翻弄される愛

<小泉商店>トレーラー支社長の小泉進次郎は社員の一人から聞き捨てならないことを聞かされたーー

 

「支社長、」と社員の柴本幸三から声をかけられた小泉支社長はにこやかに振り返って「はい、柴本さん。どうなさいました?」と応えた。その爽やかな微笑みに柴本もほほ笑み返したが、表情を引き締めると

「ちいとええでしょうか。お話したいことがありますけえ」

というとその表情を見た小泉支社長は「ではこちらへ」と宿舎の私室へと彼を招き入れた。進次郎の私室はきれいに片付いていて彼の性格を物語る、その部屋に落ち着くと柴本は声をやや潜めて

「支社長はあの噂をご存知でしたか?」

と言った。あの噂、と小さな声で言った進次郎は柴本の顔を見つめると

「例の、宿舎で聞こえるという<うめき声>の話ですね?もしかしたら南方妖怪ではないかと皆が気味悪がっていたあれですね?」

と言い柴本はうなずいた。そして柴本はごくっと喉を鳴らすと

「支社長、私気が付いてしまったんです。あの<うめき声>は妖怪の仕業ではありません。あれは…あれは、生身の人の声です」

と言い切った。「生身の人の声ですか?」と進次郎の声はかすかに震えた。生身の人間の声なら、もしかしたら妖怪の声より厄介で気味が悪いのではないか。進次郎は緊張を帯びた瞳の色で柴本を見つめる。柴本は年若き支社長をひたと見つめると

「そうです。生身の人間です。実はあの時その話をしたあとすぐに声が聞こえなくなりました、どうもおかしい…と思って丘田に内々に調べさせましたら」

「そしたら?」

「なんと、<小泉()商店()>の紅林と<南洋新興>の合弁推進室長の香椎さんが」

「えっ…」

「男女の仲になっていたらしいんです。彼ら「声」の話をされてびっくりして河岸を替えたらしいんですよ。水島(ここ)の繁華街のはずれの<待合>に入って行ったと<小泉()商店()>の現地人従業員のハミラ君が言っていましたよ。彼はしっかりしてるから間違いないです」

柴本のその話を聞いて進次郎は考え込んでしまった。紅林次郎と言えば、姉の小泉純子と海兵団同期の友人の『大和』に勤務の桜本トメ海軍一等兵曹と許婚の仲ではないのか。しかもその桜本との交際は紅林の方から社長の小泉孝太郎に頼み込んで話をつけてもらったと聞いている。なのに。

「紅林さんは…桜本さんをどうするつもりなのだろう」

進次郎は遠い目をしてぽつりとつぶやいた。柴本も、そんな支社長から目を離さないでうなずいた。数瞬ぼんやりとしていた支社長だったが我に返ると柴本に

「よくわかりました。この件はほかの社員には言っていませんね?ならいいんですが、口外無用に願います。きちんと調査したうえで判断します。ともあれ情報をありがとうございます。また何か気が付いたことがあったら知らせてください」

と言って柴本は「わかりました。私の胸に秘めておきます。…ハミラ君にもほかの人に言わないよういってありますので」と言って支社長の部屋を出た。

ドアが閉まると進次郎は椅子に座り込み「ああ…なんてことだ。困ったことが起きた」と独り言ちしばらくの間頭を抱えていた――

 

元気のない桜本兵曹ではあったが勤務に差し支えるようなことがないのが、小泉兵曹たちには一層不憫に思えて仕方がない。そんなけなげなオトメチャンに紅林に女の影があるという話をするのは気が引けてならない。

小泉兵曹はそんなある晩、第一砲塔前に集まった高田兵曹・岳野水兵長・長妻兵曹に言い放った。

「うちがじかに紅林に談判する!オトメチャンをどうするんか、はっきり聞いてくる。そのうえでオトメチャンに話をしよう思うんじゃ」

おおっ、と皆はどよめいた。石川兵曹が

「ほんまになさるおつもりですか小泉兵曹」

と恐る恐るといった態で訪ねた。その石川兵曹にうんとうなずいた小泉は

「もう直談判しかあるまい?いつまでこうしとっても埒が明かんで。その上オトメチャンは紅林に大きな不信を持っとる、その不信感を払しょくするも確信させるも紅林自身なけえね。はっきりさせて、そのうえでオトメチャンに合わせて決着つけんと、もうありゃいけんで。こういうことは不審ができたらはっきりさせるんが筋じゃけえね」

と言って皆を見回した。長妻兵曹が腕を組みながら

「ほうじゃね。いつまでだらだらしとってもええことない。こうなったら小泉さん、奴にはっきり話を聞いたうえでオトメチャンと合わせて白黒はっきりつけたらええよね、そう思いますじゃろ高田兵曹?」

と高田に水を向ける。高田兵曹も腕を組み、

「ほうじゃわ、そのほうがええ。小泉さんには面倒かも知らんが大事な戦友のためじゃ。どうかよろしゅう願います。ほいでオトメチャンと会わす…オトメチャンには残酷な現実じゃがほいでもいつまで宙ぶらりんではいけんけえの。まあ、オトメチャンにとっては<大人>になるための試練じゃ思うてもらうしかないのう。つらいことじゃがね」

と言って下を向いた。岳野水兵長も

「ほうですねえ。どんとなつらい現実でも受け入れんといけん言うことはあの子自身がようわかっとる思いますし、あの子はそんとなことでどうにかなるような弱い子ではない思いますけえの。どうか小泉さんよろしゅうに願います」

と言って頭を下げる。小泉兵曹は年上でオトメチャンの従姉から頭を下げられ慌てて

「岳野さんそんとなことせんでつかあさい、うちはしっかりやってきますけえね。安心しとってつかあさい。紅林のやつを締めあげてきます…まったくええ加減な奴じゃわ、うちそんとなオトコただじゃおけんわ」

と言って息巻いた。まあまあ、と長妻兵曹が小泉をなだめたあと

「ほいじゃあ、今度の小泉の上陸日をその日に当てるいうことでええんね。ほいでそのあとにオトメチャンと会わせてしっかり話をさせると。そんときにはこの中の誰かが同席するかどこかで見とるほうがええね。まあその辺もしっかり考えとかんといけんの」

と言い皆はうなずいた。

 

小泉兵曹は上陸日の三日前、上陸する友人に頼んで弟・進次郎への手紙を渡してもらった。それには紅林を尋ねるから三日後のこの時間にこの場所に来てほしいと書いてあり、それを受け取り呼んだ進次郎は紅林を呼び、

「姉があなたを尋ねてきます。この日に逢ってください。場所は…」

と話した。果たして紅林は顔色を青くしている。動悸が胸を激しく打っているようだ。その様子を静かに観察しながら進次郎は

(やはり噂は本物ですね、でもはっきりさせないと桜本さんが気の毒ですからね。紅林さんあなた男らしくはっきりなさい)

と心の中で叱咤している。父親の孝太郎から以前に、紅林の人柄を聴かされ「紅林君がなあ、純子の海兵団からの友人を気に入っての、交際したいいうんじゃ。ええ話じゃ思うんじゃ。その友人いう人は苦労人での、ほいでもとても気持ちのええ人じゃ。じゃけえ紅林君となら、と思うんじゃ」と嬉しそうに言っていたのを思い出し、(私の父親まで裏切る気か、そんとなことさせん)と決意している。

 

三日後。

小泉兵曹は紅林を待って繁華街のはずれの小さな茶店にいた。現地の人の経営する店で小泉達とは顔なじみの店である。小泉はヤシの実のジュースを飲みながら彼を待った。やがて「――お嬢様」と声がしてそちらを見やれば紅林が立っていた。

「こっちへ来てつかあさい」

という小泉の声に素直に従った紅林は、彼女の正面の椅子に座った。店主にヤシの実のジュースをもう一つ頼んだ後小泉兵曹はまっすぐに彼を見つめると切り出した。

「紅林さん、はっきり言いますがあんた…桜本兵曹のほかにええ人ができましたね?」

すると紅林の瞳が不自然に揺らぎ、小泉兵曹は思わず

「図星じゃな!あんた、――あんたオトメチャンという人がおってのに他に女ができたんじゃな?ほんまのこと言えや!」

と怒鳴っていた。

海からの風がどうっと吹き付けてきたーー

  (次回に続きます)

 

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・

いよいよ対決の時が。

その前哨戦ともいえる小泉兵曹との話し合いが始まりましたが、すでに波乱含み。さあどうなる??次回以降をお楽しみに。

関連記事

愛は乾いた砂のごとく

オトメチャンが振り向くとそこには逢いたくてたまらなかった紅林がいたーー

 

「紅林さん…」

と言ったままオトメチャンは立ち尽くしていた。二種軍装のオトメチャンの姿はだれが見ても息をのむほど美しい。がしかし、紅林の心は以前のようにときめくことはない。傍目にはどこか、オトメチャンを冷めた目で見ているような感じさえ受ける。

だが紅林に逢えたよろこびに身を浸すオトメチャンはそんなことには気が付かない。ただ、再会の喜びに身を震わせている。

「紅林さん、お久しぶりです」

やっと我に返ったオトメチャンはそういって敬礼した。常夏のトレーラーの日差しのもと、オトメチャンは敬礼の手を下ろすとやっと、微笑みを浮かべた。紅林さん、と言って一歩彼のほうに歩み寄ったオトメチャンであったが紅林は逆に一歩、あとじさった。

が、紅林は思い直してオトメチャンのほうに二歩ほど近寄った。どうやらオトメチャンはそんな彼の行動に不信を抱いてはいないようだ、紅林は内心ほっとした。(気取られてはならん)と気を引き締めた。

オトメチャンは彼の前にたつと

「あれからどのくらいたったか、うちはもう逢いとうて逢いとうて…。でもこうしてやっと逢えてうちはうれしい。ほいであの、紅林さん」

樋って恥ずかしげにうつむいた。紅林は笑顔を作りながら

「どうしたんじゃね、桜本さん」

というとオトメチャンは顔を上げて「祝言。祝言のことです。その…いつがええか思うてずっと考えとりました」と言ったのに紅林は衝撃を受けた。乾いた声で

「祝言…かね」

と言い、桜本兵曹はうなずいて「はい、今度逢うたら祝言の日取りを決めんといけんねえいうて手紙にも書いてくださったじゃないですか」と言った。

しまったことをしたと紅林は内心舌打ちした。彼の心は慌てまくって

「ああほうじゃね…いやその、つまりだね…うん、あの」

としどろもどろになっている。それをオトメチャンは男性の恥じらいではないかと思い、フフッとほほ笑むと

「そんとにあわてんでもええです。うちらもまだ内地にいつ帰れるかわからんのじゃけえ。それともここで式を挙げますか?」

と言って紅林の心はさらにびっくりして動悸が激しい。

でもその驚きやらなんやらをけっしてオトメチャンに気取られてはならない紅林は、彼女に歩み寄るといきなりのように抱きしめた。

「紅林さん…いけん」

と恥じらうオトメチャンに紅林は

「私もまだここに来たばかりじゃし、合弁の仕事がいよいよ本格的になってきたけえ式はまだ挙げられんのじゃ。桜本さんもいろいろと忙しかろう?じゃけえもうちいと先へ延ばしてもええんじゃないかね。そんとに急がんでもええと私は思うがの」

と言って抱きしめた腕を解いた。オトメチャンは自分から体を離した紅林をしばし見つめた、そして

「なんで?なんでそんとにあっさりしとりんさるんですか?前は『早う一緒になりたい』『早う式を挙げたい』いうておられたのに?なんじゃ、紅林さん変じゃわ」

と不審げな表情を浮かべて言った。紅林はそんとなことがあるわけないわい、と慌てたがオトメチャンは不審のまなざしを紅林に向けたままである。

紅林は慌てまくって

「そんとなことない、なにいうとんじゃ。忙しいいうとるじゃろ?じゃけえ式は当分なしじゃ。ええな、ならワシは忙しいけえ行くで!」

というと一散に走り去ってしまった。紅林さん!と叫んだオトメチャンを振り返ることもしないで、紅林はずっと遠くへと去ってゆく…

 

「なんで?なんでそんとに逃げるように行ってしもうたんね?紅林さん」

オトメチャンは紅林の去った方向を見つめたまま涙を流していた。二種軍装の胸に、涙がいくつもいくつも走っては足元の砂の上に落ちる。

足元の砂の色がだんだん濃い色に変わって、オトメチャンの嗚咽が高まる。どうしてどうして、というつぶやきが、なんでねなんでじゃと叫びに代わって、やがて彼女は砂の上に座り込んで号泣し始めた。

 

そのオトメチャンを発見したのは、仲間と散策していた長妻兵曹である。

長妻兵曹はヤシの樹の陰にうずくまる人影を見つけ、仲間に「あれ、誰じゃろう?海軍の制服を着とってじゃ」と言って走り出した、だんだん近づくにつれ仲間の一人が「ありゃオトメチャンじゃわ、どうしたんじゃろう」というに及び長妻兵曹は全速力で走りだした。そしてうずくまる彼女の背に手をかけ

「どうしたんね」

と抱き起すと果たしてそれはオトメチャン。長妻兵曹は「オトメチャン、どうしたんじゃね!」と大声を出し、仲間も彼女を取り囲み心配そうに見つめた。オトメチャンは軍帽もどこかに転がったまま、顔には白い砂がつき、泣きじゃくっている。

「どうしたんじゃね、オトメチャン!」

長妻兵曹は強い語調で言って両肩をつかむと激しく揺さぶった。仲間の兵曹の一人が転がったままだった桜本兵曹の軍帽を拾いそれをもってそばにしゃがんだ。それを合図のようにオトメチャンは

「く、紅林さんが。紅林さんが…」

と言って泣く。紅林がどうしたんじゃ、と問う長妻兵曹にオトメチャンは振り絞るような声で

「紅林さんはうちとの祝言をとうぶん無しじゃと言ったんじゃ。変じゃわ、今まではように祝言を挙げよういうとったんに、なんで急にそうなるん?なんでうちの顔を見たとたんそんとなことになるん?変じゃわ…」

というとその場に突っ伏し大声で泣き出した。長妻兵曹たちは、掛ける言葉すら失って泣き続けるオトメチャンをただ、見つめるだけであったーー

 

泣きそぼって『大和』に帰艦したオトメチャンを見、その詳しい話を長妻兵曹たちから聞いて烈火のごとく怒ったのは小泉兵曹と高田兵曹それにオトメチャンの従姉の岳野水兵長である。岳野水兵長は

「あれだけオトメチャンにご執心だったくせになんで今更躊躇するんか?おかしい。やはりあの時の女の人となんかあるんじゃろう」

と怒りをぶちまけ、小泉兵曹も

「そんとな男とは思わんかった。なんでここに来手連絡が途絶えたんか思うたら岳野さんの見た通りじゃな、とんでもないやつじゃ、進次郎にうちはご注進するで!黙っとれん」

と怒りまくる。高田兵曹は

「なんと気の毒なんはオトメチャンじゃ。信じて待って、ほいで結婚の日も近い思うたんにこげえなひどい仕打ちがあってええもんかい!おい、小泉兵曹。そん男引きずり出してこいや」

と吠える。

しかしこの話は三人だけの話であって、まだオトメチャンには「女性の影」の話はしていない。あまり次々にショックを与えてはならないとの配慮からである。

「ほいでもなあ」

と高田兵曹が言った、「いつまで隠しとってええもんでもあるまい?」。

岳野水兵長もうなずいたが

「ほうじゃね。しかしどういうて話したらええか、うちははあようわからん」

と頭を抱えてしまった。

小泉兵曹ははあーっと大きな吐息をつくと

「ほんまにほかに女ができたんじゃろうか。自分からオトメチャンに交際を申し込みながら、ほかに簡単に女を作れるものなんじゃろうか」

とまだ頭を抱えている。

皆の大きな吐息が、トレーラーの空に広がってゆく。

 

そんな折、「小泉商店」トレーラー支社長の小泉進次郎は気になる話を小耳に挟んでいた――

  (次回に続きます)

 

                ・・・・・・・・・・・・・

そんなばかな!

せっかく会えた二人なのに、紅林はやはり英恵に心をすっかり移し、オトメチャンを邪険にしました。その上ずたずたに傷つけてしまって…。

仲間たちも心悩ましているこの事態、どうなるのでしょうか。今後をご期待ください。

関連記事

恋は乱麻のごとく

紅林は、小泉支社長の姉からの手紙を渡されたーー

 

支社長の前を辞した紅林は、封筒から便箋を引き出してそれを開いた。そこには小泉兵曹の几帳面でやや小さめの文字でこう書かれていた――

 

――紅林様。いきなり手紙を差し上げる失礼をお許しくださひ。さて、あなた様の許嫁であり私たちの戦友である桜本トメ海軍一等兵曹は過日、特別任務を無事終えて帰還しました。そしてあなた様は桜本トメ兵曹がこの地を離れたその日にトレーラーに到着なさつたと伺つてをります。あれからひと月が過ぎてをります。

桜本兵曹はあなた様にたいへん会いたがってをります。無理もありません、内地を離れてからこちらずっとあなた様と逢っていなひのですから、許嫁の身ならどれほど会ひたいことでせう。桜本兵曹は、(否、彼女だけでなく我々もですが)あなた様からいついつ会へる、といふ連絡がなひことに不安がってをります。彼女の不安は私たちの不安でもあります。お忙しい時とは存じますがだうか彼女の気持ちをお汲み取りいただき一刻も早く桜本兵曹にご連絡をいただきたひと乞い願ふものでありますーー

 

読み終えた紅林は便箋を元通り丁寧にたたみ封筒に戻すとほうっと大きな息をついた。(お嬢様が手紙を書いてくるとは…厄介なことになった)そう思って苦々しい表情になった紅林であったが、さらに彼を憂鬱にさせることがそのすぐあとに起きた。

紅林が事務所で仕事をしているところに柴本が「紅林君、内地から郵便が来たから仕分けしておいてくれるかな?悪い寝忙しいのに」と言って大きな袋に入った郵便物を持ってきて紅林の横の机の上に置いた。

「いいですよ、ちょうどキリのいいところですので。…おお、結構重いですねえ」

そういって受け取った袋には、<小泉商店>社員の、家族他からの手紙がたくさん入っているようで紅林は思わず微笑む。

それらを各社員のあて名ごとに分ける。分け終えたら各々の社員の机上の箱に入れておく決まりになっている。

もうあと数通というところで紅林の手が止まった。一通の封書のおもてには「紅林次郎殿」と書かれている。

(誰からだろう?)

紅林は何気なくその封書の裏を見ると、自分の父親の名前である。

(珍しい、おやじ殿が手紙を寄越すなんか何年ぶりだろう)

紅林は、自分あてのその一通を自分の机の上に置くとすべての郵便物の仕分けを済ませ、それぞれの机の上の箱に入れて行った。それが済むと彼は自分の椅子に座り、久々の父親からの手紙を読もうと封を切った。

中身を引き出し、その文面を呼んでいた彼の表情がみるみる曇った。

便箋には父親の達筆で、「ふた月ほど前に桜本トメさんの養子先に挨拶に行ってきた。皆さん良い人ばかりで安心した、この上は早くトメさんに逢いたいし祝言も早く上げさせてやりたい」ということが書かれていたのだ。

(まさかあん人の故郷に行ってその養家にまで訪ねていたとは)

余計なことをして、と紅林は本気で腹を立てた。そんなことをされたら俺はトメと結婚せざるを得なくなるではないか、それは困る…。もうすっかりオトメチャンから心を離してしまった紅林は悩んだ。がしかし彼は

(いざとなれば何とでもいえる。嘘を言っても許されるだろう、あん人が他に好きな男が出来たとか何とか適当なことを言ってしまえばいい)

ととんでもないことを考えている。

それはともかくも今直面している困りごとは小泉兵曹からの手紙の内容、(お嬢様からの話とあればむげに断れない、もし英恵とのことを嗅ぎつけられたら会社を追われるかもしれない)と保身に考えが及ぶ。

とりあえず…逢う約束だけはしておかないと。

紅林はそう決めて、父親からの手紙を懐に入れた。

 

オトメチャンのもとに、紅林からの知らせが来たのはそれから間もなくだった。たまたま上陸していた小泉兵曹に<小泉商店>社員の一人が「これを託されました」と手渡してきた手紙、「やった、紅林さんじゃな」と心の中で歓喜の声を上げた小泉兵曹は艦に戻るなり

「オトメチャンオトメチャン、とうとう来たで!」

とオトメチャンに抱きつくようにして託された手紙を握らせた。ええ、ほんまね?とほほを紅潮させるオトメチャンに小泉兵曹は

「ほんまじゃ、早う読みんさい」

とほほ笑んだ。うん、うんとうなずいて震える手で封筒の口を切り、中の便箋を引っ張り出し読むオトメチャン。

「どがいなね?」

と心配げに尋ねる小泉にオトメチャンは微笑んで

「次の、うちの上陸日に逢おうって。なけえ、上陸したら電話をしてくれんさい、って」

と言い小泉は猶喜んで「ほんなら<小泉商店トレーラー支社>の電話番号を教えて置くけえね。…えかったねえオトメチャン、待った甲斐があった言うもんじゃわ」とかすかに涙ぐんだ。そして

「電話するんなら目抜きに大きな食堂があるじゃろ、<ニッポン>。ほうじゃうちらがよう使うあの店じゃ、あそこで電話を借りんさい。ほしたら誰にもわからんで話ができるけえの」

と教えてやった。

オトメチャンはその、友人の心遣いに感激し瞳を潤ませて「ありがとう。すまんのう小泉兵曹」と言ってその両手を取って感謝を表した。

 

その日から三日後、オトメチャンの上陸日である。

オトメチャンは心弾ませて上陸場から街中を目指した。そして小泉兵曹に言われたように<ニッポン>に入ってコーヒーを喫した後「すみませんが電話を貸してつかあさい」というと店員は快く貸してくれた。そして交換台に教えられた番号を告げ、少し待つと相手方が出た。

<小泉・南洋合弁準備室>です」

と柔らかな女性の声がした。オトメチャンは緊張して「私は海軍一等兵曹桜本トメと申します。あの、紅林次郎さんはお手すきでありますか?」と言った。

一瞬…電話の向こうの女性が黙ったがオトメチャンには気が付かない。すると電話の向こうの女性の声がさっきより硬くなって

「お待ちください」

というとしばらくのあいだ静かになった。

 

電話を取ったのは香椎英恵。英恵は固い表情で事務室の外に出ると、柴本や南洋新興の社員たちと休憩中の紅林のもとに駆け寄り「紅林さん、お電話です」というとさりげなく踵を返し事務所へ戻った。紅林は「ちょっと失礼します」と皆に会釈して事務所に走る。

事務所の入り口近くで紅林は英恵に掴まった。

「どういうことですの、あの方が電話してきましたが」

英恵の瞳には不信感があふれている。次郎は周囲を見回した後いきなり英恵にくちづけたあと

「別れるために逢うんだ。心配するな」

と小さくしかし、鋭く言うと電話に向かった。

 

「お待たせしてしもうて…、紅林です」

懐かしい声が聞こえてきてオトメチャンはうれしさに涙がにじんだ。オトメチャンは受信機部分をしっかり耳に当てると

「おひさしぶりです紅林さん。桜本です」

と言った。心なしか声が震えている。喜びが声も体も震わせるのがわかった。紅林は、オトメチャンにトレーラー水島の中の静かな入り江の名前を言うと「そこで待っています」というと電話を切った。

オトメチャンは喜びに震えたまま、<ニッポン>の店員に丁寧に礼を言うと店を出た。

目抜き通りを走るオトメチャン、その姿には最近なかった弾みが見えて、行き交う人々は目をそばだてる。

「あの下士官、嬉しそうだねえ」

「ああ、なんかいいことがあったのかあるのか。あやかりたいものね」

「キレイな海軍サン。キラキラしてル」

などとささやきあい、ほほ笑んで彼女の後姿を見送る。それほどオトメチャンは輝いていた。

 

紅林は「ちょっと出てきますがすぐ戻ります」と言いおいて事務所を出た。すると英恵が追いかけてきて

「紅林さん…」

と心配そうな顔で言った。紅林は立ち止まり彼女に向き直ると微笑んで

「心配しなさんないうとるんに、そんとな顔して。私にはもう英恵さんしかおらんのじゃけえ心配しなさんな。別れるためにはそれまでにしておくことがあるんなけえの」

と言ってその肩をやさしく叩いた。本当に?という英恵に紅林はまじめな顔になると

「ほんまじゃ。そうでなければ…あがいなこ(・・・・・)()せんわい」

と言ってほほを赤らめ、その意味が分かった英恵もほほを紅く染めてうつむき「わかりました…。行ってらっしゃい」と言って彼を見送った。

 

オトメチャンは約束の入り江に、紅林より早く着いた。それはとりもなおさず彼女が通りを風のように駆け抜けてきたに他ならない。それほど彼女は紅林に逢いたかった。

ハアハアと息を切らし、入江を一望する場所にオトメチャンは立った。

(やっと、ようやっと逢える)

心弾ませるオトメチャンの軍装の裾を、やさしい風がそっと吹き上げた。そこに

「桜本さん」

と声がかけられ、振り向くとそこには紅林次郎がいたーー

  (次回に続きます)

 

                     ・・・・・・・・・・・・・・

やっと、やっと逢えた紅林ですが。

彼にはすでに契った人が居る。それも体の交わりさえできてしまった人が。それを知らないオトメチャンも、小泉兵曹たちも悲劇の中心にいるのですが。

緊迫の次回以降をお楽しみに。

関連記事

遠近の春

桜本兵曹がその許婚の紅林次郎からの連絡をひたすら待っている間に、別の兵曹の結婚の話はどんどん進んでいた――

 

その兵曹は高田佳子兵曹。婚約者の佐野基樹は(早く結婚式を挙げたい、夫婦になりたい)と切に思い、内地の高田の養母に手紙を書いたのだった。曰く、…佳子さんからもう私のことはお聞き及びだとは思うが私は早く佳子と結婚式を挙げたい。かといって内地にはすぐには帰れないとなると彼女の晴れ姿をおかあさんに見せられないということになって大変心苦しい、ついては私の勤務する<南洋新興>の船が今月末に広島からこちらに来る便があるので、私が話をつけておくのでそれに乗ってこちらにいらしてほしい、そしてきちんと式を挙げたい…といった内容で兵曹の養母・瑞枝の喜びは大きいものであった。

佐野からの手紙を嬉しそうに読んだ瑞枝は

「そうね…ほいじゃあお言葉に甘えてその船に乗せてもらおうかねえ。よっちゃんの晴れ姿を外地で見られるなんうちは幸せじゃわ」

と言って手紙を大事に懐に入れた。

その手紙を書いたという話を佐野は高田兵曹にして、兵曹はうれしくなって佐野に満面の笑みを見せた。そして

「佐野さん…ほんまにありがとうございます。うちのおかあさんにそんとなまでに気をつこうていただいて。お母さんもよろこんどってでしょう。ほいでもう結婚許可は下りとりますけえ、いつでも平気です」

と言った。佐野も満足そうにうなずいて

「それは良かった、ではお母さんがこちらにつき次第日にちを決めましょう」

と言って二人は嬉しそうにほほ笑みあった。高田兵曹は、自分の<>の二階で佐野と並んで海を見つめながら

「うちら…思えば<あの時>結婚せんでえかったと思います。あの時結婚していても本当に幸せにはなっとらんかったでしょう。今だからこそお互いに大好きで大切で幸せになれるいう気がしとってです」

と言った。海からの爽やかな風が高田兵曹の髪をそっとなびかせた。その兵曹を愛しげに見つめて佐野も

「私もそう思っていました。あの時はまだお互いに若すぎて幼すぎました。あの時一緒になって居ても互いに傷つけあってダメになって居たでしょう。あれから何年かが過ぎてお互いに人生経験を積んだからこそ再び出会えて一緒になりたいと思えるようになったと…まさに天の配剤でしょうか」

と言うと高田兵曹を抱き寄せた。

明るいトレーラーの空と海の青を二人は見つめながら、これ以上ない幸せな思いに支配されていた。

 

そんな思いをしている二人がいる反面、桜本兵曹は何か浮かない顔つきで『大和』艦内にいた。今日は半舷上陸で多くの将兵嬢が(おか)に上がっている。石川兵曹も久々の上陸で跳ねるような足取りで出て行った。皆それぞれの楽しみのためにうれしさを抑えかねているように見える。桜本兵曹は上陸場のあたりに視線を当てて「ええねえ…みんな」と独り言ちた。紅林がここトレーラーに来てからもうひと月になるのに彼からは何の連絡もない。小泉兵曹が何か知ってはいまいかと話を聞いてみたが

「うちも何も聴いとらんのよ…進次郎に聞いてはおるがなかなか忙しいらしゅうて返事も寄越さん。ほんまにすまんねえ」

というばかりである。桜本兵曹は、あまり小泉にせっつくのはやめておこうと思った。彼女や彼女の弟も忙しい立場であるから人の許嫁の動向に気を配っているわけにもいかないだろうから。

(ほんならうちがもっと手紙を書いたり…逢いに行けばええんじゃ。ほうじゃせっかくここに居るんなけえ、じかに逢いに行ったらええんじゃ)

桜本兵曹は、そう決断した。

小泉商店の場所はいつか小泉兵曹に教えてもらってわかっている。忙しいところを悪いとは思うが逢いに行けば絶対に顔を見ることができる。オトメチャンの胸は弾んだ。(今度の上陸の時、逢いに行こう)

うちの心は紅林さん、あなたにずっと預けてあります。そしてずっと返事を待っとります。じゃけえ早うにいついつなら逢える、言うて返事を下さい。うちはあなたのことをずっと待っとります…ほいでもちいと待ちくたびれました。ほんの少しでもええ、あなたのお顔が見たい。

オトメチャンは心の中で紅林に呼びかけていた。

 

そんなころ、『小泉商店』『南洋新興』合弁会社の周辺では妙な噂が立ち始めていた。

「なあ、最近夜中になるとどっからか妙な声が聞こえてこんか?」

<小泉商店>の一人、柴本である。彼はこの一週間ほど夜中に厠に起きたときやふと目覚めたとき<妙な声>を聞いたのだと言った。

「ほう、どんとな声ですかねえ?」

と興味津々で訪ねるまだ若い増田が尋ねると柴本は「なんていうたらええんかのう。うーん、なんかこううめき声にも似とってじゃ。じゃけえうちは話に聞いた南方妖怪なら恐ろしいけえ走って自分の部屋に帰ったわい」と言って増田に「なーんじゃ、柴本さんは弱虫じゃのう」と笑われた。ほかの社員たちも笑いその話はいったんそこで終わった。

さらに<南洋新興>の社員たちも「最近宿舎内でおかしな声が聞こえるときがあります」と話している。グアム支店長のみでトレーラーに出張してきている佐野基樹はその話を聞いて

「おかしな声ねえ?海鳴りとか、鳥の声を聞き違ったんじゃないかね?」

と言ったが数名の社員たちは真顔で

「そんなんじゃないんです。本当に人の声のようです。なんというのかうめき声にも似ています」

と真剣な顔で応えて佐野は「まさか…」と苦笑した。が、以前に高田佳子から

「トレーラーにも妖怪がおってですよ。うちらの艦にも出たことがあります。あがいなもんはどこでも居るんですねえ」

と聞かされたのを思い出した。そしてそれらの南方妖怪は「うちらの艦には<陰陽師>みとうな下士官の居ってですけえ、そん人に祓ってもらいました」と言ったのも思い出し、彼ら社員のほうを見つめると佳子から聞いた話をして

「あまりいつまでも続くようならその人に頼んで払ってもらわんといけないかもしれないね。仕事に支障が出ては困るからね」

と言った。

 

その話を、さりげない表情で聞いていた<小泉商店>紅林次郎。そして<南洋新興>香椎英恵は、その日も暮れ始めたとき浜辺でこっそり逢うと

「聞いたかいあの話」「聞きました?あの話」

と言い合った。二人は互いにうなずきあって紅林は

「まずいな…。我々のことを知られたら困るけえの」

と苦り切った表情で言った。英恵はなんだか悲しげな表情になるとうつむき

「逢うの…やめるんですか?噂になったら困りますものね、将来のあるあなたですもん…。それであなたは海軍のあの人の所へ行くんでしょう!?」

と言った。その頬を涙が流れて落ちた。すると紅林はがっと英恵の両肩をつかみ怖い顔で

「誰がやめるものですか!私はあなたが好きだ、絶対離さない!知られんように上手うやったらええんじゃ。これから宿舎で逢うんは辞めよう、どこで会うかは私が考えるけえ、ちいと時間をください。ええですね?」

と言った。その真剣な表情に、英恵は心の奥からよろこびが沸き上がるのを感じ思わず彼に抱きついていた。

紅林は彼女を抱きしめながら

「ほういやあ、街中で私たちのことが軽く噂になっているとも聞いたけえ、そっちも気をつけんといけませんね。こんなことがあれの耳にでも入ったら大ごとなけえね」

と言った。英恵は紅林の胸の中で

「こそこそしなくちゃいけないなんて、悔しいわ。堂々と歩いていいと思うのに」

と言って涙を流す。紅林は赤子をあやすように体をやさしく揺すりながら

「もうちいと待ってつかあさい。わたしにも考えがありますけえね。それまで窮屈な思いをさせますがどうかこらえてつかあさい。決して悪いようにはしないから安心して?」

と言い、英恵も「はい…わかりました。あなたに従います」と答え、二人は唇を合わせたーー

 

そのさらに一週間ほどのち、小泉兵曹は巡検後岳野水兵長を訪い「その後どうなっとりますかのう?」と尋ねた。

岳野水兵長はうんとうなずくと

「あれからうち、注意して街中やら港やら見とるんじゃがあのどっちの人にも会わんですわい。やっぱし、あれはうちの見間違いじゃったんかもしれませんのう」

と言って小泉兵曹は何かほっとした気分になった。がしかし、

「となると何で紅林さんは何の連絡もオトメチャンに寄越さんのじゃろうか?変じゃのう。焦らすにしても限度いうもんがあろうが」

とまだ不信感に心を占められているようだ。岳野水兵長もそれには

「それはほんまに変じゃのう…。そうじゃ小泉兵曹、こうなったら一度オトメチャンを紅林さんにじかに逢いに行かせたらどうじゃろうか?その辺の手はずは小泉さん、あんたがしたらええよ。友達の株、あがるで!」

と言って小泉兵曹は「それもそうですね、いつまでこうしとっても仕方がない。こっちが動かんと、もしかしたら向こうさんも動けん状態なんかも知らんし。―わかりました、うち紅林さんに連絡とってみます。うちからの話なら、あん人も何とか言うてくるじゃろうから。岳野さんありがとうございました、どうぞこれからもよろしゅう願います」と頭を下げ、岳野水兵長は微笑んで

「ええですよそがいなん。それより小泉さんもどうぞよろしゅう願います」

と言ってその晩は別れた。

 

それから数日ののち、紅林次郎は支社長の小泉進次郎から

「わたしの姉から手紙が来ています。読んでやってください」

と手渡された封筒こそ、紅林とオトメチャンとの再会を願う小泉兵曹からの手紙であったーー

   (次回に続きます)

 

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全く連絡のない紅林を、それでも待ち続けるオトメチャン。その反面結婚式の話がついに出た高田兵曹。明暗がくっきり、となってしまうのかそれとも…。

オトメチャンひたすら春を呼んでおります。

 

松任谷由実「春よ来い」 
関連記事

いとし子よ 横須賀編 2 解決編

継代が桃恵の兄夫婦の家に行って三日目――

 

その日の朝、智一大尉は「私は今日ちょっと帰りが遅くなります。もし何かあったらすぐに連絡をしてくださいね」と言った。例の<松岡式防御装置>の横須賀海軍工廠側の本格実験が間近であるので忙しいというのを桃恵もわかっていた。だから

「はい。解りました…もしかしたら泊まられるかもしれませんね。私は平気です、まだ何の気配もありませんもの。予定の日までまだ十日もありますし」

と安心させるようにほほ笑んだ。その桃恵に大尉は

「すまないね、大事な時が近いというのにいてあげられなくて。私は本当に心配だ…お兄さんのとこにも連絡をしておくが決して無理をしてはいけないよ?明日私が帰るまで外に出てはいけない、いいね?」

と言って抱きしめた。夫の背中に両手を回し抱きしめて桃恵は

「ありがとうあなた。…はい、遠出は致しません。でも今日はちょっと郵便局に用事がありますの、それだけ済ませたら家に居りますからね」

と言った。それならいいけど、でも気を付けてと智一はまだ心配そうな顔でいる。平気ですよ、大丈夫と桃恵は言って夫の背中に回した手に力を入れた。

智一は「わかった…では行ってきます」とほほ笑み、そっと桃恵の唇に自分のそれを重ね、そして玄関へと歩き、きちんとそろえてある靴を履いた。そして敬礼。頭を下げ「行ってらっしゃいませ」と桃恵の礼をうけて満足そうな顔で彼は出勤していった。

さてと、と桃恵は独り言ちると食卓を片付け洗濯を始めたーー

 

工廠に向かう三浦大尉はその途中で『武蔵』の北野中尉に出会った。北野たけ中尉は几帳面な挨拶をして「また先日はお邪魔してしまって申し訳もございませんです。その後奥様はいかがですか?」

と問うた。かつての部下ではあるが今は海軍技術大尉の妻であるから<奥様>と言ったが何かしっくりこない。それを察した大尉は微笑みながら

<桃恵>と呼んでやってください。おかげさまで桃恵も変わりなくおります。またどうぞいらしてやってください。桃恵も喜びましょう。私は今夜、もしかしたら職場に泊まり込みになるかもしれません。桃恵のことが心配ですが、何事もなく過ごしてくれるとは思っています」

と言った。北野中尉はその切れ長の目を瞠って

「桃恵は今夜一人なんですか…。そういえば継代ちゃんはおにいさまの家にあずかってもらってると伺いました。すっかり彼女は一人になるわけですか。うーん…」

とうなった。なにか胸の奥がもやもやしていやな予感がする。北野中尉は顔を上げて

「では今夜、私がおうちに伺います。なに、今日軍需部に行けばほかにはすることも無し、平気ですよ。夜におうかがいして様子を見てまいります」

と言った。三浦大尉は「それでは申し訳ないです」と言ったが北野中尉は

「なんの。これこそ分隊長の特権です。それに我々は少し、医療をかじっていますから何かあったとしても対応できます」

と自信を持って行ったので大尉は嬉しそうにほほ笑み「それではよろしくお願いします」と言い、二人は「ではごきげんよう」と別れた。北野中尉は急いで軍需部に走った。

(何か嫌な予感がする、今夜はあと二人ほど連れて桃恵のところに行こう)

そう思いながら。

 

桃恵は、昼前までに郵便局へ行き用事を済ませ家に戻った。継代の不在の家はなんだか寂しいし手持無沙汰で、なにをしたものか桃恵は迷った。では、と庭の片隅に作った小さな畑を見に行き、菜っ葉を少し摘んだ。今夜は智一も不在、となるとそれほど夕飯もいらない。ふう、と息を吐いた桃恵はお腹の張りを感じた。

(あらいけない。ちょっと張りきり過ぎたかしら)

と思った彼女は菜っ葉を台所の流しに置くと居間に入り、その身をそっと横たえた。そしてそっとお腹を撫でながら(お願い、今夜はお父様がいらっしゃらないの…明日まで待って?)とお腹の子に話しかけるのであった。

 

『武蔵』に取って返した北野中尉は村上軍医長に事の顛末を話した。村上軍医長は「春山…ではなかった三浦さんがたった一人で家に?それはいけないね、では北野中尉、秋川兵曹長と剣持兵曹を連れて今夜彼女の家に行きなさい」と言ってくれた。そこで北野中尉は剣持兵曹を呼び出すと早速上陸のため準備を始めた。

 

その日も暮れたころ、桃恵はお腹の張りが規則的になって居るのを感じた。(どうしよう、規則的になってきている)

ということはお産がごく近いということであると彼女は思い、かねてから用意の入院のための荷物を隣の部屋から出しておいた。そして(そうだ、隣の宮内さんに言っておこう)とそっと家を出て右隣の宮内の家の戸を叩いた。が、応答がない。桃恵は思い出した、(そうだった、昨日からご実家に行ってらっしゃるんだった)左隣は最近越してしまって空き家である。

(ならその先の…)と歩を運ぼうとしたとき、ぬるりとしたものが股の間から出てきたような感じがして、いけない!と慌てて、しかしゆっくりと家に戻った。

「しるし」が下りてきていた。

居間に座り込んで、(電話をしなくては…)と思ったが張りがきゅうきゅう来て動けない。

このまま赤ちゃんが生まれてしまったらどうしよう、早く智一さんに連絡しないと…

桃恵は、お腹を押さえてその場にごろっと横になってしまった。

 

それから一時間ほどして、三浦家の玄関を叩く音がした。

北野中尉と剣持兵曹である。しかし応答がない。「留守ですかねえ」という剣持に北野中尉は首を振り

「そんなはずない。三浦大尉は『彼女は今夜一人きり』だと言っていた。大尉は今夜遅くなるかあるいは泊まり込みだとおっしゃっていたから間違いない」

となると。

「緊急事態かもしれない」と二人は顔を見合わせ、玄関のカギをこじ開けた。そして「桃恵さん、桃恵!」と呼びながら中へ入った。居間に入った二人「暗いなあ」と電灯をつけると座卓の向こうに桃恵が横たわっているのを見つけ思わず「春山兵曹、どうしたっ」と旧姓を叫んで駆け寄った。桃恵は額に汗をかいていて、二人の顔を見ると「北野中尉…剣持兵曹!」と小さく叫んでその袖にすがってきた。北野中尉は

「大丈夫、もう大丈夫だ。産気づいたんだな。しっかりしなさい、いま自動車を呼ぶ」

としっかり桃恵を支えると剣持兵曹はうなずいて「電話を借ります!」と言って海軍病院に電話を掛ける…

 

『武蔵』の医務科の分隊長からの連絡とあって海軍病院からすぐに三浦家へ自動車が差回されてきた。官舎の一角の三浦家の玄関前に自動車が止まるとすぐに玄関の扉が開き、北野中尉に抱えられた桃恵が出てきて自動車に乗せられた。そのあとを剣持兵曹が荷物を持って出てきて、玄関に鍵をかけると自動車の助手席に入った。そして自動車はヘッドライトをギラリ光らせて一路海軍病院に急いだ。

 

桃恵入院の知らせは海軍工廠の智一大尉のもとへと、そして桃恵の兄の竹男とその妻、あやこのもとへも走った。兄夫婦は電話をかけてきた剣持兵曹に丁重に礼を述べた後

「幼い子供を預かっても居りますので、明日になりましたら病院に伺います。その旨桃恵に伝えてくださいませ。いろいろご迷惑をおかけして申し訳ありません」

と言って剣持は恐縮した。そして剣持は「私たちが付いていますからどうぞご安心を願います」と言って電話を切った。

そして海軍工廠では智一大尉の上司、喜木キリ中佐が最初にその知らせを受けたが電話を切るなり

「三浦さん、三浦大尉!あなた急いで海軍病院に行きなさい!奥さん入院したそうよ」

と叫び、同僚たちも「早く行ってあげなさい!」「急いで!」と彼を急き立て、智一大尉はなんだかとても不安になると

「では大変申し訳ありませんが行きます!また明日になったら…」

と言いかけたが喜木中佐に

「明日なんか大丈夫だから奥さんのそばにいなさいよう!」

と押し出され、夜の闇の中へと飛び出していった。

 

 

次の朝の、新しい光の中。

横須賀海軍病院産科病棟に大きな産声が響いた。分娩室前の椅子に座って待っていた三浦大尉、北野中尉そして剣持兵曹は互いに顔を見合わせて「う、生まれた??」とささやいた。ややして分娩室のドアが開き、産科の軍医の高梨美也子大尉がにこにこしながら出てきて

「三浦大尉、おめでとうございます。男の子ですよ。母子ともに無事です。…もう少ししたら病室に入りますからお待ちくださいね」

と言って、椅子から立ち上がった三浦大尉は「ありがとうございます!」と頭を下げた。北野中尉と剣持兵曹は「やった、男の子だって。よかったね…継代ちゃんいよいよお姉ちゃんだ」と手を取り合った。

それからさらに二時間後、桃恵は以前継代を産んだ時と同じ病室に落ち着いていた。ベッドの周囲には夫の智一大尉、そして兄夫婦と継代、そして北野中尉と剣持兵曹がほほ笑みあっている。

小さなベッドの中には男の赤ん坊が無心に眠っている。継代はベッドのふちに手をかけて「赤ちゃん。赤ちゃん…どうしてお眼眼開けないの?」とささやいている。

あやこが「もうちょっとしたら赤ちゃんお眼眼開けて継ちゃんを見てくれるわよ。お姉ちゃんだってわかるかなあ?」と言って継代は「わかるよきっと」と言って嬉しそうに笑う。

桃恵は夫に「北野中尉と剣持兵曹に昨晩大変迷惑をかけてしまいましたの…」と事の顛末を話し、智一大尉は二人に謝った。しかし北野中尉も剣持兵曹も

「謝らないでください大尉。我々『武蔵』の軍医長からも勧められてきたのですから。決して迷惑なんかではありません」

と言い切って大尉も桃恵も感激した。兄夫婦も「本当にありがとうございました、お二人がいらっしゃらなかったら」と言って感謝を表した。

 

 

智一大尉以外が病室を引き上げ、大尉は改めて新生児のわが子の顔を見つめた。

「継代の小さい時によく似ていますね、やっぱりきょうだいだ」

そういって喜びを表した。桃恵はそっと半身を起こして手を伸ばし、赤ん坊の頬をそっと指先で触れると

「あなたと私の愛しい子供たち…継代とこの子。大事に大事に育てます。いろんな素敵なものを見せてあげましょうね、そしてこの家に生まれてよかったって思ってもらえるように」

と言って大尉を見つめてほほ笑んだ。智一大尉は

「私たちの二人目のいとし子…桃恵、お疲れさま。ありがとう。そうだね、これから継代も一緒に大事に育てようね。きれいなものや素敵なものを見て感じて、豊かな心の子供たちになって欲しいね。そしてこの家の、この親の子供に生まれてよかったと思えるように」

というと妻をそっとベッドに寝かせると優しく口づけした。

傍らのベビーベッドの中の赤ん坊が、笑ったように見えたその日の朝であったーー

 

        ・・・・・・・・・・・・・・・・

桃恵さん無事男児出産でした!継代ちゃんとうとうお姉ちゃんになりました。三浦一家は優しい人たちに囲まれて幸せです。この先もずっと、幸せでいることでしょう!

 

「いとしごよ」NHKラジオ第一<午後ラジ>今月の歌です。とても素敵な歌です。

関連記事
プロフィール

見張り員

Author:見張り員
ごあいさつ・「女だらけの帝国海軍」へようこそ!ここでは戦艦・空母・巡洋艦駆逐艦などから航空隊・陸戦隊などの将兵はすべて女の子です。といっても萌え要素はほとんどありません。女の子ばかりの海軍ではありますがすることは男性並み。勇ましい女の子ばかりです。女の子ばかりの『軍艦大和』をお読みになって、かつての帝国海軍にも興味をもっていただければと思います。時折戦史関係の話も書きます。
尚、文章の無断転載は固くお断りいたします。
(平成二十七年四月「見張りんの大和の国は桜花爛漫」を改題しました。)

最新記事
最新コメント
フリーエリア
カテゴリ
月別アーカイブ
リンク
FC2ブログランキング
FC2 Blog Ranking

FC2Blog Ranking

最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード