いとし子よ 横須賀編 2 解決編

継代が桃恵の兄夫婦の家に行って三日目――

 

その日の朝、智一大尉は「私は今日ちょっと帰りが遅くなります。もし何かあったらすぐに連絡をしてくださいね」と言った。例の<松岡式防御装置>の横須賀海軍工廠側の本格実験が間近であるので忙しいというのを桃恵もわかっていた。だから

「はい。解りました…もしかしたら泊まられるかもしれませんね。私は平気です、まだ何の気配もありませんもの。予定の日までまだ十日もありますし」

と安心させるようにほほ笑んだ。その桃恵に大尉は

「すまないね、大事な時が近いというのにいてあげられなくて。私は本当に心配だ…お兄さんのとこにも連絡をしておくが決して無理をしてはいけないよ?明日私が帰るまで外に出てはいけない、いいね?」

と言って抱きしめた。夫の背中に両手を回し抱きしめて桃恵は

「ありがとうあなた。…はい、遠出は致しません。でも今日はちょっと郵便局に用事がありますの、それだけ済ませたら家に居りますからね」

と言った。それならいいけど、でも気を付けてと智一はまだ心配そうな顔でいる。平気ですよ、大丈夫と桃恵は言って夫の背中に回した手に力を入れた。

智一は「わかった…では行ってきます」とほほ笑み、そっと桃恵の唇に自分のそれを重ね、そして玄関へと歩き、きちんとそろえてある靴を履いた。そして敬礼。頭を下げ「行ってらっしゃいませ」と桃恵の礼をうけて満足そうな顔で彼は出勤していった。

さてと、と桃恵は独り言ちると食卓を片付け洗濯を始めたーー

 

工廠に向かう三浦大尉はその途中で『武蔵』の北野中尉に出会った。北野たけ中尉は几帳面な挨拶をして「また先日はお邪魔してしまって申し訳もございませんです。その後奥様はいかがですか?」

と問うた。かつての部下ではあるが今は海軍技術大尉の妻であるから<奥様>と言ったが何かしっくりこない。それを察した大尉は微笑みながら

<桃恵>と呼んでやってください。おかげさまで桃恵も変わりなくおります。またどうぞいらしてやってください。桃恵も喜びましょう。私は今夜、もしかしたら職場に泊まり込みになるかもしれません。桃恵のことが心配ですが、何事もなく過ごしてくれるとは思っています」

と言った。北野中尉はその切れ長の目を瞠って

「桃恵は今夜一人なんですか…。そういえば継代ちゃんはおにいさまの家にあずかってもらってると伺いました。すっかり彼女は一人になるわけですか。うーん…」

とうなった。なにか胸の奥がもやもやしていやな予感がする。北野中尉は顔を上げて

「では今夜、私がおうちに伺います。なに、今日軍需部に行けばほかにはすることも無し、平気ですよ。夜におうかがいして様子を見てまいります」

と言った。三浦大尉は「それでは申し訳ないです」と言ったが北野中尉は

「なんの。これこそ分隊長の特権です。それに我々は少し、医療をかじっていますから何かあったとしても対応できます」

と自信を持って行ったので大尉は嬉しそうにほほ笑み「それではよろしくお願いします」と言い、二人は「ではごきげんよう」と別れた。北野中尉は急いで軍需部に走った。

(何か嫌な予感がする、今夜はあと二人ほど連れて桃恵のところに行こう)

そう思いながら。

 

桃恵は、昼前までに郵便局へ行き用事を済ませ家に戻った。継代の不在の家はなんだか寂しいし手持無沙汰で、なにをしたものか桃恵は迷った。では、と庭の片隅に作った小さな畑を見に行き、菜っ葉を少し摘んだ。今夜は智一も不在、となるとそれほど夕飯もいらない。ふう、と息を吐いた桃恵はお腹の張りを感じた。

(あらいけない。ちょっと張りきり過ぎたかしら)

と思った彼女は菜っ葉を台所の流しに置くと居間に入り、その身をそっと横たえた。そしてそっとお腹を撫でながら(お願い、今夜はお父様がいらっしゃらないの…明日まで待って?)とお腹の子に話しかけるのであった。

 

『武蔵』に取って返した北野中尉は村上軍医長に事の顛末を話した。村上軍医長は「春山…ではなかった三浦さんがたった一人で家に?それはいけないね、では北野中尉、秋川兵曹長と剣持兵曹を連れて今夜彼女の家に行きなさい」と言ってくれた。そこで北野中尉は剣持兵曹を呼び出すと早速上陸のため準備を始めた。

 

その日も暮れたころ、桃恵はお腹の張りが規則的になって居るのを感じた。(どうしよう、規則的になってきている)

ということはお産がごく近いということであると彼女は思い、かねてから用意の入院のための荷物を隣の部屋から出しておいた。そして(そうだ、隣の宮内さんに言っておこう)とそっと家を出て右隣の宮内の家の戸を叩いた。が、応答がない。桃恵は思い出した、(そうだった、昨日からご実家に行ってらっしゃるんだった)左隣は最近越してしまって空き家である。

(ならその先の…)と歩を運ぼうとしたとき、ぬるりとしたものが股の間から出てきたような感じがして、いけない!と慌てて、しかしゆっくりと家に戻った。

「しるし」が下りてきていた。

居間に座り込んで、(電話をしなくては…)と思ったが張りがきゅうきゅう来て動けない。

このまま赤ちゃんが生まれてしまったらどうしよう、早く智一さんに連絡しないと…

桃恵は、お腹を押さえてその場にごろっと横になってしまった。

 

それから一時間ほどして、三浦家の玄関を叩く音がした。

北野中尉と剣持兵曹である。しかし応答がない。「留守ですかねえ」という剣持に北野中尉は首を振り

「そんなはずない。三浦大尉は『彼女は今夜一人きり』だと言っていた。大尉は今夜遅くなるかあるいは泊まり込みだとおっしゃっていたから間違いない」

となると。

「緊急事態かもしれない」と二人は顔を見合わせ、玄関のカギをこじ開けた。そして「桃恵さん、桃恵!」と呼びながら中へ入った。居間に入った二人「暗いなあ」と電灯をつけると座卓の向こうに桃恵が横たわっているのを見つけ思わず「春山兵曹、どうしたっ」と旧姓を叫んで駆け寄った。桃恵は額に汗をかいていて、二人の顔を見ると「北野中尉…剣持兵曹!」と小さく叫んでその袖にすがってきた。北野中尉は

「大丈夫、もう大丈夫だ。産気づいたんだな。しっかりしなさい、いま自動車を呼ぶ」

としっかり桃恵を支えると剣持兵曹はうなずいて「電話を借ります!」と言って海軍病院に電話を掛ける…

 

『武蔵』の医務科の分隊長からの連絡とあって海軍病院からすぐに三浦家へ自動車が差回されてきた。官舎の一角の三浦家の玄関前に自動車が止まるとすぐに玄関の扉が開き、北野中尉に抱えられた桃恵が出てきて自動車に乗せられた。そのあとを剣持兵曹が荷物を持って出てきて、玄関に鍵をかけると自動車の助手席に入った。そして自動車はヘッドライトをギラリ光らせて一路海軍病院に急いだ。

 

桃恵入院の知らせは海軍工廠の智一大尉のもとへと、そして桃恵の兄の竹男とその妻、あやこのもとへも走った。兄夫婦は電話をかけてきた剣持兵曹に丁重に礼を述べた後

「幼い子供を預かっても居りますので、明日になりましたら病院に伺います。その旨桃恵に伝えてくださいませ。いろいろご迷惑をおかけして申し訳ありません」

と言って剣持は恐縮した。そして剣持は「私たちが付いていますからどうぞご安心を願います」と言って電話を切った。

そして海軍工廠では智一大尉の上司、喜木キリ中佐が最初にその知らせを受けたが電話を切るなり

「三浦さん、三浦大尉!あなた急いで海軍病院に行きなさい!奥さん入院したそうよ」

と叫び、同僚たちも「早く行ってあげなさい!」「急いで!」と彼を急き立て、智一大尉はなんだかとても不安になると

「では大変申し訳ありませんが行きます!また明日になったら…」

と言いかけたが喜木中佐に

「明日なんか大丈夫だから奥さんのそばにいなさいよう!」

と押し出され、夜の闇の中へと飛び出していった。

 

 

次の朝の、新しい光の中。

横須賀海軍病院産科病棟に大きな産声が響いた。分娩室前の椅子に座って待っていた三浦大尉、北野中尉そして剣持兵曹は互いに顔を見合わせて「う、生まれた??」とささやいた。ややして分娩室のドアが開き、産科の軍医の高梨美也子大尉がにこにこしながら出てきて

「三浦大尉、おめでとうございます。男の子ですよ。母子ともに無事です。…もう少ししたら病室に入りますからお待ちくださいね」

と言って、椅子から立ち上がった三浦大尉は「ありがとうございます!」と頭を下げた。北野中尉と剣持兵曹は「やった、男の子だって。よかったね…継代ちゃんいよいよお姉ちゃんだ」と手を取り合った。

それからさらに二時間後、桃恵は以前継代を産んだ時と同じ病室に落ち着いていた。ベッドの周囲には夫の智一大尉、そして兄夫婦と継代、そして北野中尉と剣持兵曹がほほ笑みあっている。

小さなベッドの中には男の赤ん坊が無心に眠っている。継代はベッドのふちに手をかけて「赤ちゃん。赤ちゃん…どうしてお眼眼開けないの?」とささやいている。

あやこが「もうちょっとしたら赤ちゃんお眼眼開けて継ちゃんを見てくれるわよ。お姉ちゃんだってわかるかなあ?」と言って継代は「わかるよきっと」と言って嬉しそうに笑う。

桃恵は夫に「北野中尉と剣持兵曹に昨晩大変迷惑をかけてしまいましたの…」と事の顛末を話し、智一大尉は二人に謝った。しかし北野中尉も剣持兵曹も

「謝らないでください大尉。我々『武蔵』の軍医長からも勧められてきたのですから。決して迷惑なんかではありません」

と言い切って大尉も桃恵も感激した。兄夫婦も「本当にありがとうございました、お二人がいらっしゃらなかったら」と言って感謝を表した。

 

 

智一大尉以外が病室を引き上げ、大尉は改めて新生児のわが子の顔を見つめた。

「継代の小さい時によく似ていますね、やっぱりきょうだいだ」

そういって喜びを表した。桃恵はそっと半身を起こして手を伸ばし、赤ん坊の頬をそっと指先で触れると

「あなたと私の愛しい子供たち…継代とこの子。大事に大事に育てます。いろんな素敵なものを見せてあげましょうね、そしてこの家に生まれてよかったって思ってもらえるように」

と言って大尉を見つめてほほ笑んだ。智一大尉は

「私たちの二人目のいとし子…桃恵、お疲れさま。ありがとう。そうだね、これから継代も一緒に大事に育てようね。きれいなものや素敵なものを見て感じて、豊かな心の子供たちになって欲しいね。そしてこの家の、この親の子供に生まれてよかったと思えるように」

というと妻をそっとベッドに寝かせると優しく口づけした。

傍らのベビーベッドの中の赤ん坊が、笑ったように見えたその日の朝であったーー

 

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

桃恵さん無事男児出産でした!継代ちゃんとうとうお姉ちゃんになりました。三浦一家は優しい人たちに囲まれて幸せです。この先もずっと、幸せでいることでしょう!

 

「いとしごよ」NHKラジオ第一<午後ラジ>今月の歌です。とても素敵な歌です。

いとし子よ 横須賀編 1

横須賀の三浦家では、桃恵が臨月を迎えていた――

 

先日もそんな桃恵を心配して医務科で上司だった秋川兵曹長が訪ねてきてくれた。秋川兵曹長は勧められてあがった座敷の隅に座ると

「春山…じゃなかった三浦さん、もう臨月だろう?兆候はまだかな?もし何かあったらすぐに連絡しなさい」

と言ってくれた。その秋川に座卓の前を勧めると桃恵は大きなおなかを撫でながら

「ありがとうございます秋川兵曹長。二人目ですから予定より早くなるかもしれないと海軍病院の産科の軍医大尉から言われています。でもまだ何の気配もなくって…今度の子供はのんきなのかもしれませんよ」

と言って笑った。秋川兵曹長は差し出された湯呑を手にくるみながら

「そう…でも油断をしないようにね。私はまだ未経験だからいろいろ言えないけど、やはり心配だからね。遠慮しないで何でも言ってきなさい?まだ『武蔵』は横須賀(ここ)に停泊してるんだからね。私は週に二度上陸して下宿はここだから」

と心底心配そうに言って下宿の住所の書かれた名刺を差し出した。その心を察し、名刺を受け取って桃恵は「ありがとうございます」と礼を言うとそれを懐に入れた。そこに庭で遊んでいた継代が入ってきて「こんにちは秋川しゃん」とあいさつして秋川兵曹長は嬉しそうに継代を膝に入れその柔らかい髪をなで

「はいこんにちは継代ちゃん。もうすぐお姉ちゃんだね…楽しみだね」

とささやくと継代はにっこりとほほ笑んで

「はい。楽しみでしゅ。赤ちゃんが生まれたらつぐはお姉ちゃんになりましゅ」

と言って秋川兵曹長は「そうだね、きっといいお姉ちゃんになるよ!」といい継代は嬉しそうに笑った。そして

「つぐは今日から伯父ちゃま伯母ちゃまのおうちへ行きましゅ」

と言った。え?と言った秋川に桃恵は

「もう臨月だし小さい子供がいるといざというとき大変だろうからって兄夫婦が。出産して退院したら帰ってくる予定なんです」

と言って秋川はうなずいた。たしかにそのほうが何かといいかもしれない、きょうだいがいるっていうのもいいものだな、と彼女は思いうなずいた。

「今日の午後にも義姉(あね)が迎えに来ます」

桃恵の言葉に秋川は、継代を抱きしめると「そうか、ちょっとの間逢えないかもしれないね。寂しいけど赤ちゃんが生まれたらまた会いに来ますからね。それまで伯父様伯母様の言うことをきちんと聞いていい子にしていてくださいね」と言い、継代は「はい、いいこにしましゅ」とうなずいた。

秋川兵曹長が三浦家を辞し、そのあと昼ご飯を食べてのち、桃恵の嫂・あやこがやってきた。あやこは立ち上がって迎えようとした桃恵を制し

「大丈夫よ、座ってらっしゃいな…。はい、これは今晩のおかずにどうぞ」

と風呂敷包みを手渡した。中にはあやこの手作りの料理があって、桃恵はうれしかった。まるで宝物を奉持するかのように捧げ持って礼を言う桃恵に微笑んであやこは

「つぐちゃんがしばらくの間でもいないと寂しいわね。でもとっさの時にあなたもつぐちゃんも困るようではね…。つぐちゃん、平気よね?少しのあいだ伯母ちゃんのおうちで寝んねできるわよね?」

と継代にいうと継代は

「つぐはお姉ちゃんになりましゅ…。おばちゃんのおうちでいい子にできましゅ」

と自信ありげに言ってあやこも桃恵も思わず笑った。

それからしばらくして二人は見送る桃恵に手を振りながら三浦家を後にした。あやこが

「無理しちゃだめよ、何かあったらすぐ連絡してね」

と言って手を振り、継代もおもちゃの入った袋を背負って

「おかあしゃんまたね」

と手を振った。桃恵も手を振り返しながら二人の後姿を見送った。

 

家の中に戻った桃恵は、居間に入った。やれやれ、と独り言ちてのみさしの茶を飲もうと座った。すると座卓の上に継代のおもちゃの一つが置いてあるのが目に入った。

すると途端に桃恵の全身から力が抜けたようになり、不意に涙が流れてきた。思えば桃恵は、継代と今まで分かれて生活をしたことがなかったのだ。

(だめね私、情けない)

そう思っても涙はしばらくの間流れていた。

 

夕方帰宅した桃恵の夫・智一技術大尉はなんとなく火の消えたような家の雰囲気に

「継代が留守だというだけでこんなにさみしいとはね…。ああ、あの子がいつかお嫁に行ってしまったらこんな風になるんだろうか」

と言って夕餉の箸を使う手をとめた。そして妻を何気なく見やった智一大尉は

「も、桃恵さん!どうしたんだ、お腹が痛いのか?」

とびっくりして彼女の肩に手をやった。桃恵は涙を拭きながら

「違います、違うの…。いえ、私もあの子が留守だというだけでこんなにさみしいなんてって思っていたから…」

と言った。そうだったの、と智一は言って妻の肩を抱き寄せた。そして

「変なことを言ってしまってごめんね…でもきっとあの子は兄さんの家でもきちんとやってるはずです。そして赤ちゃんが生まれたら今度は四人の生活が始まるんだからそんな風に思って泣いてる暇も無くなりますよ?さあ、涙を拭いて」

というと妻の頬を流れる涙をその手のひらで拭いてやった。

すみません、と言いながら桃恵は、自分の頬に当てられた夫の手に自分の手を重ねて

「継代も、今度生まれる子も私たちのいとし子ですね。何物にも代えがたい、愛しい子供たち」

と言い、深くうなずいた智一大尉は妻の顔をそっと上に向けるとその唇に自分のそれをそっと重ねた。桃恵はそのお腹の中で赤ん坊がゆっくり動くのを感じた。

(早く生まれておいで。みんな待ってるから)

夫婦の想いは一つである――

 

  (次回に続きます)

 

                ・・・・・・・・・・・・・・・

久々、横須賀の三浦智一海軍技術大尉のおうちの話です。元『武蔵』医務科の兵曹だった桃恵さん、いよいよ二人目の子供が生まれそうです。無事に生まれますように祈りながら次回をお楽しみに!

幸せの空の先

「オトメチャンオトメチャン、えらいこっちゃで」と小泉兵曹が第一艦橋で当直を終えたばかりの桜本兵曹のもとへ駆け寄ってきたのは月もきれいなある晩のことーー

 

「なんね。どうしたんじゃね、そんとに慌てて」と桜本オトメチャンは言って、双眼鏡のレンズを布でそっと拭いてからその場を離れた。交代の酒井水兵長に「異常なし」と言って水兵長は「交代します」と言って双眼鏡についた。主羅針儀のそばに、佐奈田航海長が立っていて水兵長の敬礼を受け軽くうなずいて返礼した。

小泉兵曹は艦橋の隅っこにオトメチャンを引っ張って行った。オトメチャンの一等兵曹の階級章のついた袖を軽くつかんで。

そして「オトメチャン、えらいこっちゃ」とまた言ったがその瞳は笑っている。どうしたんじゃね、と桜本兵曹は言った。すると小泉兵曹はオトメチャンの耳にそっとくちを寄せると

「小泉商店の工場がトレーラーにあるんは知っとるよねえ。ほいで今そこの工場長をうちの弟の進次郎が務めとるんも知っとるよね」

と言った。オトメチャンが、ああ知っとってよというと小泉は

「その進次郎に昨日の上陸の時たまたま出会うて聞いたんじゃが、オトメチャンのええ人、紅林さん言うんか?が、来週にもここに来んさるんじゃと!」

とささやいてからオトメチャンの背中を軽く叩いた。

「ええっ!本当に来なさるん?」

オトメチャンの頬がぱっと桜色に染まり、声が軽く上ずった。オトメチャンは慌てて口を両手でふさぐと小さな声で

「ホントに…紅林さんが…ここに?」

と小泉を見つめた。小泉兵曹はしっかりうなずいて

「ほうよ。進次郎がな、ぜひこのことを桜本さんに知らせてあげてつかあさいいうけえ、うちは急いでフネに帰ってきたんじゃが、こげえに遅うなってしもうてすまんのう。―じゃがこの話は本当のホントじゃ。ほら、高田兵曹のええ人の<南洋新興>と小泉商店がここに合弁会社作った言うてじゃろ、その関係で紅林さんと何人かがここに来るんじゃと。視察いう奴じゃないか思うんじゃが…紅林さん言う人結構やり手らしいじゃないね、えかったねえオトメチャン。小泉商店の社員の中でも有望株なそうじゃけえ、玉の輿いうヤツかもしれんで」

と言って嬉しそうにオトメチャンの背中をも一度優しく叩いた。

よろこびに全身を浸らすオトメチャンに

「詳しい日取りがわかったら進次郎から連絡が来るはずなけえ、待っとり。楽しみなねえ」

と言って小泉兵曹は「ほんならうち、そろそろ防空指揮所に行くけえ」と言って艦橋を出て行こうとした。その後姿にオトメチャンは

「小泉兵曹、ありがとう!」

と言って、振り向いた小泉は照れくさそうに片手を振って笑った。オトメチャンはフフッと一人小さく笑ったが、佐奈田航海長に気が付くと慌てて笑いを引っ込めてまっすぐに立った。

佐奈田航海長は微笑みながらオトメチャンの前にたつと

「いいお話でよかったですね。幸せになりなさいね」

と言って、オトメチャンは感激した。「ありがとうございます航海長」と言って敬礼し、その場を辞した。佐奈田航海長は小泉兵曹と桜本兵曹の仲がきちんと修復されているのに安心し、(小泉兵曹にもいいお話があるといいですね…きっとそのうちあることでしょう)と思って一人ほほ笑むのだった。

 

その一週間前、内地。

紅林次郎の両親は、東京の自宅で訪ねてきた親戚と談笑していた。紅林次郎の父親、喜重郎の兄の仙太郎はもてなしの料理に舌鼓を打ちながら弟夫婦と久々の再会を楽しむ。

「で、広島の次郎はどうした?元気なのかな」

仙太郎はそういって弟と弟の嫁であり次郎の母である敏を見た。喜重郎が

「元気ですよ、〈小泉商店〉の社員として頑張っとります」

といい敏もほほ笑む。仙太郎は「なんだ次郎のやつ俺の商売敵のところに勤めてるのか」と言って笑った。仙太郎は〈南洋新興〉勤務である。

「そうだ次郎もそろそろ嫁を貰っていい歳だろう?誰かいい人はいないのかね」

と尋ねると喜重郎は「じつは、」と言って桜本トメの話をした。次郎から聞いたトメの人柄から彼女の生い立ちまで話した。

「そのあとトメさんの故郷を訪ねてきたんだよ、にいさん。それで彼女の養家にもお訪ねして行った…でも心配いらないよ、何の心配もいらない。きちんとした家だよ。だから私は結婚を許したんだ。そのうちトメさんが内地に帰ってきたら逢おうと思っている」

喜重郎はそう語り、敏も「いろいろ辛いことがあったような人でね、気の毒な話でしたが本人さんはとてもいいお人と聞いていますから、逢う日が楽しみですわ」と喜んだ。

しかし仙太郎は眉根を不機嫌に寄せて

「そんな娘を、お前たちは嫁に迎えるつもりか?不義の子供じゃないか、そんなものをわが紅林家の家系に入れるわけにいくか!」

と言い放った。そして

「お前たちは次郎に甘いぞ?長男はいい家から嫁を貰っているというのに、釣り合いがとれん。誰でもいいわけじゃないんだぞ、わかっとろうがそんなことくらい!二人が良ければいいというわけではないんだぞ?結婚をなんだと思ってるんだお前たちは!」

と怒鳴り始めた。すると喜重郎が

「そういいますがねえ、にいさん」

と口をはさんだ。喜重郎は居住まいを正すと

「太一郎(次郎の兄)の嫁は確かに良い家柄の出ですがね…気位ばかり高くてどうにも仕方がないんですよ。そのくせ何もできないと来ている、そんな娘を貰うんじゃなかったと思いましたよ。にいさんの口利きでしたがあれは正直失敗だったと思いました。だから私は同じ轍を踏みたくないんです。次郎が見初めたトメさん本人やその家族に問題がなければいいじゃないですか、しかも彼女のお姉さんという人たちは海軍の中枢にいる人たちですよ?立派な家柄じゃないですか、何も文句の付け所なんかない」

と言ってこちらも不機嫌そうにそっぽを向いた。仙太郎が今度は態度を変えて

「お前も知ってるだろう、私の部下の香椎。あれの娘の英恵が以前に次郎に会って、以来恋い焦がれてると聞いてる」

と柔和に言ったが喜重郎は黙ったまま。敏がハラハラしながら二人を見守っている。

ややして喜重郎が「だから、なんです?」とぶっきらぼうに言うのへ仙太郎は

「英恵を貰え」

と言った。喜重郎は「とんでもない。お断りだ。次郎にはもう決まった人が居る」ときっぱり断った。香椎英恵には確かに前に会ったことがあった、が、これも長男太一郎の嫁同様気位ばかり高くて喜重郎は好かないタイプであった。次郎も英恵には全く興味を示していなかった。

仙太郎は

「英恵は我が社に勤務していてね。女ではあるが実に有望な社員なんだ。初めての女性幹部になれるかもしれない逸材だ。貰って損はないと思うがね。よく考えておいてくれよ、大事な息子のためだからな」

というと、弟夫婦の表情には全く構わず何事もなかったかのように杯に残った酒を飲みほしたーー

 

そんなことが起きているとは夢にも思わない紅林次郎は、広島市内の〈小泉商店〉で社長の小泉孝太郎から

「紅林君。すまないが来週からしばらくのあいだトレーラーの工場に視察に行ってきてほしい。ほかに数名いるから大丈夫だよ。〈南洋新興〉との合弁が近い、向こうさんも何人か来ているらしいから顔を覚えるつもりで行ってほしいんだ」

と言われ胸が高鳴った。(桜本さんに、逢えるかもしれない)

小泉社長はその辺をも含め、彼にトレーラー行を命じたのだった。小泉社長の微笑みがそれを物語っていて、紅林次郎は心から感謝した。

「社長。しっかり見てまいります!」

紅林次郎は力強くそう宣言した。

そして小泉社長は、トレーラー工場の工場長を務める息子・進次郎に手紙を書いた。これこれこういう身上の社員が行くからその辺をよろしく願いたい、と。手紙を書きかけた彼は、デスクの引き出しから一通の封筒を取り出した。娘の純子からのもので、例の事件の詳細が書かれていて

〉バカなことをしでかし小泉家に泥を塗りました。これからは桜本兵曹をしっかり支えて、彼女の恋を成就させたいと思っています

と書かれているのをもう何度見たか、それを今一度見つめた後社長は、息子への手紙に、純子へ桜本兵曹に紅林の件を伝えるように、と書き添えた。

(純子、大事な友達を支えてあげんさい)

そう願う小泉社長である。

 

そういった父親の思いも込められた報せを、小泉純子兵曹は弟の進次郎から受け取って桜本兵曹に知らせたのである。

小泉兵曹は「えかったのうオトメチャン。うちはやっぱしオトメチャンが大事じゃ。オトメチャンが幸せにならんとうちも幸せになれん、じゃけえ紅林さん言う人としっかり幸せになりんさい」と指揮所できらめく星空を見上げつつ祈った。

 

ーそしてこの後、オトメチャンと紅林の仲を大きく揺るがすことが起きるとは小泉もオトメチャンも誰も、予想だにしてはいなかったのだ。そう、紅林次郎の両親でさえもーー

 

           ・・・・・・・・・・・・・・・・・

オトメチャンに朗報!紅林さんがトレーラーに来ることになりました。感動の再会も間近です。

しかし二人の行く手に暗雲が広がっているような気配もあり予断を許しません。どうかいい方向に向かいますように祈ってやってくださいませ!

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明日を見て生きる

三年前まで『武蔵』医務科勤務だった三浦桃恵は二人目を身ごもって八カ月目の体も重そうに横須賀の街を歩いているーー

 

桃恵は長女の継代の手を引き、兄の家を訪うため自宅を出た。朝、横須賀海軍工廠に出かける夫の智一大尉に「今日の午前中、兄の家に行ってまいります。夕方までには必ずもどります」と言い、智一大尉は「お兄さんとお姉さんにくれぐれもよろしく。今度ぜひうちでみんなで飲みましょうと伝えてくださいね」と言ってほほ笑んで、桃恵を抱きしめると「気を付けていきなさい…」と言ってそっとくちづけたのだった。

そんなことを思い出し、桃恵はほんのりその頬を赤らめた。嫂のあやこ手作りのモンペを着た継代が、

「おかあしゃま、トンビしゃん!」

と言って空を指さした。桃恵は継代の指さす方を見上げる、初秋の青い空にトンビが二羽、優雅に弧を描いている。継代が

「おかあしゃまのオフネ、見える~?とんびしゃん」

と声を上げてトンビに話しかけ、その愛らしい様子に通りががる海軍兵嬢が「見て、可愛らしい」「ホント、可愛いお子さんね」「ああ、早く子供が欲しいなあ」とささやきながら継代を見てゆく。そして桃恵に軽く会釈して行く。桃恵も会釈を返す。

継代が「かいぐんのお客しゃま…あきかわしゃんたちまた来てくれるかなあ」とつぶやいたのへ桃恵は

「また来てくださいますよ、継代がいい子にしてるから、きっとね」

と言ってその小さな手を握ってほほ笑んだ。継代も「はい。もっといいこにしましゅ」と言ってほほ笑み返した。

そして二人はさらに歩く…

 

ふと、桃恵の足が止まった。

(ここは…)桃恵のとうに忘れ去ったはずの記憶がよみがえってきた。この通りの先に、かつての恋人と暮らした下宿があるのだった。

(でも、あの人とは…)

桃恵はしばしその場に立ち尽くしたまま古い記憶を手繰ったー

 

今から何年前になろうか。

当時、空母『赤城』乗り組みの春山桃恵海軍一等衛生水兵は、小学校時代の同級生の男性-石田―と横須賀の街で再会し上陸の際には石田と逢うことが多くなった。と言っても『武蔵』自体はあまり内地にいることが少なかったため逢えるときは数えるほどだった。何度目かの逢瀬の時、石田は「春山さん、上陸した時は私の下宿に来てくれないかな」と言って春山一水に頼んだ。春山水兵長は(そんな、結婚もしていないのに一つ屋根の下になんて)と戸惑ったが石田は「いずれ結婚したいんだ。昔からあなたが好きだった」と言った。春山一水は

「結婚ですか…でも私まだ、兵隊の身です。下士官に任官したら、というのでどうでしょう」

と言って石田も了解した。それから彼女は『赤城』から『武蔵』へ転勤となり、しばらく内地に帰れない時が続き、また内地に帰っても必ずしも上陸できるとは限らず、石田も彼女も失意を覚えるときが多かった。やがて春山は下士官に任官し前より上陸できる時も多くなった。そして石田は「今度から一緒に下宿に住もう、上陸したらここに来てほしい」と言って、春山兵曹は上陸した際は下宿に顔を出したりあるいは一晩を泊まるときもあった。

そんなある時、春山兵曹が『武蔵』に乗っているのを知った石田は「今度はとても大きなフネに乗ったんだね、すごいやおめでとう」と言い…その晩兵曹は処女を石田に与えることになった。

初めての痛みに耐える兵曹に石田は「結婚しようね、もう君は私のものだ。絶対離さない」と言ったのだ。だがそのあと、大きな戦闘やそれに伴う航海で横須賀に帰ってくることができなかったり帰港してもすぐまた出航ということが多くあり、石田とは逢えないと気が長く続いた。

そして彼から、別れをほのめかす手紙が来て春山兵曹は石田との部屋に行くとそこで石田は下宿の女主人に「春山とは別れる、生きるか死ぬかわからないものを待つほど気が長くはない。それに私を待つ人がほかにいる」と言って「この部屋は引き払います、あいつのものは処分するか持ってかせてください」というなり去って言ったのだ。それを物陰から見ていた春山兵曹は泣きながら少ない私物をもって部屋を出て行った…

 

(そして、旦那様に出会った)

桃恵の顔に笑みが浮かんだ。あの出来事がなければ―私の風呂敷の中から牧水の詩集が落ちなければー私は智一さんには出会わなかっただろう。天の配剤天の助け、ああ!

智一さんは私の過去を聞いてつらそうな表情になり、私の両手をつかむと「忘れましょう。新しい人生を歩みましょう」と言ってくれた、そしてそれから時々会うようになった。そして突然の求婚…。

 

桃恵はフフッと笑って継代の手を握りなおすと「さあ、行きましょう。おじちゃまもおばちゃまもお待ちですからね」と言ったその時、彼女たちの前から歩いてきたのはあの下宿の女主人であった。女主人―滝田―はびっくりしたような顔で立ち尽くした後、「は、春山さん?」と言った。桃恵は大きなおなかを抱えるようにして頭を下げて

「お久しぶりです…、その節は大変お世話になりました。あれからすぐ、結婚して三浦となりました。何もお知らせしないでごめんなさい」

とあいさつと詫びをした。継代が「こんにちは」と言って頭を下げたのへ滝田は微笑みかけ

「幸せなのね、よかった」

と心底ほっとしたように言った。あの後滝田は春山兵曹のことが心配でたまらなかったのだと言った。そしてどうにかして消息を知りたいと思ったが「なかなかわからなくって…でもよかった、お子さんお二人目なのね」と言って桃恵を見つめるその瞳が潤んだ。

桃恵はご心配いただいてありがとうございます、と言った。滝田はちょっと声を潜めるようにして

「あのあとね、〈あの人〉外地に行ったのよ。なんでもお相手に振られたとか言って。あの部屋でしばらくぼんやりして過ごしてたけど突然外地に行くって出て行ったわ。外地って言ってもどこに行ったかはわからないけどあの人のことだからうまくやってるんじゃない?」

と言った。

桃恵は無機質な気持ちで「そうでしたか」とだけ言った。滝田はもう一度「あなたが幸せで本当に良かった」と言って継代を見てほほ笑む。

そして二人と一人はそれぞれ別れて、桃恵は継代の手を引いて兄の家目指す。その顔はまっすぐに正面に向けられ自信に満ちている。

(過去は過去、旦那様も言ってらしたようにもう振り返らない、振り返る必要もない。私は明日を見て生きる。済んだことなどもうどうも思わない)

 

やがて二人は桃恵の兄の家に着き、継代の「来まちたよ~、おじちゃまおばちゃま」の声に、竹男とあやことは争うように玄関に出てきて継代を抱き上げ、四人はにぎやかに家の中にーー

 

            ・・・・・・・・・・・・・・

二人目出産も遠くない三浦桃恵のお話でした。過去をふっと思い出すことは人である以上ありますがそれに取り込まれない、過去は過去と割り切る桃恵さん。さすがですね。やはり智一大尉との愛がうまくいっている証拠なのでしょう。おお…愛こそすべて!
三笠艦上日章旗

南瞑のはてに

〈昭和十九年十一月 増田恵一海軍少尉 二十三歳〉

伊号潜水艦に乗り組み、光基地を出撃して約二週間。グアム島至近まで来た。…そして我々はやっと会敵の機会を得た。私はしかし、伊号潜水艦の乗組員ではない。私は伊号潜水艦に積まれた〈回天〉の搭乗員である。私のほかに三名、いずれも下士官である。彼らと私は多くの回天搭乗員たちとともに厳しい訓練を受け一人前の搭乗員としてついにこの日を得たのである。

そしてその時が…

艦長の「敵船団見ゆ!―回天戦準備」の声で我々回天搭乗員はさっと手早く準備をし〈七生報国〉の鉢巻きをグイッと締めて交通塔を上って回天に入る。ハッチが閉まる前、こちらを見上げた伊号潜の乗組員たちの瞳が涙できらりと光った。その彼らに「ありがとうございました、お世話になりました…伊号潜水艦のご武運を祈ります」と言うと交通塔のハッチが閉まった。私は〈回天〉の席に座り、回天を始動させる。艦長からのさいごの電話に出航時からの感謝の意を伝え、私の「一号艇」はバンドを外されて熱走を始める。

特眼鏡を上げ、敵の包囲を確かめ回天を走らす。不思議に心は落ち着いている…思い出すことと言えば、故郷のきょうだいたち。一番末の妹のことが心配だが…

「大丈夫、兄ちゃんはいつでも見守っているよ」。

覗き込む特眼鏡のその中には敵の艦艇がそこまで迫っていたーー

 

〈平成二十八年 広崎克枝 七十八歳  深井隆 五十九歳  深井孝子 五十五歳  深井江美 二十六歳  深井由美 二十歳〉

私は深井江美。都内の大学を出て中堅どころの商社に勤めて四年目。家族はお母さんのほうのおばあちゃんに両親そして大学生の妹の五人家族。会社の仕事にもすっかり慣れたし友達もできてそこそこ満足ってとこかな。この秋、夏にとれなかった休暇を取れることになって同期入社のエコちゃん、カヨちゃんと一緒に旅行に行くことにしたんだけど。

 

「ママ。あたし来週休暇一週間取れたから。五日ほど出かけるからね~」って言ったらママ「なに?またあのテーマパークに行くの?それともこないだのひなびた温泉宿?ほんとに好きだわね」とあきれたみたいに言った。そばでおばあちゃんは笑って私を見てる。妹の由美が「フン、暇人。そんな暇あったらもっと生産的なことしたら?」って。由美は、女のくせにミリヲタっていうの?あれなの。しょっちゅう戦争物の映画とか本ばっかし読んでで、夏休みとか南の島に「遺骨収集」とかいうのに何度も行ってる。それからしょっちゅう靖国神社とかいうとこに通ってる。ときどきはおばあちゃんもママも一緒に。何が面白いんだか知らないけど。てか靖国神社って何の神様?私は行ったことない。

「まさか~、エコとカヨと一緒にグアムよグアム!会社入ってからどっこもいけなかったから、ちょっと奮発して五日間!マリンスポーツにグルメ、最高な旅行になりそう~。うふふーだ」

そう私が言った途端。おばあちゃんとママ、それに由美の表情が硬くなったように見えた。由美が「グアムって…それマジ?」っていうから「そうよ、だからグアムだって言ってるでしょ!」って言ったら、由美のやつ「遊びに行くのもいいけどさ、ちゃんと慰霊顕彰の気持ちをもって行きなさいよね」っていう。すっごい上からメセン。生意気!せっかくの旅行に水を差されたような気がして私、「うるさいわね、なにいちいち指図してんの?何そのイレイケンショーって」って言ったら由美、「へえその年して大学まで行っててそんなことも知らないの、はあ驚いた!そもそもうちのご先祖にどういう人が居るか考えたことないんだ」っていう。

私、「ねえママ…」と言いかけたらママは難しい顔したまんまだしおばあちゃんはなんでか泣きそうになってる…。いったいどうしたっていうんだろう、私は訳が分からなくなってきた。

パパがそれからすぐ帰宅したから私さっきのことを言ったらパパ、「なんだか知らないけどな、おばあちゃんもお母さんも〈戦死した人が居る〉とか言ってたけどな。まあそんなの気にしなくっていいよ、そんなの関係ねえ~だよ。それより江美。パパにお土産忘れないでよな~」って笑って私も笑った。

次の日、会社の帰りに航空チケットを取りに行って、家に帰ったら由美が「これ」って私の前に出してきたものがある。何かと思ってみたら小さな箱に入った日本酒、「なによこれお酒?」って言ったら由美が「お酒、じゃないお神酒だよ。今日おばあちゃんとママと一緒に九段にお参りしてこれをいただいてきたの。グアムに行ったらタモン湾に行ってこれを海に流してきて」ていう。確かにタモンビーチに行って遊ぶつもりだけど、なんでこんなものもっていかなきゃいけないのよ!冗談じゃない。

断ろうと思ったけど由美も、ママもおばあちゃんもなんだか今まで見たことないような怖い顔してるから「はいはい…わかりました。持っていきます」って言って、ほとんど準備のできた旅行鞄の隅に入れといた。

そして翌週、待ちに待ったグアム旅行は始まった!会社の同期入社の仲良し三人組、うきうきして飛行機に乗ってそしてグアムに到着。どこまでも青い空に海、私たちの心はめっちゃ弾んだ!ホテルに荷物を預けて私たちはさっそくタモンの街中から、ビーチに繰り出した。日本はもう秋なのに、ここは一年中海で遊べるなんて最高じゃん!

私たちは夏のうちに買っておいた水着を着て遊んだの。とっても楽しい、とっても嬉しい!普段の生活も仕事も何もかも忘れて私たちは遊んだ。ほんとに天国。

翌日も、グアムのあちこちをめぐってはおきにいりのタモン湾のビーチで遊んだ。その晩、明日着るものを旅行鞄の中から引っ張り出してるとそばでガイド本を見ていたカヨちゃんが本をテーブルに置いて、私のカバンの中のお酒の箱見て「これ、なに?…やだお酒じゃん、江美日本酒なんか飲んだっけ?」って笑う。エコも寄ってきて酒の箱を鞄に中から取り上げて「ほーんとだ。何このお酒?カミシュってなに?」って不思議そうな顔をしてる。だから私はいきさつを説明したの、そしたら二人とも笑って「やだあ、江美の妹って変なこと言うのね…なんかおかしな宗教にかぶれてるんじゃない?気を付けてあげなよー」っていう。私もそう思う。

三日目、今日はシュノーケルをしようかということになった。用具を借りて、小型のボートで湾の沖まで来てそこからガイドの素敵な男性と一緒にみんなで海に入ったの。眼が覚めるような美しい海、たくさんの魚にもう夢中!私も友達も時間を忘れるくらい泳ぎまくった。

―何か…変な気配に気が付いて顔を上げると沖の方から何か黒い影みたいなものが近づいてくる。私もしかしてサメじゃないかと思ってエコとカヨに「何か来てる!サメじゃない?」って叫んだら二人とも顔を出して私が指す方を見て「なに言ってんのよ江美、なにもいないじゃない?魚の影の見間違いよ」って笑ってまた顔を水につける。

その黒い影は、私の足元を音もなく過ぎ去っていった…

 

その晩から私は高熱を出してしまった。私はうなされていてエコとカヨは氷枕をフロントに頼んで取り寄せてくれたり薬を持ってきてもらったりしたけど私の熱は下がらなかった。私は夢を見ていたの…海の中を漂っていると遠くから誰かの声がする。その声は私のおばあちゃんを呼んでいるみたい。克枝、かつえ…って。

そのうちあの黒い影みたいのが見えてきてその中から一人の男の人が現れて私のほうに歩いてくる。見たことがない服を着て、頭には白い鉢巻きして、おばあちゃんの名前を呼んでいる。そしてその人はだんだん私の方へ来たけど、その顔がとっても怖くって私は思わず叫び声をあげていた…。

 

自分の叫び声に驚いて目が覚めるとそこはホテルの部屋のベッドの上、もう朝の陽ざしが差し込んでいる。同室のエコとカヨは朝食を食べに行くとメモが残っていた。熱は下がっていた。私はどうも昨日の夢が気になって仕方がなくってとうとう自宅へ電話した。今日は日曜日だからまだママもゆっくり寝ていたらしくって突然の電話に驚きながらも私の質問に答えてくれた。

「…じゃあ、私が見たあの人はおばあちゃんの一番上のお兄さん、ってことなのね。おばあちゃんのもとの名字は増田、でそのお兄さんの名前が増田恵一さん。そのお兄さんは戦争の時このグアムの海で戦死したんだね…」

そういう私にママは「そうよ。その場所こそが由美が遊んでいるタモン湾の沖なのよ。恵一おじさんは〈回天〉ていう大きな魚雷、それも人が乗れるようにしたものに乗って、それを自分で操縦して敵の軍艦にぶつけて戦死したの。その時まだ二十三歳…今のあなたより若かった。まだおばあちゃんは六つだったって。恵一おじさんの遺骨もなければ、遺品もなかったって、おばあちゃん言ってたわ」と言って電話口の声がかすかに震えたような気がした。そのあともママは恵一おじさんという人の話をしてくれた。

初めてまともに聞いた話に私の体は震えてしまった、なんてことがあったんだろう、私はそんな大事な話を今まで聞こうともしなかった。私のおばあちゃんの、お兄さんだというのに。恵一おじさん、そんな私に怒ってたんだ。江美に頼んでお神酒を海に流すねって、きっとおばあちゃんもママも由美も、神社で約束してきたはず。だけど私はそれを嫌がってしようとしなかった。あの夢はおじさんの怒りが私に届いたんだ、だからあの黒い影を見た後高い熱を出したんだ、これが天罰ていうものなんだ…

なんだか今まで感じたこともない後悔とか恐怖とか、申し訳ないって気持ちがどこからかわかんないけど沸き上がってきて、もういてもたってもいられなかった。

私は電話を切るとすぐに着替えて、旅行鞄から由美に託されたお神酒の箱を取り出した、そして部屋を出ようとしたとき食事から帰ってきたエコとカヨに出くわした。「江美大丈夫なの?」「どこへ行くの、ねえ?」という二人に説明する時間ももどかしく私はホテルを飛び出した。そのあとを二人も走ってついてきた。

 

タモン湾を一望できる浜に私は立って、箱を開けた。中の瓶を取り出すとふたを開けた。後ろでエコとカヨが黙ってみているのを感じながら私は裸足になると海へ入って行った。

「恵一おじさん…ごめんなさい。おじさんのこと今まで知ろうともしないで、本当にごめんなさい」

私は心から謝ると、お神酒の瓶を逆さにして中身を海に流した。わたしよりも若い年齢で、本当は死にたくなんかなかっただろうに死ななきゃいけなかった恵一おじさん。大きな魚雷を改造したものに乗って、敵の軍艦に自分からぶつかって行って死んでしまった恵一おじさん。おばあちゃんのこと心配しながら亡くなったのね、夢の中でおばあちゃんの名を何度も呼んでいたからわかった…。

「恵一おじさん」

私は声に出しておじさんを呼ぶと、両手を合わせて叔父さんへ祈りをささげた。これだ、この思いが由美の言っていた「慰霊顕彰」というものなのだと私はやっと、わかった。優しい風が私を包むように流れてきたーー

 

グアムから帰国して最初の日曜日、私は朝早く目が覚めた。信じられないくらい体も心もすっきりしている!私はもうすでに起きてリビングにいるおばあちゃんとママ、そして由美に言った。

「おはよう!ねえ、今日これから靖国神社にお参りに行こうよ!」

 

            ・・・・・・・・・・・

この話は「太平洋戦争の怖い話」というのを読んでふいに思いついた話です。構想を立てましたが果たして書いていいものか少し考えました。逡巡して仕事の手をふと止めたとき外から思いがけなく風が吹き込み「書こう!」と思い直しました。

今、リゾート地として人気の場所の多くはかつての激戦地であることを、ちょっとでもいい、思ってほしいのです。

 

潜水艦搭載の回天(wikiより)潜水艦搭載の回天

プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

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