愛の風向きが変わるとき
紅林次郎は熱に浮かされたような顔で香椎英恵を宿舎の自室に連れて行った――
私室は6畳ほどの部屋で「風呂はまさに大浴場。飯は食堂で食べられるんだ。洗濯だけは自分でしないと」と紅林は言った。暗い部屋の中で、そうなのと返事をした英恵を紅林は抱きしめた。そして
「英恵さんが…欲しいんだ」
というなり彼女を床の敷物の上に倒すようにしてその上にまたがった。英恵のブラウスの前を彼は引きちぎる勢いで開ける、そして肌着を荒っぽく取るとその豊かな胸に唇を押し付けた。だめ、いけませんわと片手で紅林を防ぎながら、反対の手を紅林の背に掛け自分に引き寄せる。やがて身につけたものすべてを紅林の手によって脱がされた英恵は潤んだ瞳で彼を見つめて
「紅林さん…あなたが好きです…」
と言い紅林は「いいね?」とささやく。英恵がうなずくのを見た彼は、英恵を自分のものにするべく動き始めたーー
小泉兵曹は眠れぬまま寝台で寝返りを打っていた。
(どうもおかしい、妙じゃ。なんで紅林さんはオトメチャンになあも言うて来んのじゃろう。いくらなんでももうあれから二週間以上たっとる、許嫁が帰ってきたいうんにいくら忙しいから言うて手紙の一つも寄越さんなんてあるんじゃろうか)
彼女の頭の中で、大事な戦友のオトメチャンへの心配が渦巻く。
(どうしたもんかのう…うちが<小泉商店>に行って紅林さんに会うて来るんがええんかもしらんがうちはそうそう上陸のできん身じゃ。手紙言うても…。うーんどうしたもんじゃろうか)
彼女は悩みうなりながらやがていつか知らない間に眠りについていた。
そしてオトメチャン…
彼女は今夜第一艦橋での当直中である。暗い艦橋内ではほかに亀井上水が当直についている。その後ろでは今夜は松岡分隊長が立っている。本当なら今日は麻生分隊士の当直だったが彼女は夕方から航海長のお供で艦隊司令部へ出かけていて今夜は帰らない。その代りに「熱い私が代わりますからね、安心して当直に励みんさい」と松岡中尉が買って出たのだ。
松岡中尉の後ろではマツコ、トメキチにニャマトが床に置かれた籠の中で眠っている。マツコたちは「アタシのマツオカが今夜はずっと当直にたつっていうから、アタシたちも一緒に」と邪魔にならないよう、籠の中で見守る…はずだったがとっくにマツコたちは夢の中である。しかし松岡中尉は気にしないで見張り員たちを監督している。
やがて交代の兵曹たちがやってきてオトメチャン、亀井上水はその場を離れることになった。マツコたちを起こさないように足音を忍ばせてオトメチャンと亀井は艦橋を出る。
二人は居住区にまっすぐ向かうと「お疲れさま」と言葉を交わしてからそれぞれの寝台にもぐりこんだ。寝台に落ち着くとオトメチャンの胸には紅林の面影が浮かぶ。
いつもそうなんよ、とオトメチャンは自分に語りかけるように胸の奥でつぶやいた。紅林さん、とオトメチャンは心の内で語りかける。
――うちやっと帰ってきました。あなたがここにおいでになるいうんに留守してほんまにすみませんでした。でもやっと、これでやっと会えることができますね。うちはあなたと会える日をずっと待っとりました。長いこと、長いことずっと。じゃけえ早う逢いたい。あなたが今、えらい忙しい身じゃいうんは、ようわかりますが、ほいでもうちははように逢いたい…
オトメチャンはなんだかとても幸せな気分になるとウフフっと小さく笑って、そして眠りについた。
紅林は、英恵の体から優しく離れた。英恵は恥ずかし気に顔をうつむけている。英恵の瞳からは一筋の涙が流れた。その英恵にもう一度接吻すると紅林は
「とても素敵だった…。あなたは初めてだったんじゃね。ごめん、こんなことしてしまって」
と謝った。英恵は微笑みながら
「いいんです。謝らないで…私嬉しい。私はあなたのことずっと前から好きだったから。でもあなたは私を見てもくださらなかったのが悲しかった。でも、今こうなれて本当にうれしいです」
とささやいた。その英恵の髪をやさしくなでながら紅林は
「関心がないように見せていたんですよ。そしたらあなたがもっと私に接近してくるかと思って。でもそんなの男の間違った考えだったんですね。積極的になればよかった。そしたらあんな下士官の小娘なんぞと婚約せんでよかったのに」
と言った。<下士官の小娘>という言葉に英恵は
「紅林さん、本当にそのかたとは結婚なさらないんですね?」
と必死な声音と瞳の色を見せた。念を押すような言いかただった。紅林は英恵をしっかり抱きしめると
「あなたという人がおってんじゃけえ、あがいな娘とは結婚はせんです。あの娘はーー」
と彼が知った桜本兵曹の生い立ちを洗いざらいぶちまけた。英恵は目を瞠って
「そんな人とあなたは釣り合わないわ。確かにお気の毒なお生まれですけど、そういうかたは」
と言って言葉を切った。紅林は先を促すように英恵をそっと揺すった、すると英恵はあったこともない桜本兵曹に対して挑むような瞳の色で
「幸せになんかなってはいけないかただと思いますけど。そんなことを言ってはいけないとは思いますけどでも」
と言った。紅林は英恵の豊かな胸に手を当てるとそこをやさしくもみながら
「そうだね。ああいう娘にはそれなりの人生しかないってことだ。私も困ったよ、いくら社長の紹介とはいってもあんな娘ではね」
と言ってやや困ったような顔で笑った。英恵も笑った。
――紅林は忘れ去っていた。
自分が桜本兵曹にひとめぼれして交際の仲介を社長の小泉孝太郎に頼んだことを。
桜本兵曹の生い立ちに本気で涙して、この人を守るのは自分しかいないと思ったことを。
桜本兵曹の可憐な美しさに惚れこんだことを。
彼女の下宿の部屋で彼女を抱きしめ、接吻を交わしたことを。
呉へ戻る兵曹の汽車を、ホームの端まで追いかけたことを。
広島湾の沖を行く『大和』に、兵曹の無事を祈ったことを。
兵曹に逢いたくて愛しくて、手紙をたくさん書き送ったことを。
トレーラーに来て、兵曹が特別任務で機動部隊に編入されたと知って愕然としたことを。
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彼はそのすべてを、桜本兵曹に関するすべてを忘れ去った。
小泉兵曹はそれから数日後、指揮所で双眼鏡の具合を見ていたオトメチャンの背中に「なあオトメチャンよ」と話しかけた。点検に一所懸命で振り向けない兵曹は「え、なんね?」と言ってそのオトメチャンに小泉は
「もう、紅林さんから連絡は来たかいのう?」
と尋ねてみた。すると桜本兵曹は少し表情を曇らせて小泉兵曹に向き直ると
「それが…来んのよ。『飛龍』が入港してからすぐに手紙を書いて出したんじゃが、ちいとも来んのよ…そげえに忙しいんじゃろうか、紅林さん」
と言った。その眉間に不安が見える。小泉兵曹は
「ほうね…。いやあうちも紅林さんに会うた時あん人はオトメチャンのことをえらい心配しんさってほいで早う逢いたい、言うとってなけえすぐに連絡をくれるもんじゃとばっかし思うとったが。いったいどうしんさったんじゃろう?一度進次郎に聞いてみようかいの?」
と腕を組んで考え込んだ。オトメチャンは
「いや、進次郎さんは忙しいけえそんとなことで煩わしたら申し訳ない。もうちいと待ってみるけえ。きっとうちになんぞかまっておられんほど忙しいんじゃわ。じゃけえうちは待っとるよ。小泉兵曹、ありがとうね。うちはええ友達を持って幸せじゃわ」
と言ってほほ笑む。その微笑みを見ているうち小泉兵曹は矢も楯もたまらず走り出していた。小泉兵曹はどうしたんじゃねと叫ぶオトメチャンを置き去りにして小泉兵曹は前檣楼のラッタルを駆け下りた。そして副砲目指して走った。
そこに、彼女が目指す人が居る。
「高田兵曹!小泉兵曹であります」
と叫ぶと、副砲のアーマーのうちから高田兵曹が出てきて
「ああー?誰じゃ?…ありゃ小泉兵曹じゃないね、どうしたん?」
と言って小泉のもとへやってきた。小泉兵曹は必死な顔つきで高田兵曹を物陰に引き込むと「話を聞いてほしいんです」と言い、高田兵曹は
「いったい何ね、そんとにまじめな面しよってからに」
と笑っていたが小泉兵曹の話を聞くにつれ、その表情は真剣そのものになって行った。
「小泉兵曹、そりゃちいとまずいで。いくらなんでも許婚の仲でそんとに疎遠になるなん、考えられんで。ほりゃあ一度探りを入れたほうがええかもなあ」
高田兵曹のこの一言で小泉兵曹の気持ちは決まったーー
・・・・・・・・・
とうとう一線を越えてしまった紅林と英恵。もう戻れないところまで行ってしまったのでしょうか。オトメチャンはどうなるのでしょう。そして小泉兵曹は行動に出るのでしょうか…。ご期待ください。
コメントの投稿
河内山宗俊さんへ
どんな生まれであっても幸せになる権利はあるのに、英恵さんの言葉は恵まれたものの思い上がりでしかないです。
小泉さん、探りを入れたがいいがどうその結果をつ当てるかが大問題ですね、そしてそのやり方とか。問題山積ですよ。そしてこういう問題の解決法をだれが知っているのかも…。
ああ前途多難。
純子さんの決意は固そうだが、オトメちゃんにとっての残酷な結果を如何にして伝えるか?というより、それに直面したときの純子さんがどう考えて解決策を見いだすか?いままでの彼女ならいいかげんな対応しかないけど?