の三月、私はある人から不吉な予感のする言葉を聞きました。見知らぬその人は年の頃なら七十代。まがった腰をその時だけはしゃんと伸ばして、私たち配給の列に並ぶ女たちに話しかけたのです。

「ねえさんたち、用心したほうがいい。九日は陸軍記念日だろう?そのころ狙ってえらい空襲があるかもしれないよ、用心用心」

どこか不気味な雰囲気を漂わせたその老人の言葉を「嘘よそんなことあるわけないわ」と一蹴したものの、居合わせた皆の眉間には不安が漂っていたのを思い出します。

そして九日。とても寒い日でした。

この日、学童疎開をしていた隣の家のチカちゃんが卒業式と進学のため東京に帰ってきました。チカちゃんの学校の六年生は皆、卒業式と進学の準備のためこの日の朝、疎開先から帰宅したのです。

チカちゃんは私の上の子供を抱き上げ、下の赤ん坊の頭をやさしくなでて「おばさんただいま!」と元気に挨拶してくれました。

「チカちゃんお帰りなさい。久しぶりのおうちね、お母さんにいっぱい甘えてね」

というとうれしいような照れくさいような顔でチカちゃんは微笑みました。

きっとこの日の朝帰ってきた児童たちはどの家でもうれしく過ごしたことでしょう。

なのに、なのにあれはやってきたのです。

 

その晩。

風が強くごうごうと鳴っていました。私は子供たちが寒くないようにしっかり布団をかけてやって着のみ着のままで布団に入りました。このころになるといつ警報が鳴るかわからないので寝巻に着替えて寝ている余裕はなかったのです。

子供たちのそばで眠っていた私は重い地響きで目を覚ましました。はっとして半身を起こすとまたも地響き。

慌てて起き上がり雨戸をあけると南の空が赤く染まっています。やがて空襲警報のサイレンが鳴り始め半鐘が鳴らされました。家々から人々が飛び出してきます。

私は上の子供を「起きなさい、起きなさい!」と叫んで起こし、下の子供をおぶいひもで背負いました。その上からねんねこ半纏を着こんで寒さから守りました。そして震える手で仏壇から先祖の位牌を取り出し、懐にねじ込み、非常持ち出し用に作っておいた袋に着けた帯を腰にしっかり巻いて上の子の手を握り「離してはいけませんよ」というと家を飛び出しました。

と、その上空を凄まじい今まで見たこともない聞いたこともないような低空でB二九爆撃機が何機も飛んでいきます。

その爆撃機から何かが…。ザーッと音を立てて落ちてくるのは焼夷弾です。慌てて私は子供の手を引いて玄関に飛び込みました。

ガランガランと焼夷弾が落ちて、家の屋根にも突き刺さったものは爆発的に炎を発するのでした。

あっという間に私たちは炎に取り囲まれました。

隣のチカちゃんがお母さん、兄弟とともに大きな荷物を持って逃げていくのが見えました。

(どうしよう、いや迷っている暇はない。逃げないと!)

そう思ったとき不意に「うちの防空壕なら安心」と言っていた夫の言葉が浮かびました。夫は応召前は建築士として働いていました。

そして「どんな大きな爆弾が落ちても落ちてもこれなら大丈夫」と作ってくれたのが庭に掘った深い防空壕でした。

私は子供の手を引き防空壕の重い蓋を開けました。そこに、警防団に入っている近所のおじさんが走ってきて

「まだ逃げないのか、早くしないと焼け死ぬぞ」

と怒鳴りました。が私は「うちの防空壕なら平気です、二五〇キロ爆弾でも平気だから、私はここに居ますっ」と叫びました。おじさんがなにか言いかけた時ゴゴーッと熱気を含んだ風が吹き付けてきて、火の粉が舞いました。髪の毛が燃えそうに熱くなりました。私は子供をしっかり抱きかかえました。大勢の人が叫び声を上げつつ表を走ってゆく音が聞こえます。見上げる空は、昼間よりずっと明るく夕焼けよりも赤いのです。

また上空を爆音立ててB二九が行き過ぎます。またも、ザーッと音を立てて焼夷弾が投下され私はたまらず防空壕の中に飛び込みました。あれに当たれば確実に死にます。

おじさんは「早いところ風上へ!」というと走り去っていきました。紅蓮の炎があたりを包みました。

表は獣じみた人々の叫びであふれています。私たちの街はぐるりが炎に囲まれているようです。

 

私は子供たちと防空壕の奥へと入りました。夫が堅固に作ってくれた防空壕は小さいですがちょっとくらいの爆弾にはびくともしないように思えホッとしました。

私は背中の子供をおろし、非常袋の帯を解き懐から位牌を取り出して袋の上に置くと上の子に「けがはないわね」と確かめた後その場に座り込みました。子供たちに「辛抱するのよ。いいわね」と言い聞かせて。

 

しかし。

この後恐ろしいことが起こったのです。焼夷弾を食らって燃え盛る我が家はあろうことか私たちが入っている防空壕の上に覆いかぶさるような形で焼け落ちたのです。さらにその上、ほかからの火災が類焼してきたのです。段々熱さがまし、もう出てしまおうかと思いました。熱い、苦しい。でも外へ出れば命はない。

 

私たちは意識が次第に薄れてくるのを感じていました。手足がしびれる、息が苦しい、ああ、熱い!…

やがて私たちはもう何もわからなくなりました。

そう、私たち親子三人は死んだのでございます。

 

それ以来私たち親子三人は壕の中でひざを抱えたままでいます。あの後夫はどうしたのでしょうか。そして町の人たちは、町自体どうなってしまったのでしょう。

あれから長い長い時間が過ぎていきました――

 

 

工事現場は騒然となった。

現場監督や工事責任者、作業員が駆けつけ、工作機械が掘った穴の中を覗き込んだ。

「これは…」

そこにあったのは三体の白骨体。三体は親子なのだろうか、大きな白骨と小さめの白骨は寄り添うようにして、親と思われる大きな白骨はひざを抱えるようにしてその中に小さな白骨を抱えていた。

四〇代の現場監督は「…もしかしてこれは、東京大空襲の…」とだけ言って絶句した。今では遠くなったが忘れられない忌まわしいあの晩の記憶がよみがえった。

その場のみながだまって親子の白骨体を見つめていた。風がフーと渡り、親子の土に還りかけた衣服のかけらの上を過ぎていった。

 

その親子と思しき白骨体の身元は、意外に早く判明した。決め手は遺体のそばにあった位牌である。漆塗りの位牌は湿気に強かったのでそこから寺の過去帳を当り、判明したのだった。

親子の遺体は荼毘に付された後寺に安置された。住職は三つの骨壺に合掌した後「さあ、これでゆっくり足を伸ばして休めますね」とつぶやいた。

 

さらにそれから数日後。この話が新聞で報道されたあとで、寺を訪れた一人の初老の男性がいた。初老の男性は住職に

「地下鉄工事現場で見つかったという三体の白骨遺体は、私の家族です」

と話した。男性はシベリアに抑留されていてようやく帰国したのが昭和二四年の冬だった。自宅に帰ってみたものの町自体すっかり様子は変わってしまっていて、そもそも以前住んでいた人がほとんどいなくなっている。

探しあぐねて何年もたっていたあの日、新聞報道で妻子の骨が寺に安置されているのを知ったのだった。

男性は妻子の骨壺の前に立って合掌した。

「遅くなってごめんな。つらかっただろう、本当にすまなかった。長い間土の中で…どんな思いで…」

男性は号泣し、住職はもう一度合掌した。

 

寺の外に広がる街にはあの日のことを想起させる物は影をひそめ、青い空には当然ながらB二九の機影もない。忙しく通りを行き交う人々の中にあの日、どれだけ多くの無辜の一般市民が焼き殺されていったかを思う人が幾人いるだろうか。

 

――やっと…足を伸ばして眠れます。そしてあなたにやっと、会えました。私も子供たちも安心してゆくべきところにゆけます。私たちを見つけてくださった皆さんありがとう。

逢いに来てくださったあなた、ありがとう。遅くなりましたが、「お帰りなさい」。お疲れさまでした。

 

隣のチカちゃんはどうしたでしょうか、無事だったのでしょうかそれとも。

気になることはたくさんありますがそろそろ刻限です。私は子供たちと別の世界に参ります――

 

さようなら

 

             ・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

三月一〇日は「東京大空襲」の日です。今年であれから七十年。

東京の下町一帯を焼き尽くした大空襲を忘れてはなりません。アメリカ軍は下町には町工場が多くそれは軍需工場であるという認識のもと「焼き払う」計画を立て実行しました。一晩で十万人からの死者が出ました。多くは焼死、そして川に飛び込んでの溺死も多く凄惨を極めました。また、国民学校六年生は卒業式や進学のため疎開先から東京に帰ってこの惨禍で多くが亡くなったり被災しました。(この爆撃の総指揮官であったカーチス・ルメイ将軍は戦後日本の航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で叙勲されています。大勢の日本人を殺戮した張本人にたいしてのこの叙勲は不愉快でしかありません)

かの「リンゴの唄」で一世を風靡した並木路子さんもこの空襲で被災されご母堂をなくされていますがご本人はこの経験を語られることはほとんどなかったそうです。

 

この話の冒頭の地下鉄工事現場での遺体発見は、以前に聞いたことがありましたのでモチーフに使用しました。地下鉄東西線工事中に、家族らしい遺体が発見されそれは東京大空襲の犠牲者であったと。そしてその身元が判明したのは遺体のそばにあった位牌からだと聞きました。昭和五〇年代には墨田区の公園造成地で遺骨が発見されたという話もありました。

もしかしたら今もどこかで人知れず眠っているご遺体があるかもしれません。

都民として、日本人として忘れたくない日本の近現代史の一ページです。

 

以前放映された東京大空襲のドラマ(東京大空襲第一夜・受難、第二夜・邂逅。2008・平成二〇年放映。堀北真希主演)の一部分です。賛否あったドラマではありますがあの空襲を知るよすがとなればいいと思っておりました。

実際の画像は痛ましくて引用する気になれませんでした。


「花の命はみじかきものをなどてか君は散り急ぎたまへり」(昨年8月公開記事の再掲載です) - 2014.08.15 Fri

 

       桜(はな)は 人

         人は 桜(はな)

           桜(はな)は 散る

           桜(はな)は 散る

        人も・・・・・・・・・・

 

――私があなたと初めてお会いしたのは私がまだ女学生の18になる年でした。私はある日母親からいきなりのようにお見合いの話を聞かされて戸惑いました。お相手は海軍さん、当時私達女学生にとても人気のあったのは、やはり見た目もスマートで素敵な海軍さんでした。

でも、いきなりそのあこがれの海軍さんとお見合いですよと言われたら当惑するのもこれまた道理かもしれませんね。私はまだ恋も知らなければ世間もろくに知らない娘でしかなかったのですから。来る日も来る日も、勤労動員の工場で兵器の増産に励み、日本の勝利の日を夢に見る乙女でした。そんな世間知らずのお下げの女の子に降ってわいたお見合い話。

それなのに私はそのお相手のお写真も見せていただけず、当日まで不安ばかり募らせていました。御年は28歳だということしか私にわかりませんでした。

どんな方なのだろう、どんなお声でお話しなさるのだろう。そして何より私はその方と結婚することになるのだろうか?いろんなことを考えましたよ、あの時。

そして私は長いこと電車に揺られて母と一緒にとある場所に行きました。降りたった駅は「呉」駅でした。はじめて来た場所に私は少しおどおどしていました。町は水兵さんたちがたくさんいるにぎやかなところ。私たちは駅から少し離れた一軒の旅館に行きました。そしてそこで、あなたとお会いしたのです。

私と母は一室に通されました。たいして待つ間もなく、あなたがお父様とご一緒にお部屋にいらっしゃいましたね。私はもう恥ずかしくてずっと下を向いていました。あなたが私の正面にお座りになった時、私は初めてあなたのお顔を見ることが出来ました。考えていたよりずっとやさしいお顔でした。

紺色の海軍の制服がよくお似合いの準士官。あなたの、座卓に置いた軍帽の徽章の輝きはあれからもう何十年もたつ今でもはっきり覚えております。あなたは私を見て、はにかんだように微笑まれましたね。私の想像の中のただ勇ましいだけの軍人さんとは違って、なんだかとても人間臭さを感じ好感が持てたのです。

そして驚いたことにこの席は見合いであると同時に婚礼の席でもあったのですよね。仮祝言というのでしょうか、正式な祝言は数日後あなたの郷里で行いましたね。あなたのりりしいお姿は忘れられません。

住まいはあなたが借りていた呉の下宿でした。物資に事欠く毎日でしたが折に触れてあなたのお母様がお野菜など重いものにもかかわらず遠いところを持ってきて下さり大変うれしかった。お母様は私が年若いのに夫の留守をしっかり守っていることを「えらいね、でも寂しくないかね?何かあったらすぐに言っておいで?」とおほめ下さりまた、心配してくださいました。

あなたの乗ったおおきな艦はなかなか内地にいることもなく、私は正直寂しい思いを抱いて時に港を見つめることもありました。でもそんなとき思い出すのがあなたのあの、はにかんだような微笑み。それを思い出す時私は胸の奥がほうっと暖かくなるような優しいような、それでいて物悲しいような気持ちになるのでした。

そんな中でも日本を取り巻く戦局は日増しに悪化の一途をたどり中にはこっそり日本の敗戦を言う人もいたようです。でも私は日本の勝利を信じ、あなたのご武運を必死に祈っておりました。

その年の秋も深まったころあなたの大きな艦は内地に戻ってきました。そして私たちはここで久しぶりに最高の楽しい時を持つこととなりました。

御正月には、あなたのお父様、お母様に私の母も来て楽しく過ごしましたね。あなたも楽しくお酒を飲んで笑いました。私もとてもうれしく過ごしたあの――最期のお正月。

次にあなたがお帰りになったのは春三月、あなたのお顔からは楽しげな表情が消えていました。あなたはあなたのお父様お母様に「これが最後の上陸だ」とお知らせしていたのですね。あなたのお帰りになる二日前にお二人が下宿にいらして、私は何も知らず嬉しさにはしゃいでおりましたの。でもあなたの大きな艦は他にたくさんのお伴を連れて沖縄に出撃することがもう決まっていたのですね。二度と帰らぬ死出の旅、ああ、それがもっと早くわかっていたなら・・・。

そのころ私はちょっとした秘密を持っておりました、それをあなたのお父様、お母様に申し上げましたらお母様は急に涙ぐんで「良かった、それはあなたからおっしゃいね」と言われました。お父様はしばしまぶたを閉じていらっしゃいました。

ささやかな夕餉のすんだ時、私は意を決して切りだしました。

そう、あなたの子供が私の身体の奥にひそやかな息を立て始めたということを。

その時のあなたのお顔・・・あのはにかんだような微笑みが満ちましたね。あなたはその晩布団の中で私をそっと抱きしめて下さいました、そして「丈夫な子を産みなさい、君にはなんにもいい思いをさせてやれなくてすまなかった。――はっきり言おう。僕はね、もう帰ってこれないかもしれない。でも僕は日本を守るためそして大事な君を守るために行くんだから何の後悔も憂いもない。一つだけ心残りがあるなら、生まれる子供の顔を見ることができないということだけだ。でも僕はたとえこの身は滅びようとも魂は残って君を守る、子供を守る。だから君もしっかりしてこの先の日本と、子供の為にしっかり生きてほしいんだ。いいね、頼んだよ」とおっしゃいましたね。

外ではいつやむとも知れず雨が降る音がしていました。それともあの雨音はあなたの心に降る涙の音だったのでしょうか。

翌日の朝まだき。あなたはいよいよ、あの大きな艦に戻られる時間になりました。玄関を出て周囲を見回した後、私達に敬礼してお父様、お母様そして私の順に食い入るような瞳でお見つめになって、「行きます」とおっしゃったあとくるりと踵を返して玄関を出られました。するとその時お母様がそっと、私の背中を押して下さいました。私はあわててあなたのあとを追いました。私の足音にあなたは立ち止りふりかえると、あのはにかんだ微笑みを浮かべ

「ご覧」

と道端の桜の樹を指差しましたね。気の早い桜がいくつか、ほころんでいます。あなたは桜を見上げると、私にこうおっしゃいました。

「桜は軍人そのものだね。美しく咲いて、その美しさが消えぬうちに潔く散る。花は散るからこそ美しいんだ。まさに今の僕たち海軍軍人そのものだよ。僕も散る時は綺麗に散るつもりだ。・・・では」

そういうとあなたは私に決然と敬礼をすると足早に歩いて行ってしまいました。

 

私はあなたの後ろ姿を、涙でかすむ眼でずっと追っていました。次から次へと新たな涙があふれ、止まりませんでした。すべてが、私の周りのすべてのものが色あせてゆきました。ほんのりと春の色に色ついた桜でさえその色を失くしたように見えました。

いつしか私の後ろにお母様がいて、私の肩をしっかり抱いてささえていてくださったのに気がついたのは、それからずいぶんしてからのことでした。

それから数日ののちのある晩、私は下宿の部屋で一人、繕いものをしていました。なんだかとても眠くてついうとうとしてしまいました。どのくらい時間が経ったか、下の玄関のベルが鳴り私の名前を呼ぶ声がしました。あなたの声です。

私は「ああご無事でお帰りになったんだ」とうれしくてたまらず玄関へ降りてゆきました。玄関にあなたが立ってらっしゃいました。玄関の電燈が何だか薄暗くてあなたのお顔がはっきりしません。でも、すがりつこうとした時あなたの御身体から血と硝煙のようなにおいがしてはっと思った時あなたの姿は消えていました。そして気がつけば私は部屋の座布団の上で眼が覚めたのでした。

胸騒ぎの一夜が明け翌朝、下宿のおばさんがそっと見せてくれた新聞に・・・あなたの乗った大きな艦やそのほかのおふねが沈んだことが書いてありました。はっきりそうは書いてなかったですが私には確信がいきました。昨晩あなたは私にお別れを言いにいらしたんですね。涙があふれてきました。

 

桜は 人。

人は 桜。

美しいうちに潔く散るのが桜のさだめ。

人も同じ、散るべき時に潔く散るのがさだめ。

 

桜(はな)は散るからこそ美しい。私もそう思います。

でも、なぜ桜は散り急ぐのでしょう?桜が散らない世界があってはいけないのでしょうか。桜が散らない世界があれば、そしたらあなたはたくさんのお仲間たちと深い海に沈むことなく、またあのはにかんだ微笑みで帰ってきてくれたのに。

そして・・・あなたは本当に、本当に花と散ることを望んでらしたのでしょうか?

 

あなたの大きな艦が沈んだという話があって間もなく、あなたの郷里からお父様が私を迎えに来て下さいました。お父様はここ呉も危ない、とおっしゃいましたがそのあとまさにその通りになり、懐かしい呉の街もその多くが戦火に燃えてしまいました。

私はあなたの郷里のあなたの御実家でお父様お母様と一緒に暮らし始めました。あなたがいつかお帰りになるのではないかと皆で思いつつ。

それでもあなたからのお便りも何もないまま、熱い八月のあの夏広島に新型爆弾が投下され、何の罪もない幾十万の市民が殺されました。次いで9日の長崎にも新型爆弾投下でこれも幾万の人たちが広島と同じく焼き殺されました。大陸方面ではソ連が中立条約を破って満州に進撃、大きな犠牲が出ました。

そして八月一五日。

天皇陛下の玉音放送によって日本は連合国軍に降伏したということを知らされました。私は臨月間近いおなかを抱えて泣きました。お父様もお母様も泣く。向けどころのない怒りとか、悲しみが一気に噴き出してどうにも仕方がなかったのです。

いよいよ私のお産が近くなってきたある日、まるで夢のようにあなたからの手紙が届きました。あなたが出撃の前に急いで書かれた手紙のようです。それにはご両親への今までの感謝の言葉、そして先立つ不孝への謝罪の言葉がありました。そして私には

>君と一緒になれたのは小生の人生において最上・最良・最高のことであった。何もしてやれなかったわが身をわびる。本当にすまなかった。生まれいずる子供を見ることが出来ないのは少しさみしいが、小生の魂は必ずや君のもとに返って子供の顔を見る。そして君たちを守ろう。そして何より気がかりなのは君の今後だか、それは君の思うようにしなさい。もし再婚の道があればするもよし。自分自身が一番幸せになれると思う道を往きなさい。それが小生の一番の願いでもある。

ただ・・・君がこの後誰と再婚しようとも・・・君は僕の妻である。

では元気で暮らせよ。小生の死をいつまでも悲しまぬように。小生はいつも君のそばにある!

 

と書かれた手紙がありました。あなたの心に触れた気がして嬉しくもありまた、悲しくもあり・・。

それから間もなく私は女の子を産みました。父親の顔を知らぬ娘が不憫ではありましたが、それに負けない愛情をお父様お母様が娘に注いでくださいました。あなたの戦死の公報が来たのはその年の暮れでした。

娘が4つになったある日、アルバムを見ていた娘が「この人だあれ?」とあなたの準士官姿の写真を見て言いました。お母様はハッと胸をつかれたような表情をなさって私を見ました、私はお母さまにそっとうなずくと

「あなたのお父様ですよ」

と言ってアルバムから写真をはずして娘に手渡しました。娘はしばらく写真に見入っていましたが突然にっこりと笑うと写真を裏返し、そこに鉛筆で「おとうさん」と、覚えたての幼い文字でそっと書きつけました。

その写真は、あの子のあの時の幼い文字もそのままで私の部屋にあります。

 

あの日からもうずいぶん長い年月が経ってしまいました。

私は再婚はせず、あなたのお家でお父様お母様と暮らしました。

優しかったお父様、お母様もとうに鬼籍に入られ、私も年を取ったこの頃では寂しさをひとしお感じます。娘はおかげさまで21で良縁をえてこの近くに嫁ぎました。三人の子供に恵まれた娘も、もう孫が四人もいます。私はひいばあちゃんになりました。

あなたも、ひいおじいちゃんになりましたよ。

あなたが4月のつめたい海に消えた日には、娘一家が私を必ず誘って長迫の海軍墓地に連れて行ってくれます。そして「戦艦大和戦死者之碑」にお参りします。そして戦没者名簿の碑に刻まれたあなたのお名前をそっと撫でていると、あなたがあの日のまま微笑んで立っていらっしゃるような気がしてなりません。しばらくそこにたたずむ私を、娘も娘の夫も孫たちもひ孫も・・・優しく見守ってくれています。

その優しい瞳たちはまるであの時のあなたのそれのようです。

あなた。

あなたは約束の通りこうして娘たちの瞳を通して私を見つめて下さってらっしゃるのですね。本当にありがとう、あなた。

 

どんなに月日が流れてもあなたと暮らした日々は一生忘れません。

あなたと私の間には今は渡れない河があるけれど、そしてあの日聞いた雨音は今も時折聞こえるけれど、私は生ある限りあなたとあなたのお仲間の皆さまが懸命に生きそして散って行ったその気高い心を孫やひ孫たちに伝えていきたいと思っております。あなたやあなたの死の意味、意義を未来永劫続いてゆく日本人の心に問いかけるためにも。

桜(はな)が無駄に散らない世界が来るように、祈って。

 そしていつの日にか私が二人を隔てる川を渡ってあなたのもとに行ったら、あの日のように抱きしめてくださいませね。
はにかんだような笑顔で・・・。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

夫を戦争で亡くした妻の気持ちになって書いてみました。今回「全国戦没者追悼式」に出席なさる戦没者の妻は、ついに十人台になったと聞いております。鬼籍に入られた妻たちは、今、夫のそばで何を語っておられるのでしょう。

(この記事は昨年・平成25年の8月15日に公開したものの再掲載です。だんだんと戦没者のご遺族が減ってゆく今日、どうやってご遺族の悲しみも継承していったらいいのか?こういう形でもいいのだろうかと自らに問いながら再掲載いたしました)




リンホラ「花の散る世界」
(再生できない場合はこちらをhttp://www.youtube.com/watch?v=5dBdQ4vpGg8)

「青の中から」あとがき - 2013.11.19 Tue

今は亡き人々――特に戦没した人たちを思う時、今現在の時の流れがとても不思議に感じてしまう時が、ままある。

彼らは、確かに存在したのだ。この日本の国に。

たった、六十数年前まで確かに存在したのだ。

そして彼らは日本の国と日本人の為にその心のうちの多くを黙して語らずに逝った。その心の内を知るよすがはわずかに残された「遺書」でしかない。その遺書ですら、現在の人間に読ませれば「本当の心を語っていない」となる。それにも一理あるかもしれないが、乱れた心内を吐露するようなあけすけなことをあの当時の日本人、特に軍人と呼ばれた人たちは好まなかったのだと思う。

故に彼らの遺書にはサッパリとした潔い心情がつづられている。

そのような中でもひときわ異彩を放つのが、今回「青の中から<問>」のモデルにした<回天金剛隊>で昭和二十年一月一二日にウルシーにて戦死した都所静世少佐(没後階級)の遺書である。

彼は敬愛する兄嫁さんに宛てて書いた手紙の中でその偽らざる心情――幼い姪っ子たちのためなら死ねるが自分のことしか考えない三〇過ぎの男女なんか糞食らえ、などといった当時の世相に対する憤りをそのまま兄嫁への手紙にぶつけている。

しかし、彼はそれらのことにこだわるなど小さなことでどうでもいいんだ、といい切り話しは潜水艦内での過ごし方に移る。青年らしい熱し方で、興奮して筆が走っているようであるがその実冷静にわが身を見つめているようだ。

そして、その冷静になった筆で兄嫁への優しい心遣いを見せる。

そのあまりに無垢で清純な魂に私はうたれるのである。

青年たちは清純で清浄なままで散華して行ったのだ・・・その必死の心を思う時、何とかして彼らの思いを残したいと思うにいたった。そして降りて来たのがこの「ものがたり」である。

この「ものがたり」は都所少佐をモチーフにしたかったため最初を『問』として南海に散華した回天特攻隊員・シーチャンのつぶやきを描いた。彼の魂は青い海を漂いながら、愛しい兄嫁や日本という国がその後どうなったのかを『問う』という形で。

これはほとんど一日、三時間ほどで書きあげた。その最後の方ではなぜだか妙に気分が悪くなるというハプニングもあったがなんとか書きあげた。そして一段落した後で兄嫁から彼の思いに応えるという『応』を書いた。実際のところ都所少佐と兄嫁がどのようなきょうだいであったかを示す資料はないので全くの創作である。

もしかしたら、こんなことがあったら?という思いで書いたものである。こんなふうであってほしい、という期待のようなものも込めてある。

 

そろそろ戦後も七〇年を迎えようとしている。日本は高度成長を成し遂げ、戦後復興を見事なまでになしえた。が、その半面人心は荒廃したように見えるのはなぜだろうか。物質的豊かさに馴らされて感性がすたれてしまったのではないか。

都所少佐始め多くの英霊たちはこの日本の状況をどう見つめて居られるのだろうか、気になって仕方がない。

彼らがその身をなげうって守った大和島根、日本という国を未来永劫、人も国土も美しく継承してゆかねば彼らに申し訳のないことである。

そして彼らを慰霊顕彰する心を繋いで行くことも忘れてはなるまい。

彼らは常に我々とともにある。

姿かたちが見えないだけで、彼らの国を想い国民を思う心や魂は我々の隣にある・・・そう、思いたい。

              ・・・・・・・・・

「青の中から」のあとがきとして私の思いを書きつけておきました。

なお、「青の中から<応>」の文末の歌は、見張り員の拙作であります。

青の中から2<応> - 2013.11.15 Fri

・・・いずことも知れぬ 深い海の中

    眠れるおとうと

   いつ帰る 我がこの腕に・・・

 

私の手元に古いアルバムがあります。私がここの家に嫁に来た時からですからもう何年・・・いえ何十年の時を一緒に過ごしたことになりましょうか。

このアルバムを開くと私と夫の結婚式の写真があります。そして次のページには、懐かしいあの子の・・・。

 

私が十八でこの家にお嫁に来たその日、式が始まるまでの時間私と私の親や兄弟、親戚の十名ほどは十畳を一室を借りてお茶をいただいて待って居りました。わたしはきれいに縫った口紅が落ちてしまわないかとお茶をいただくのをためらっていました。

と、部屋のふすまがそっと、小さく開きました。その向こうに可愛い男の子がいて中を覗いています。フッと私と目が合った瞬間、その子は「お人形がいる!」と言うとあわててその場を走り去って行きました。これが――終生忘れられないシーチャンとの初めての出会いでした。

あの時シーチャンはわずか九つ。

そしてその日からシーチャンと私は大の仲良しになったのでした。

シーチャンはまだ物心も付かないうちにお母様を病で亡くされ二人の兄とは年も離れ、さみしい思いをしていたようです。家に女性と言えば、親戚のおばさまがたまに手伝いにいらっしゃるくらいだったそうで、私が嫁入りしたことで「家の中が明るくなったよ」と夫にも夫のすぐ下の弟にも喜ばれたのが昨日のようです。

一番喜んでくれたのがシーチャン、あなたでしたね。あなたは私を「お姉ちゃんおねえちゃん」と呼んで私の手伝いをよくしてくれましたね。私に最初の子供が生まれる時も

「お姉ちゃん、赤ちゃんが生まれたら俺が遊んであげる」

と言って、娘が生まれるととてもよく面倒を見てくれましたね。年子で生まれた次女にも面倒をよく見てくれましたね。

娘たちが少し大きくなるとシーチャンは学校の勉強の合間に一緒に散歩に行ってくれたり、ごはんの用意を手伝ってくれましたね。「お姉ちゃん、これどこに置こうか」「お姉ちゃんこれでいいの?」あの声が今も私の耳に残っています。

 

日本を取り巻く世界の状況が厳しくなり、大きくなったシーチャンは海軍の学校を受験しましたね。その頃にはもう、シーチャンは少年から「青年」になりつつありましたね。そして受験に合格したシーチャンは「姉さん、今までありがとうございました。わたしはこれから海軍軍人の道を歩みます」とうれしそうに報告してくれましたね。

そして学校のお休みで帰って来た時には娘たちと幼いころのように夢中で遊んでいましたね。そして夫に学校生活の愉快な話をしては笑わせていましたね。台所に来ては「姉さん手伝いましょう」と言ってお皿をあらってくれたり、娘たちと一緒にぬか床をかきまわしてくれました。

 

しかし、戦争はその間にのっぴきならないところまで来ていました。

南方で、大陸で、多くの将兵のみなさんたちが戦死されこの町から出征して行ったたくさんの兵隊さんも白木の箱で帰ってくる日が多くなりました。わたしは、大事なおとうとのシーチャンが無事でありますようにと鎮守様に参っては、娘たちと手を合わせていました。

シーチャンは学校を出てすっかり立派な士官さんになっていました。紺の軍服姿もりりしいその姿に、私も夫も感無量でした。

あの年の夏、休暇で帰って来たシーチャンは、昔と同じ笑顔で私たちに接してくれましたがその笑顔の底に今までとは違う何かを私は感じました。シーチャンは、縁側に私と座って庭で遊ぶ娘たちを見ていましたが、不意に

「姉さん。わたしはみいちゃんやれいちゃんを守るためならこの命なんか惜しくはないんだ、喜んで死ぬよ。でもね、自分のことしか考えないいい年した大人の為に死ぬのは正直腹が立つよ。情けないよね、こんなことでこの戦争に勝てるわけないじゃないか。

姉さん、この戦争はね若い者がもっともっとドンドン死んで日本中が軍神で埋まらなきゃ終わらないと思う。だからねえさん、私が死んでも決して悲しまないで兄さんと笑ってよくやったって言って欲しいんです」

と語り、その瞳には揺るがぬ決意がみなぎっていましたね。

 

それから秋が過ぎ、冬が来たころ。

シーチャンは二度と帰らぬ出撃行に出たのですね。わたしたちはシーチャンが何処で何をしているのかまったくわかりませんでしたがシーチャンは手紙をくれました。その手紙には

「蒸し風呂に中にいるようでなにをするのもおっくうなんですが優しい姉上様のお姿をしのびつつペンを取ります」

と書きだされていて、ああ多分シーチャンは南の方へ行ったんだなあということがわかりました。胸が締め付けられるように感じました。

その長い手紙には、今までの感謝の言葉と娘たちへのいたわりが書かれていました。そして幼いころから今までの思い出。私がお嫁に来た日のことも書かれていて私は懐かしさと悲しさに涙しながら文字を追いました。

「姉さんの花嫁姿、今でもしっかり目の奥に焼きついて居ります。初めてねえさんをふすまの間から見た時、なんてきれいな人なんだ、まるでお人形のようだと思って思わず言葉に出してしまったことも覚えて居ります」

ああ、あの日のこと・・・私の脳裏にもう何年も前の嫁入りの日が浮かびます。あの日のシーチャンの驚いたような、まん丸に見開いたかわいい目。

もう一度、時間をあの時に戻すことが出来るなら――。

 

昭和二十年が始まり、シーチャンからはそれ以降手紙も来なくなりました。夫もシーチャンを思っているのか、時折遠い目をしては空を見つめそれから勤めに出て行きます。娘たちも陰膳を据えた仏壇にその手を合わせてから学校に行きます。

シーチャン、一体どこにいるの?そして元気でいるの?

私は南の空を見つめてはシーチャンに問いかける毎日でした。

 

一月も終わりに近づいたある晩、眠りについていた私は「姉さん!」というシーチャンの声に飛び起きました。シーチャンが帰って来たんだ、とあわてて綿入れを肩にひっかけると玄関に行きました。

「シーチャン!」と叫んで玄関の戸をあけました。が、シーチャンの姿は何処にもなく月明かりが玄関の敷石を冷たく照らしているだけでした。しばらく呆然と立っていると夫が「どうした?」とやってきました。わたしは今あったことを言うと夫は黙って戸を閉め、鍵をかけると私の背中をそっと押して部屋へと戻ったのでした。

 

翌朝のラジオを聞いていた私達は信じられないニュースを聞いてその場に立ち尽くしました。

シーチャンは、神潮特別攻撃隊員として南方の海に散華したというのです。シーチャンのほか数名の方のお名前もありました。でももう、私には聞きとれなかった・・・

 

シーチャン。シーチャンは護国の神となられたのですね。

そして昨夜私にお別れを言いに来てくれたのですね。

シーチャン、シーチャン・・・私の可愛いおとうと。

あなたは立派に軍人としての務めを果たされましたね。

 

でも、湧いてくる悲しみと涙を止めることはどうしてもできません。

 

シーチャンの戦死の公報が入ったのは、その年の夏日本が連合国に降伏した後でした。それと前後してシーチャンの私宛の最後の手紙が届きました。短いその手紙の終わりは

「姉さん、私は最後の時姉さんと叫んで死にます」

と結んでありました。その言葉通り、シーチャンは「姉さん」と叫んでそして死んでいったのですね。シーチャンの思いを私はしっかり受け止めたのです。

 

 

戦争が終わって何年もしてから、シーチャンと一緒に出撃して兵器の故障で生還したお仲間お二人が訪ねて来てくれました。シーチャンが乗って行ったのは「回天」という魚雷を改造した兵器であることを私は初めて知りました。そしてシーチャンのいた隊の出撃前に撮った写真をいただきました。シーチャンは昔の面影がそのまんま残った顔で笑っています。手には錦の袋に入った短刀を持って、数名の方たちと笑っています。

これが死に行く人の顔なのかというくらいすがすがしい笑顔です。お仲間のお話によれば、シーチャンは隊長さんのあとに続いてゆき、大きな戦果をあげたということでした。

「シーチャン・・・」

と私は写真のシーチャンの顔を指先でそっと撫でていました。涙が次から次へと流れて止まりません。それを見て夫も泣く、お仲間がたも泣く。

シーチャン、大きな手がらを立てておめでとう。我が家の誇りです・・・

そうは言ってみたものの、どうして死んでしまったの?どうして生きて「姉さん」と言ってくれなかったの?という思いが残ります。

どんなに大きな声で「シーチャン」と叫んでももうこの声は遠いところに去っていったあなたには聞こえないのですね。

・・・シーチャン・・・

 

あれからもう何十年もたちました。アルバムの中の写真はすっかりセピア色になりましたが写真の中のシーチャンは昔のまんまの笑顔で今も笑っています。

そして今も「姉さん」と呼びかけてくれているようです。

シーチャン、私ももうすぐあなたのそばに行きますよ。あなたの兄さんたちとは会えましたか?

私は最近、死ぬのが怖くなくなりました。

なぜって・・・そう、そちらの世界に一足早く行った夫やそして――シーチャン、あなたに逢えるからです。

 

古いこのアルバムを胸に抱えると今も聞こえます、シーチャンが遠くの青い海の中から私を呼ぶ声が――

 

若人の 清し(すがし)思ひを 人よ知れ

皇国(すめらみくに)の つづくはてまで



青の中から1<問> - 2013.11.13 Wed

・・・・周りは一面 深い青

    時にはまぶしい青になり

    わたしのそばを青は過ぎ去り

    私のそばを青はまた来る・・・

 

ここはどこなのでしょう。

私はいつからか気がつけばこの青い色の中を漂っています。わたしにはいつしか、身体というものがなくなってしまったようです。ですから周りの青の正体がなんなのか、触れることはできません。それでも私は過去を思い出すことはできるようです。

ですから、今日はあなたに聞いていただきたいのです。わたしが――ここを漂っているそのわけを。

 

 

私がそれに乗ることを志願したのは、誰に強制されたからでもないのです。ただ、一途に思いつめていました。わたしたちがそれを志願せねば、この国が滅ぶ。そして何より大事な家族や友人、近所の人たちまで滅されてしまうかもしれない。そんな居ても立っても居られない危機感がそうさせたのです。

その話を聞いた時、私は一も二もなくすぐに志願しました。これ程に私達憂国の情に燃える青年の心を打った兵器はありませんでした。その名は――

「回天」。

九三式三型酸素魚雷を転用し、人間がそれに乗りこめるようにした<特攻兵器>、海の中を行く眼のある魚雷です。

また、「回天」の意味は天をめぐらし劣勢を挽回するということで、あの時の日本の状況にしっかり当てはまるものだと私は思いました。無論、これに搭乗して出撃して行ったなら当然生還など出来るものではありません。でも生還など私たちは初めから問題にしてはいませんでした。自分の命をなげうつことで大事な、何よりも大事なものたちが守られるなら何をためらうことがあるでしょうか?

厳しい難しい回天の操縦訓練を重ね、士官も下士官たちもいよいよ出撃の順番(とき)が迫ってきました。わたしは私より先に、年若い予科練出身の下士官が出てゆく時、さすがに涙腺の緩む思いをしました。今まで一緒に訓練に励んだ仲間です、彼らが行ってしまうのが寂しかった。置いてきぼりにされたような気がしました。そして私たちは彼らの成功を心から祈りました。彼らは笑って、伊号潜水艦の上に固定された「回天」の上に乗って手を大きく振って、そして水平線の向こうへと消えてゆきました。彼らは、遠いグアムの海にその若い身を散華させました。

 

そして。

とうとう待ちに待った私の隊の出撃の日が来ました。我々回天搭乗員を乗せた伊号○○潜は南方目指して走り出しました。どのくらいたったのか、いよいよ敵のいる海域に入るその前夜、私はいろいろなことを考えてなかなか寝付けませんでした。

――眼を閉じれば生まれ育った故郷の町が脳裏に浮かびます。小柄なお婆さんが駄菓子を売るあの店や夏にはアユを釣ったあの川。懐かしい我が家、そして家族。わたしは母を幼いころに病で失っていましたのですが、わたしをここまでにしてくれたのは父親と年の離れた長兄、次兄。そして誰より長兄の妻である私の義理の姉さま。姉さまはこんな腕白で言うことを聞かない私を実の子供のように慈しんでくださいました。時には厳しくそして優しく、実の母も及ばぬ様な慈愛に満ちたまなざしで私を見守って下さいました。その恩返しと言ってはおこがましいですが、長兄と姉さまの娘――私の可愛い姪っ子たち――には私の精いっぱいの愛情を注ぎました。姪っ子たちも私になついてくれ、楽しい思いをたくさんいたしました。浴衣を着て行った夏祭り、秋にはススキをたくさん取ってお月見をしましたね。

私はこの可愛い姪っ子たちを守るために死んでゆくのだと言っても過言ではないのです。可愛い姪っ子たちと優しい姉さまを守るためなら喜んで死んでゆけます。

 

どのくらい眠ったでしょうか、潜水艦内に緊張が走りました。この先に敵の輸送船団らしきものがいるというのです。いよいよ、私たちの出番です。

艦長が「回天戦用意!」を叫び、私達回天搭乗員は鉢巻きをグッと締め、艦長はじめお世話になった皆さまにお礼を申し上げました。私の回天を整備してくれた整備兵曹の瞳が涙でキラキラ光ります。その兵曹に私は敬礼をし、心から感謝の意を示しました。兵曹もしっかり敬礼を返してくれましたが次の瞬間下を向いてしまいました。

私達回天搭乗員五名は、交通筒を伝って回天の中に入りました。ここから先潜水艦との連絡は電話だけで行います。わたしの艇は「二番艇」。一番艇は隊長、三番艇以下は予科練出身の兵曹です。

私の艇に艦長から連絡が入り、私は一番艇に続いて出ることになりました。

緊張で汗が手のひら全体ににじみます。失敗はできません。

艦長から敵船団の位置をお聞きし、射角表で敵船団と私の回天との角度や速度を計算します。

そして――一番艇の隊長の回天が、固縛バンドを外してスクリューの音を立てつつ走ってゆきました。

「隊長!」

部下思いの優しかった隊長、兵学校出身で物静かなひとでした。誰からも好かれた優しい隊長が、今回天を駆って敵に突入してゆきました。

やがて大きな爆発音がして潜水艦自体が少し揺れました。しかし、船団の本隊はまだ健在のようです。

「二番艇!」

艦長の声が電話から響き私は反射的に「行きます!今まで本当にありがとうございました、伊号○○潜のご武運を祈ります」と叫びました。私は回天のエンジンを始動させ、やがて固縛バンドの外れるガタンという音が響き、私の回天は走りだしました。熱走です。
所定の措置を済ませ私は艇の震度を0にし特眼鏡をいっぱいにあげました。特眼鏡の中に見える最後のこの世の風景。

私は、特眼鏡を下げると射角表で計測した通りに艇を走らせました。速度は30ノット。秒時計の針の動きを確認しながら。

不思議に心は落ち着いています・・・脳裏に姉さまの優しい微笑みが浮かびました。懐かしい我が家の庭、姉さまは私を見て微笑んで「シーチャン、早くお帰りなさい」と走り寄ってきてくださったようです。懐かしい私の子供のころのあだ名で。

 

姉さま、私の命はあと数秒です。今まで本当にありがとうございました、私は今、姉さまの末長いお幸せを祈りつつこの南の海に散ってゆきます。

 

敵船のスクリュー音が至近に響きました。

私は「姉さん!」と叫ぶと、自爆装置に手をかけ突入姿勢を取りました――

 

一瞬の衝撃のあと、私はもう何も分からなくなりました。

そしてどのくらいたったころかわかりませんが、私は青の中を正体なく漂っていたのでした。わたしは、死んだのですね。それが証拠に私はいくら自分の体に触れようと思っても決して触れることが出来ないのですから。

そしてやっとわかったのは私が漂うこの青い色は海の青い色なのだと。わたしは死んで肉体はなくなりましたが魂はこうして青い海の中を漂っているのです。

深く暗い青は、夜の海の色。

まぶしくきらめく青い色は昼間の海の色。

 

あの時から一体何年、どのくらいの時間が過ぎたのでしょうか。

私たちがたたかった戦争はいったいどうなったのでしょうか。そしてほかの回天の搭乗員仲間たちはどうしたのでしょうか。

そして何より気になるのは大事な日本の国のそのあとのこと。

私たちが望んだように日本の国はあのままの優しく穏やかな国で今もいるのでしょうか。男性は雄々しく寛大で、乙女はあでやかで楚々とした、そして母親たちは厳しくも優しいまなざしで子供たちを見つめているでしょうか。子供たちは無邪気で遊んでいるでしょうか。山や川は今も美しく人々の目に映っているでしょうか。

 

私の大切なねえさまはお元気でしょうか。

今でも・・・あれからどれほどの歳月がたったかも今の私にはわかりませんが・・・私の帰りを待っていてくださっているのでしょうか。

ねえさま。

どうか私の死を悲しまないでください。わたしは国の為喜んで死に就いて行ったのですから決して悲しまないでくださいね。

私は姉さまと出会えて幸せでした。ねえさまは私の誇りです。

私はいつか、故郷の空に帰ります。その日まで――待っていてくださいね。

 

 

・・・・これが私が青の中を漂っている訳なのです。

もう、私のことを覚えている人ももしかしたらいないかもしれませんね。何せ気の遠くなるような時間が流れて行ったようですので。

それでも私は感じることが出来ました――ねえさまが私の為に流して下さった涙の熱さを。わたしはねえさまの涙の粒を繋いで故郷へ帰ります。

懐かしい、あの家へ――




     
    

 

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Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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